EVO103系を組み立てる その6【完成】

2013年08月31日 23時46分07秒 | 鉄道模型/製作中-103系・広B09編成【完成】
前回の続きです。
夏休みの宿題、というわけではありませんが(実は数日前に完成していました)、キリよく8月中に完成を迎えることが出来ました。

さて、前回塗装した運転台の仕切りを実装します。


前面窓越しに。


妻面側から。
やはり効果的ですね。余裕があれば運転席周りを作り込むのも良いかもしれません。

次いでM車・モハ102の床下機器を貼り付けていきます。


床下機器の設置に先立って、ダイキャスト部分を黒塗り。


グレーに塗装した床下機器を適宜カットして貼り付けていきます。両端はほぼ無加工で取り付けることが出来ました。


いろいろと考えた結果、中央の床下機器はこのようにギリギリまでスライス。


上辺に瞬着を少量塗布して貼り付け後(この段階では仮止め)、下から1mmプラ丸棒を噛ませ、更に瞬着を垂らしてしっかりと接着していきます。平行と垂直に気をつけるのがポイントです。




機器の貼り付けを終え、瞬着で白化した部分もタッチアップを済ませたところ。
私が理想としている「T車のようなM車の床下機器」が再現出来ました。

そして…


広島運転所103系・広B-09編成の完成です。

以下、各車プロフィールを。


クハ103-161
糸崎方先頭車。


モハ103-239


モハ102-394(M)


クハ103-160
岩国方先頭車。

私にしては珍しく(?)、思い付きから約1ヶ月間のスピード製作でした。
今回は新しいキットの感触を確かめたいことから、床下以外は素組みに拘った製作(結果、床下では思いのほか苦労しました…)を実践してみましたが、製作のしやすさ、造形の的確さという点では従来のGMキットとは一線を画すもので、仕上がりもそれなりに満足のいくものとなりました。
電車の編成ものを製作したのは初めてのことですが、まさにEVOキットが標榜するところの「作る楽しみ再発見」を実感出来た製作であり、今後のバリエーション展開なども大変興味深いところです。


103系の完成とほぼ時を同じくして、来週にはTOMIXのキハ40系更新車も入線予定。
広島地区の車両が一気に増えることになります。

EVO103系を組み立てる その5

2013年08月27日 01時49分08秒 | 鉄道模型/製作中-103系・広B09編成【完成】
前回の続きです。
いよいよ屋根と床下、機器類を塗装し、実車で言うところの艤装に入っていきます。


ベンチレータを塗装したところ(塗料については後述)。
ゲートが取り付け足に設けられているので特段の修正は必要なく、このようにランナーごと塗装が出来るようになっています。これならば紛失の心配もありませんし、切り離しもニッパーを使わず指でクルッと折り取ることが出来るのも魅力的です。
従来のGMキットの場合、後付けの部品は1つずつ切り離してバリを整形、個別に塗装…という段階を踏まざるを得なかったのですが、このような細々した部品扱いの煩雑さがキット離れの一因となったこともまた確かであると思います(もちろん、大部分は完成品の台頭にあると思いますが)。
キット製作に面倒臭さを言うのは些か本末転倒ではありますが、こうしたメーカー側の細かな配慮も今後のキットには求められてくるのかもしれません。


続いてGM35番で塗装した屋根にベンチレータを取り付けていきます。部品同士の合いがちょうど良かったので接着剤は用いていません。
細かい造形がなされた台座もこれで見納め、後は屋根との隙間から僅かに覗く程度となります。


加工したランボードはこのような結果に。奥は比較用の岡山色です。
実は当初「大型」と紹介したのは誤りで、詳しく調べてみると、これは冷房改造が施工された鷹取工場特有のランボードだそうです。
お詫びがてら実車画像を…


13/08/17 クハ103-168 木津
先日、ちょうどその「斜めランボード」を有する数少ない現役車に遭遇する機会がありました。


拡大。
ランボードの型が斜めに降りているのが分かります。元の屋根肩のカーブも僅かに残っていることから、決して「大型」とは言いにくいですね。


とは言え、通常のランボードと比べて形状が異なるのは確かで、多少大げさながらも再現は出来たと思っています。
ところでこの屋根を塗装したGMの35番、元々の仕様なのか単に粒子が荒かったのかは分かりませんが、図らずもスエード調のように仕上がって実車に近い質感が再現出来ました。


床下と台車は先行してT車3両のみ塗装。
スカートが金属部品であることと、台車は塗料の乗りにくいプラなので、今回は初の試みとしてMr.の「プライマーサーフェイサー」なるものを使ってみました(屋上機器類も同じ)。実車の床下はもう少し暗めのグレーですが、機器や台車の表現にメリハリが生まれるという点では良いかもしれません。
そして画像からも分かるように、クハの床下機器は実車よりもスカスカになっています。これは完成後であっても後付けが可能な部分故、手持ちに適当な機器が無かったために現時点では止むを得ず省略としました。何卒ご容赦を…。(笑)


加工したモハユニットの台車もこの通り。移植した機器もプライマーサーフェイサーで圧着されたことで、丁寧に扱えば破損の心配もないと思われます。


動力車と台車を同じくするモハユニットのT車もKATOの台車を加工して使いますが、台車を留めるビスの両側にKATO特有の補強モールドがあるため、そのままでは腰高になってしまいます。
ここは台車の取り付け部分を可能な限り削り込んで対処しました。


動力車は初回でも触れた通りKATO製キハ20のもので代用しますが、窓ガラスのツメをKATO製品の床下に合わせて切り取って組んだ場合、上手くフィットはするものの少々腰高になってしまいます(おそらくKATO純正の103系床下を使えばきちんと収まるのでしょう)。
キハ20は車体裾にステップを有しているので多少の腰高は気にならなかったものの、ステップなしの103系ではこれが目立ってしまいます。
こうした課題を解決するのもキット製作の醍醐味ということで…


窓ガラスの下辺をギリギリまで切り取って、動力側も現物あわせで切削。


仮組み。
カバーが窓上に来てしまいましたが、何とか許容範囲です。これでT車と同じ車高となりました。
因みに側面の行先表示は単線レイアウトでも似合うように「可部」、反対側は「快速 広」としています。
それぞれ岡山色の塗装済キットに付属していたものを使いましたが、幕の位置が近接している先頭車(160番)の行先表示はどうやら使われていないようで、ここでも広島支社らしさを感じます。
追って動力車の台車・床下機器も塗装します。

次に室内加工へ。


室内の作り込みとして、T車の座席にはカットした画用紙を貼り付けました。実車はもう少し暗めの色ですが、屋根を載せると余計に暗くなるので、模型映えを狙って明るめの色を使用。


仮組みして光に当てるとこのような感じです。袖仕切りなども再現したくなってきますが、今回は割愛。


キットに付属する運転台の仕切りは表裏を違う色で塗装してみました。
芸が細かいことに配電盤やHゴムまで再現されています。小さい頃はこの覗き窓に身長が届かなかったので前面展望が叶わず、当時最新鋭だった221系や207系を好んでいた覚えがあります。

さて、残るM車の床下機器ですが…


床下機器を適宜分割・切削してダイキャストに貼り付けていきます(画像は仮付けの段階)。
今回は機器加工のしやすさを優先してパンタを有さないモハ102をM車としていますが、それでも中央部分はかなりの削り込みが必要ですね。

EVO103系を組み立てる その4

2013年08月24日 11時31分19秒 | 鉄道模型/製作中-103系・広B09編成【完成】
前回の続きです。
一度はカタチにしたものの、前面のスカート部分が少し気になったので高さを修正していきます。


金属製のスカートは脆い上、既に瞬着で強固に接着してあるので取り外しは困難。
ヘタに扱うと破損の恐れもあることから、ここは床板の先端部分をざっくりと切り離すことにしました。


適当にカットした0.5mmプラ板をスペーサーにして、補強を加えた後に再接着。


仮組み。
床板は固定していないので車高はまだバラついていますが、スカートが下がり、見た目にも安定感が得られました。
前面の列番・行先表示窓のガラスも貼り付け始めていますが、これは塗装後に表から貼り付けるガラスパーツのため、Hゴムが車体から出っ張るように仕上がってたいへん実感的です。もっとも、広島支社では前面行先表示が使われないので白幕にならざるを得ないのが悲しいところですが…。


再び岡山色とのツーショット。
塗装済キットの岡山色はもともと車高が高いのでスカートもそれほど気にならなかったのですが、やはりこれくらいの高さがベストのようです。

次に、上の画像でも見えていた連結器の加工に入ります。


先頭車の連結器はダミーとするため、GMキットの部品ストックから栓受けを含む土台のパーツを持ってきます。


連結器の本体はKATOカプラーをコンパクトに加工。


穴を開けた胴受けに、加工したカプラーを差し込みます。


組み立てたダミーカプラーを床板に接着した後、細切りしたプラ板で周囲の胴受けを作っていきます。胴受けの先端は補強も兼ねて床板と接するようにしています。
この辺りは本来であれば製品のダミーカプラーを使用するのが最も王道であり近道なのですが、手元に部品も無かったので雰囲気モノということで妥協します。


仮組み。塗装をすれば「らしく」見えるでしょうか。
しかしながら、片方の栓受けが垂れ下がり、胴受けも太くなってしまいました。要修正ですね。

EVO103系を組み立てる その3

2013年08月18日 16時34分11秒 | 鉄道模型/製作中-103系・広B09編成【完成】
塗料切れで中断していた塗装作業が4両とも終わりました。


可もなく不可もなく、と言った感じでしょうか。
塗り分け自体はシンプルなので、いずれ115系なども製作してみたいものです。

床下の加工に入っていきます。


前回、ベースを作った床板に0.3mmプラ板を貼り付けてロングシートの座面を再現していきます。幸い窓ガラスのツメは座面に干渉しない位置だったので難なく進みました。
先頭車は運転台の仕切りがキットに付属しているのですが、現時点ではまだ取り付けていません。


タヴァサの西日本型スカートを取り付けます。ご覧のように細くて脆いパーツなのですが、きちんと折り曲げて接着するとそれなりに強度が出ました。


スカートを取り付けた状態で仮組み。
どうも奥まっています。前面窓と一体のテールライトレンズが干渉しているのが原因のようです。


そこで、可能な限り床板の両端を切り欠いて、前面ガラスのライト部分もギリギリまで削ってみました。
台車には排障器(GM製)も取り付けてアクセントを。連結器はダミーカプラーを考えています。


再度仮組み。
これでスカートが前に出ました。もう少し下方にあると理想的でしょうか。
隣の岡山色は勢いで買ってしまった塗装済キットを組み立てたものですが、こうして並べると同じGM製品でも前面窓の大きさや屋根のR、ステップなどに差異が見られ、「103系の決定版」と謳うEVOキットの本気が窺えます。

伊勢志摩オトナの修学旅行 後半

2013年08月17日 23時59分59秒 | 旅行記
(前半はこちら)


文学館の出入口は2つあり、今度は反対側の道に抜けます。
構えを見る限りはこちらがメインの入り口のようですが、周辺はいわゆる歓楽街が広がっていて、現在では周囲から少々浮き気味。しかしかつてこの一帯は遊郭で、この文学館を撮っている軒下こそが…


「待合津の國」と呼ばれる、現在鳥羽に唯一残る遊郭建築(妓楼)となっています。
調べたところ幕末期の建築だそうで、戦後に荒廃していたところを近年外装のみ補修。今後については未定だそうですが、べんがら格子が今も色鮮やかに残っています。




往時は格子の隙間から遊女がこちらを見ていたのかもしれません。
京町家がそうであるように、妓楼、それも無人ともなれば維持や管理は莫大なお金が必要となってきます。事実、内装に関しては今も手つかずだそうで、建物だけが残されている現在の状態は何とも中途半端。五大遊郭に数えられる近場の伊勢市古市、参宮街道にある旅館「麻吉」が現役であるように、出来ればこの「待合津の國」も鳥羽の歴史を伝える遺産として何とか有効活用してほしいものですが、やはり観光資源としては真珠や水族館が依然優勢であることには変わらないようで、このままだと、次に朽ちる時こそがいよいよ終焉なのでは…と思わずにはいられません。
今後どうなっていくのか、注視していきたい物件ではあります。


こうした空間の持つ特性故か、周辺は遊郭が消えた後もスナックが建ち並んでいます。おそらく夜にはこれらの多くに電気が灯るのでしょう。


下半分の剥がれたタイルと、誰かの忘れていった傘が物悲しく…。


一通り街並みの散策を終えて海に出ると、山肌に張り付く幾つものホテル群が見えました。
おそらくこちらの暑さ(気温)も京都と大差ないのだと思いますが、やはり海の風があるぶん、少しは気持ちがいいですね。

それから鳥羽駅に戻って、今度は近鉄に乗ります。

鳥羽15:10発→賢島15:42着


近鉄特急は約10年ぶりの乗車です。
やって来たのは近所でもよく見る22000系ACEですが、座席は枕部分が固く、どうにも頭の位置が落ち着きません。
鳥羽から先は単線となって一気にローカル線の様相。幾つかのトンネルを抜け、連続するカーブを経て終点賢島に着きました。


賢島駅。
ロータリー直結だったのでこんな写真しか撮れませんでしたが、この賢島駅こそ、小学5年生時の学校行事で訪れた研修施設「みさきの家」の最寄駅なのです。その施設に向かうにはここから船の乗り継ぎを要しますが、幼かった当時、普段は縁のない海の風景、宿泊棟を闊歩するカニ、飯ごう炊さんで作ったカレー、「こんなにワイルドな自然があったのか!」と、見るもの全てが新鮮な光景として映ったことを覚えています。海から吹く風は当時と変わらず、次にここに降り立つことはあるのだろうか、そんなことを思いながら、とんぼ帰りで帰りの列車に乗り込みます。


そう、当時は行きがビスタカー(クジ引きで普通の平屋席に当たって残念だった思い出が)、帰りは伊勢志摩ライナーでしたが、今回は短区間ながら観光特急「しまかぜ」に体験乗車をすることに。
近鉄が式年遷宮へのアクセス手段として宣伝している以上、伊勢神宮最寄りの宇治山田以南はたとえ休日でも空席があるはずだと思い、鳥羽駅で空席を訊くと見事読みが当たったというわけです。

賢島16:00発→宇治山田16:40着


先ほどはじっくりと見ることが出来なかった車体を、この時は隅々まで。
現代に甦ったバブリーデザインと言うべきか、まさに「志摩の風」をイメージさせる爽やかなブルーに、アッパークラスの証であるさりげない金帯が上品さを漂わせます。


そんな「しまかぜ」、真正面から見ると、どことなくイルカのようにも見えます。同じくイルカをイメージしたJRの283系「オーシャンアロー」は丸みを帯びているので好対照と言えますが、近鉄線内ならば必ずしも装備を要するとは言えない前面の非常用扉は、やはり将来を見越してのことなのでしょう。


4号車のグループ個室は大窓の並ぶ贅沢な窓配置。この辺りは、長らく当地への観光輸送を担ってきた「伊勢志摩ライナー」に通じるものがあります。


乗車時間は短いので、停車時間も合わせて満喫するため早めに乗車。
指定された座席は運の良いことに先頭の6号車。ハイデッカーの車内に、飛行機や新幹線のグリーン車、それこそ「グランクラス」あたりを思わせる座席が並びます。


リクライニングは全て手元のスイッチで動き、更にはマッサージ機能も備えている豪華仕様。近鉄の本気を感じる設備です。
「しまかぜ」の乗車には通常の運賃に加えて特別料金が上乗せされる仕組みとなっていますが、実際に座ってみるとそれは納得に値するものでした。

そんな新型特急の感動に浸っていると、程なく発車の案内が流れ、宇治山田までのミニトリップがスタート。案の定賢島からの乗客は少なく、我々の6号車もゆったりとした時間が流れていきます。
次の停車駅・鵜方を出てから3号車のカフェコーナーに行きました。


カフェコーナーは上下階があり、先着順に2階から案内されるといったシステム。
カウンターの中では提供される軽食類の準備が着々と進んでいました。


乗車時間が短いということもあり、今回はホットコーヒーとカステララスクを。「しまかぜ」の複雑な前面造形を的確に表現したパッケージが見事です。
トレーやカップのふたは滑りにくいものが使用されており、揺れる列車内、特に鳥羽までのカーブが連続する区間でも安心して食事が楽しめました。


列車内のこうしたスペースで食事をするのはほとんど初めてのことで、淹れられたばかりの温かい珈琲を、流れゆく志摩や伊勢の豊かな自然を眺めながら味わうことが出来ました。
かつては多く見られた食堂車や列車内のサービス自体が縮小傾向にある現在、そうした「オプション」を敢えて新規に始めようとする姿勢からは移動時間を楽しいものにしようする意気込みが窺えます。
やがて何処からか、車内の名物メニュー「海の幸ピラフ」の香りが漂い始め、カウンターから姿を現したそれが我々の背後をスタッフの手によって客のもとへと運ばれて行きました。次の機会には是非賞味してみたいものです。


上質な時間こそ短く感じるもので、自席へ戻って一息ついていると宇治山田到着を告げる放送が。
荷物の支度をしてデッキに赴くと、同じことを考えていた「体験乗車」の家族連れや同好の士が意外にも多く見られ、「しまかぜ」人気の度合いが窺えました。
案の定、宇治山田では列をなして待っていた大勢の観光客が乗り込み、私の乗っていた6号車も満席に。先ほどまで寛いでいた自席も知らない誰かのものとなり、ここからが本番の「しまかぜ」は大阪難波を目指して出発、すぐ隣の伊勢市駅を目指して高架のカーブを駆け下りて行きました。


宇治山田駅。
貴賓室を備える国の登録有形文化財で、お伊勢参りの玄関口に相応しい堂々とした駅舎。近鉄の前身の一つ、「参宮急行」の響きが似合う佇まいです。

寄り道の近鉄はここまでで、徒歩でJR伊勢市駅まで移動します。
相変わらず陽射しのキツい時間帯ではありましたが、伊勢市と宇治山田のように大きな駅がこれだけ近接しているのもやはり伊勢神宮あってのことなのでしょう。ツーリズムの歴史も当地にあっては奥深いものです。


JR伊勢市駅、こちらは伊勢神宮や周辺の街並みに合わせた和風のデザインです。
こういったデザインは京都では散々目にするので特段何の感想も持たないのですが、威厳あふれる宇治山田駅を見てきた後だとどうしても見劣りします。両者の立場はここでも…と言いたくなりますが、秋にはキハ85系の臨時急行「いせ」が毎日運転されることから、JR東海もそれなりに力を入れるようです。
駅でお土産に赤福を買い(実は京都駅でも買える)、改札を入ってJRで帰路につきます。

伊勢市17:07(8分延発)→多気17:21(6分延着)


遅れていた快速「みえ22号」に乗車。
とは言えJRのキハ75も良い車で、快速列車にしてはなかなかのグレードを誇っています。少し前までは急行運用も持っていたせいか、車内の随所に優等列車にも通用する設備が見え隠れしているのがおもしろいところです。

まだ陽のある多気で降り、1月にも撮影したポイントへ。


多気駅は伊勢運輸区の中枢である一方、駅周辺は長閑な田園が広がっています。
このロケーションが気に入り、今回は友人を誘っての再訪と相成りました。


紀勢本線と参宮線が分岐した直後の地点。本来ならば反対側の大カーブを望む地点が順光なのですが、道中のこの景色が印象に残ったので留まって撮影することに。
やって来たのはキハ48で、畑の向こうに列車のシルエットが浮かび上がり、思い通りの一枚となりました。

多気18:35発→亀山19:40発

帰りは遠路新宮からやって来たキハ11の2連に乗車。ちょうど京都を始発で出て、紀伊半島を反時計回りに一周すると当たる便です。この時間帯は花火大会との流動とは全く逆のため、多気からでもボックスシートに着席することが出来ました。


亀山では乗り換えに少々時間が空いたものの、検査明けの211系第2編成に遭遇。
117系の引退に伴っていよいよJR東海最後の国鉄型電車となった同形ですが、当分は元気に走る姿を見せてくれそうです。
一方、気動車に関しては2015年度の新型置き換えが発表され、先ほど撮影したキハ48も来年度からは順次過去帳入りしてしまう運命。今回は行きと帰りにしか遭遇出来なかったので、次回は是非臨時急行「いせ」と絡めて再訪したいものです。

亀山20:21発(5分延発)→柘植20:50(5分延着)

柘植からは行きとルートを変え、草津線経由で帰宅することに。
時間は大差ないのですが、確実にやって来るクロスシートの車両に座ることで体力的はもとより精神的な負担も減らそうという目論見です。

柘植21:07発→草津22:04着

原色で残る117系6連に揺られて草津へ。
ここまで来ればもう関西圏、帰ってきたも同様です。

草津22:06発→京都22:28着

2分接続の新快速に乗り換え、またも友人とは京都で解散となりました。
やはりJRの普通列車利用では移動に時間がかかってしまいますが、それでも撮影が出来たほか、鳥羽の街並み散策、今をときめく(?)観光特急「しまかぜ」乗車と日帰りながらも盛りだくさんの内容でした。
関西に近接していながらもこれまで縁の薄かった三重県、今後も機会を見つけて訪問を続けていきたいものです。

伊勢志摩オトナの修学旅行 前半

2013年08月17日 23時59分58秒 | 旅行記
8/5(月)、8/8(木)に次いで8/17(土)は今夏3度目の友人との旅行。
3回とも違う友人というのが何ともおもしろいところですが、今回は2人とも「テツ」なので、通常の旅行らしい行程に加えて撮影や乗車などもふんだんに組み込み、互いが満足するプランを作成。
目的地は1月にも訪れた伊勢方面ですが、混雑するのを避けて伊勢神宮は次回以降の楽しみにとっておくことにして、まずは普段着の伊勢志摩を満喫することにします。

京都5:33発→木津6:24着


奈良線の始発電車は221系のトップナンバー。てっきり103系だと思い込んでいたのでこれは予想外でした。
「近郊区間大回り」も久しくおこなっていない現在、久々に奈良線を乗り通すこととなりましたが、府南部の長閑な風景というのは変わらないものです。もっとも、宇治までは将来の複線化が控えていることもあって車窓の激変も予想されますが、まだ早朝の優しい陽射しが山城の田畑を照らす様子に心を癒されつつ、列車は一路木津へ。


木津では乗り換え待ちの間、残り少なくなった初期型の103系、クハ103-167・168をを含む編成に遭遇。
特に167は現在の奈良線最若番です。関西ではまだまだ残っているように見える103系も、非ユニットサッシが特徴の初期型は近年徐々に数を減らしてきています。

木津6:48発→加茂6:54着

駅前のコンビニで食料調達を済ませてから、関西本線の加茂行きに乗り換え。
どうもこの時間だとタイミング良く接続してくれないようです。友人とはここで車中合流と相成りました。

加茂6:55発→亀山8:16着

加茂から先はこれまた久々の非電化区間。早朝ということで労せずキハ120のボックスシートに陣取ることが出来ましたが、シートピッチの狭さに改めて驚きました。


笠置発車後、窓外に見える通称・幽霊ホテル。
春はお花見、夏はBBQやキャンプが盛んな笠置も一歩離れるとこのような秘境。奈良線南部然り、同じ京都府ながらも自然の豊かさを実感します。

亀山8:23発→徳和9:29着

亀山からは四日市(河原田)回りで伊勢鉄道経由のアクセスも思い浮かんだのですが、名古屋方面はしばらく時間が空いていたので、接続していた伊勢市行きに乗車。JR東海・キハ48の3両編成です。青モケットのボックスシートが並ぶ車内はどこか一昔前の急行列車のようで、まさに「ローカル線の夏」を演出するに相応しい役者と言えるでしょう。


何というか、いかにも三重県らしい風景です。(笑)


途中、高茶屋では特急「南紀1号」を待避するため10数分ほど停車。
お盆期間中であるほか、奇しくもこの日は熊野花火大会がおこなわれるということで特急は軒並み6連増結。紀勢本線独自仕様の(?)、鹿除けスカートの付いたキハ85を初めて見ました。

実は沿線で撮影をすることも考えていたので、車窓に目を凝らして撮影地探し。
比較的本数のある多気までの紀勢本線区間で狙おうと考えた結果、松阪と多気の間にある徳和駅で降りました。
駅の北にある田園地帯を歩きます。


快速「みえ1号」。
まだまだ夏の暑さでしたが、頭を垂れる稲穂に実りの季節を感じます。

東に100mほど置いて近鉄が並走している区間なので、そちらにも目が行き…




気付けば近鉄の撮影がメインになっていました。(笑)
近鉄は複線かつ特急街道である一方、JRは単線で本数もまばら。私鉄優勢の地域であることを改めて実感しました。

そして近鉄特急と言えば、最近の話題は専ら観光特急の「しまかぜ」が中心。
もう少し待てば名古屋発・難波発の2本が続行して通過するようなので、その時間まで粘ることにしました。




初遭遇・初撮影の「しまかぜ」。
従来の近鉄イメージを覆すカラーリング、そして角張ったデザインはまさに「未来の乗り物」。
ちらっと見えた車内は空席の気配が無く、噂に違わず盛況のようでした。

時間もお昼となったので撤収し、次の目的地へ。
この辺りから、花火大会への臨時列車運行に伴う時刻変更などの影響が出てきているようでした。

徳和12:20(8分延発)→鳥羽13:10(6分延着)


鳥羽到着後、隣の近鉄ホームには先ほど撮影した「しまかぜ」の回送が入線。
ホームには複数のスタッフが待機していたことから、どうやらここで折り返し便に備えた車内の清掃がおこなわれるようです。それにしても、このように豪華特急と単行気動車が並ぶと両者の差をまざまざと見せつけられた気がします。

鳥羽では遅めの昼食を摂るべく、駅前の食事処を物色。
おいしそうな海産物の匂いに気を取られ…


そのうちの一軒で、季節の盛り合わせを。やはりご当地のおいしいものを食べてこその旅です。
当然これだけでは物足りないので、ご飯+味噌汁+漬物(300円)を付けました。

昼食後、次に乗る列車までは1時間半ほど空くので街並みを散策します。


赤福鳥羽支店。こちらは盛況ですが…


その近くには、時代に取り残されたようなビルが。
屋上の「お食事とおみやげ」の文字はもちろん、入り口の角に書かれた「階上大食堂」の表示が時代を感じさせます。店内は暗いものの、開いているということは、今も細々と営業しているのでしょうか。


しばらく歩くと住宅やコンビニが並ぶ生活圏に入り、なかには廃業したカラオケスナックも。


その近くに、「鳥羽みなとまち文学館」はありました。
ここが今回鳥羽を訪問した目的の一つです。かの竹久夢二や江戸川乱歩とも交流のあった画家・風俗研究家の岩田準一(1900-1945)の住まいを利用した施設で、現在まで残る彼の数少ない作品や、交流のあった2人に関する展示がされています。ここ1.2年で抒情画家たちの作品を見る機会が増えたこともあって訪問は外せないものと思い、今回の伊勢志摩行に急遽組み込んだのでした。
訪問にあたり鳥羽について詳しく調べるまではまさかこのような施設があるとは知らず、それも夢二・乱歩のような大家と関わりを持っていた岩田準一も現在の知名度は低いながらなかなかの人物です。風俗研究家という肩書きも当時では先駆的だったでしょうし、どこにどんな歴史が眠っているかはまだまだ分からないものですね。


入るとホーロー看板たちがお出迎え。
寄せ集めで「取って付けた」感は否めませんが、どれも実際に掲示されていたと思しきものばかりで、一枚一枚は非常に味があるものです。


驚くことに庭の井戸は現役でした。水が反射しているのがお分かり頂けるでしょうか。
左のレバーを持ち上げると確かに右の白パイプから水が出るようになっていて、井戸の「遺構」しか見たことのない自分にとってはものすごく新鮮でした。


屋外に掲示されていた、竹久夢二・岩田準一・江戸川乱歩の年表。
関わりのあった出来事や時代が一目で分かるスグレモノでした。


鳥羽で忘れてはならないのがもう一つ、三島由紀夫『潮騒』の舞台。
そのストーリーが宮藤官九郎脚本で現在放送中のNHK朝ドラ「あまちゃん」の典拠となったことは明らかで、小泉今日子による劇中歌「潮騒のメモリー」の歌詞もそれを裏付けています。
ハマってほぼ毎日観ていることもあり(笑)、本来ならばドラマの舞台である北三陸を訪れるべきなのですが、なにぶん遠隔地であるため、同じく海女漁盛んなここ鳥羽でそれに近い雰囲気を少しでも味わうことが出来れば…と思っていたので、この看板との出会いは意外な収穫でした。

引き続き、鳥羽を散策します。(後半に続く)

香川・アートとうどんを堪能する旅

2013年08月08日 23時59分59秒 | 旅行記
8/5(月)に広島を訪れたばかりですが、今度は別の友人に誘われ、わずか3日後の8/8(木)に香川へ。
ここに来て、友人から旅行に誘われるという、過去4年間ではあまりなかった事態に見舞われていますが(笑)、一人旅では得られない楽しさや発見があるのもまた事実。
私にとっては広島と同じく久々の香川行となり、また今回は以前から興味を抱いていた「瀬戸内国際芸術祭」の夏の会期中ということもあり、恒例のうどん屋さんめぐりと組み合わせて訪れることとしました。

現地での滞在時間を確保するため、行きは例によって三宮からジャンボフェリー下り1便を利用。

三宮新港1:44発(44分延発)→高松東港5:55着(55分延着)


ジャンボフェリーの乗船券です。
小豆島就航、うどん県アピールがキッカケなのか、以前の食券タイプからリニューアルされて大型のものになっていました。
この日は「りつりん2」に乗りましたが、船内も座席のモケットが赤色に張り替えられ、トイレも改装されるなど、サービス向上の気合が十分に伝わってきました。
しかし、この日は前運用となる高松からの便が30分遅れで到着し、出港時刻までには乗船出来たものの、積み込み作業の遅れのために三宮を44分遅れで出港。
旅の初めはフェリーのうどんでスタートを…と思っていたのですが、2時を回ってもスタンドが満員だったので、大人しく諦めて持参した本を読みながら就寝体制に。ソファーシートで体を曲げて寝るのは少々コツが要りますが、そこはもう慣れたもの。どこからともなく伝わる微弱なエンジン音が心地よく、いつの間にか眠りについていました。

翌朝。
遅れて出港したぶん6時前まで寝られたので、いつもの5時到着よりは確かな足取りで下船。
私と友人でシャトルバス(これもノンステップバスに替わっていたが、やはり詰め込みが効かずこの日は積み残し発生)の最後の2席を確保して、一路高松駅へ。
地図で調べてみるとこのフェリー乗り場は琴電の沖松島駅にも近いということで、そちらも一度試してみたいルートではあります。

さて、ようやく辿り着いた高松駅では早速18きっぷに押印してもらい、最初に出迎えてくれたのは…


高徳線のキハ40。
四国色を纏う車両も徐々に減少してきました。キハ54・キハ185のようなステンレス車はまだまだ全盛ですが、このキハ40系列のように全塗装ともなれば尚更です。

高松6:38発→栗林公園北口6:44着

短い時間ですが原型エンジンの音を堪能し、2駅目の栗林公園北口で降りて早速1軒目を訪ねます。


向かった先は、駅から徒歩10分ほど、香川県庁の傍にある「さか枝」。
早朝から開いていて、訪れた7時前でも盛況でした。どうやら仕事前に腹ごしらえしていく人も多いようで、釜玉うどん(小)は朝食にぴったり。

お店を出てからは、至近の琴電瓦町駅まで散歩。


途中で立ち寄った香川県庁。
丹下健三の設計による初期の代表作で、月曜日に訪れた広島平和記念資料館と合わせて訪れてみたかった場所の一つです。
元々は3回生時のゼミで井上章一『つくられた桂離宮神話』を講読したことがキッカケで丹下の桂離宮観に触れた(同時に、建築にも興味を持ちはじめた)のですが、その桂離宮や清水寺に見られる柱を格子状に組んだ和風建築、つまり日本伝統の建築様式が丹下の現代的解釈をもってこの香川県庁に生かされています。
とは言えこの県庁、まだ戦後からそう経っていない1958年の建築ですから、当時は相当な驚きをもって迎え入れられたのではないでしょうか。


通りに面した玄関前の、どことなく旧・京都会館を彷彿とさせる風景。
と言うのも、丹下健三は京都会館を設計した前川國男の事務所出身。丹下が香川県庁を建てた2年後、前川は京都会館を完成させていますから、必然的な因果関係がある…と言えるのかもしれません。
(建築に関してはあまり深入りしていないので、断定は避けます。笑)

そうして香川県庁を「鑑賞」した後は、瓦町駅まで歩いて琴電で高松に戻ります。


高松築港駅にて。
乗ってきた電車はいるかの「ことちゃん」が大胆にラッピングされていました。


現在の琴電の主力、元・京急車と京王車が手を取り合って朝のラッシュ輸送をこなしています。
私鉄の電車には疎いのですが、譲渡前の現役時代を知る関東からのファンにとってはきっと「そそられる」光景なのでしょう。一定数が製造され、時代の流れによって引退した後も地方の他社へ譲渡されて大切に使われる様子はまさしく汎用性高き名車の余生に相応しいものと言えるかもしれません。

築港駅からは再びJRの高松駅に移動して、目当ての列車が来るのを待ちます。


8:01にやって来たのは「アラーキー列車」。
写真家・荒木経惟氏の作品がラッピングされた車両は、瀬戸内国際芸術祭の展示の一つをなしています。
編成全体にエロス・タナトスの共存するさまはもちろん既存の鉄道車両には見られなかったラッピング。携帯やデジカメを向ける人も多く、入庫で回送されていくまでの間、それぞれ「鑑賞」に浸っていました。

アラーキー列車を見送った後は、後続の普通列車で次の目的地へ。

高松8:57発→丸亀9:40着

少しお腹も空いてきたので、2軒目を探して移動します。


2軒目はこちらも駅近の「綿谷」で冷やしぶっかけうどん。
これで小サイズというのが驚きですが、友人曰くこのお店は何と言ってもボリュームが売りとのことで、トッピングの種類も豊富。余裕があれば他のサイズにも挑戦してみたいものです。

さて、ここから一旦友人とは別行動。
駅の隣にある猪熊弦一郎現代美術館へ向かった友人を見送って、「アラーキー列車」に乗ります。

丸亀10:29発→観音寺11:13着


車内は何の変哲もない113系でしたが、久々に海岸寺界隈の海沿い区間を楽しみ、気付けば終点観音寺。
現在、アラーキー列車は高松から観音寺の間でしか動いていないらしく、ここ観音寺が運用の西の端。芸術祭の範囲的には愛媛県まで入っても良いような気がしますが、なにぶん車齢の高い113系、走行距離などの事情も関係しているのでしょう。

そして、観音寺とんぼ帰りはもったいないので…


折り返しの多度津行きを駅近くの踏切で。
もう少し側面を強調したかったのですが、場所の関係でここからとなりました。

次の待ち合わせは坂出なので、時間に間に合わせるべく、観音寺からは特急「しおかぜ14号・いしづち14号」でワープ。
四国は短距離の特急料金が安いのであまり抵抗なく利用してしまいます。部活帰りと思われる高校生も数人乗っていて、幅広い利用者を取り込もうとする姿勢が窺えました。
単にこの時間帯の普通列車が無いだけかもしれませんが…。(^^;

観音寺12:09(3分延発)→坂出12:39着


単線区間、車窓いっぱいに広がる瀬戸内海を見向きもしないようなスピードで走る8000系ですが(笑)、その走りはまさに「しおかぜ」の名に相応しいもの。
多度津ではキハ185-19の出場回送に遭遇しました。

そして列車は宇多津で岡山行き「しおかぜ14号」を切り離し、2両の身軽な編成になって坂出に到着。


宇多津~高松間の短距離とはいえ、2両編成の「電車」特急はJR史上初にして最短のものであり、片方が流線型であることもその特異さ・おもしろさを際立たせています。
如何にも模型的な編成ですが、ここ数年のJR四国は乗客の減少による減車・減便が相次いでおり、例に漏れずこの2両特急もその産物で素直に喜べないのが実情です。とは言え特急列車は稼ぎ頭の一つですから、短編成となっても頑張ってほしいところです。

さて、先ほど多度津駅で見かけたキハ185-19ですが、少し待てば出場回送が見られると思い、時間ギリギリまでホーム先端で待機してみることに。


電光掲示に「回送列車」表示の類は一切出ませんでしたが、12:50発のマリンライナーと接続する12:55発の普通列車の合間、12:54に通過して行きました。


片運転台・単行の気動車は回送ならではの光景。JR西日本でもかつてキハ181系が京都から米子(後藤)へと単行或いは2両程度で長躯回送されることがありましたが、いずれも早朝・深夜だったため遭遇したことはありません。そのため、白昼堂々1両きりで高松へと回送されていくキハ185は大変ユニークな光景として印象に残りました。

それからすぐに駅を出て、待ち合わせ場所の鎌田共済会郷土博物館へ。
予讃線の車窓からもよく見える建物で、以前から気になっていた建物です。元は大正期に建てられた図書館でした。


ここでも芸術祭の一環として、会田誠をはじめとする昭和40年会の「We were boys展」が開かれています。
歴史的建造物で現代アートの展示がおこなわれるのは最近でこそよく見られる光景ですが、一見不釣り合いに思える両者であっても、なかなかどうして共存が出来ているのがおもしろいところです。建築物の持つ幅広い受容性、そしてアートの持つ柔軟性、様々なことが考えられますが、こうした取り組みは場所の有効利用となるのはもちろんのこと、展示を通してその建造物自体にも興味・関心を抱くきっかけにもなりますから(今回の私のように)、今後も様々な場所での「融合」が見られることを楽しみにしたいものです。

見学後はマリンライナーで再び高松へ。

坂出13:50発→高松14:05着


片原町界隈をうろうろと。
商店街を電車が突っ切る…というのは京阪電車の伏見桃山でもおなじみの光景ですが、こちらは風景・車両共に少し長閑な雰囲気が漂います。


それから3軒目の「ゴッドハンド」で冷やしうどん。
簡単に言えば「そうめんのうどんバージョン」という表現が相応しいのかもしれませんが、暑さもピークに到達する頃の食事としてはとても良いものでした。
15時で閉店とのことでしたが、間際になってもお客さんの出入りが頻繁にあったのが印象的でした。

それから徒歩で香川県立ミュージアムへ。


今回の香川訪問の最大の目的とも言える「丹下健三 生誕100年 伝統と創造」展へ。
月曜日に広島を訪れたのも、船中で『つくられた桂離宮神話』を読み返していたのも、早朝に香川県庁を訪れたのも全てこのためです。
展示は設計図や模型の点数が多く、広島平和記念公園はその建物の配置からも彼の意図がはっきりと見て取れるようでした。また、香川県庁などに見られるモダニズム建築と伝統的木造建築の融合についても詳しく触れられており、日本が戦後を歩んでいく上で、彼が伝統に眼差しを向けながら新時代に相応しい建築物を創造していったことが窺えました。
時代や国を超えて幅広い評価を受けるそれらは、プロジェクト趣旨にある通り「戦後日本の歩みと時代精神が象徴的に刻まれた建築」という言葉がぴったり当てはまります。まさしく時代を創った建築家と言えるのではないでしょうか。

その後はまた友人と別行動。
私は併設のカフェで小一時間ほど休憩してから…


玉藻公園の脇で琴電を撮影していました。
ここで突然、携帯(iPhone)の緊急地震速報が鳴り、奈良県での地震を告げる表示が。
関西圏ということで帰りの遅延が頭をよぎりましたが、結局、誤報だったとのことで安心しました。

程なくして友人と高松駅で合流。マリンライナーで四国を後にします。

高松17:40発→岡山18:32着

岡山では時間があったので「さんすて」で帰りのおやつにとクリスピークリームドーナツを購入。
18きっぷ利用時は専ら通過点でしかない岡山ですが、久々にエキナカをうろうろしてみると、ここ数年ですっかり変わったな、という印象です。


岡山からの山陽本線は案の定遅れていましたが、数分とのことで安心。
6両編成の姫路行きに乗り込み、本を読んだり寝たりで過ごしていました。

岡山19:20発(4分延発)→相生20:20着
相生20:21発(7分延発)→姫路20:42着(7分延着)


相生では赤穂線からの新快速が先に行くとのことで、姫路まで先行。
やはり関西圏に近づくにつれて遅れが拡大していきましたが、我々の乗った上りは結局数分の範囲に留まった一方、下りは数十分から1時間近い遅れがあったようです。


〆は姫路のえきそばで。
見事に麺類オンリーの一日でした。

姫路21:17発→京都22:49着

最後はほぼ定刻の新快速で一気に京都まで。
どうも同行者が居ると安心して寝てしまうらしく、帰りは坂出~岡山、和気~相生、そして加古川~西大路間の記憶がありません。起きた時には梅小路公園の脇を通過していて、旅の終わりの感傷に浸る間もなく列車は京都駅に滑り込んだのでした。

EVO103系を組み立てる その2

2013年08月07日 14時08分30秒 | 鉄道模型/製作中-103系・広B09編成【完成】
前回の続きです。
塗料の関係でまだ全車塗装が出来ていないのですが、先に床下をメインに作っていきます。
普通に床下セットを買っていれば不要な工程ではありますが…。


T車3両の床板のうち、2両は18m級の床板を使うので、適当なところで切って20m級に延長します。
室内は少し作り込む予定なので、ウエイトは補強を兼ねて床下に接着しました。


続いて、室内のロングシートを簡単に再現すべく、床板にプラ板を貼り重ねていきます。


床板を延長して、ロングシートの土台を再現したところ。
ここから各座席の幅に切ったプラ板をドア間に貼り付けていく予定です。


床下機器は手持ちのジャンク品を活用し、実車写真を参考に並べ替えていきます。
こうして作っていると旧いGMキットの床下機器はデタラメが多いことに気付きますね。(^^;


一段落したところで、車体と合わせてみました。
キット付属の窓ガラスは他社製品の床下に合わせてツメが多めに設置されていますが、試しにGM用に合わせて説明書通りに切り取ると、ちょうど適正な車高に。
旧来のGMキット床板と今回のEVOキット床板は同じ車高なんですね。

続いて台車の加工です。


動力はKATOのキハ20系用を使うのですが、そのままではDT22台車となってしまうため、細部が異なります。
そこで手持ちのDT33台車から機器の一部を移植して貼り付け、DT33をそれらしく再現…としていますが、ポロッと取れてしまいそうで、扱いには注意が必要ですね。
台車は後ほど、床下機器共々グレーで塗装する予定です。

そして屋根の加工。


B-09編成の屋根上は、全車に大型ランボードが設置されています。
キットそのままのランボードでもあまり問題のないポイントではありますが、上から眺める機会の多い鉄道模型ですから、アクセントの意味合いも込めて再現することに。
元のランボード下の肩部分を切り取って(写真上側)0.3mmの帯状プラ板を沿わせて埋める(写真下側)といった簡単な加工ですが、これだけでランボードがゴツく見えてくるから不思議です。

※おまけ


月曜日に日帰りで広島へ行った際、呉線でD-01編成に乗ることが出来ました。
最後の原型クモハ103の快速運用はなかなか乗り応えがありましたが、黄色に塗られた車体はかつて福知山線から東海道線に乗り入れていた京都行きの103系を彷彿とさせ、小学生の頃に早起きして見に行ったことを思い出しました。

8月の広島を訪れる

2013年08月05日 23時59分59秒 | 旅行記
夏休み。
今年も何処に行こうかと思っていたところ、3月に東北を一緒に旅した友人から「日帰りでどこか行きたい」とのお誘い(?)が。
話しているうちに、海を見ること、何かおいしいものを食べることが主目的として挙がり、中部、信州、中国など幾つかの候補が思い浮かび、提案と妥協を重ねた結果(笑)、日帰りで行けるギリギリの範囲且つ、2人とも久しく訪れていない広島が行先として決まりました。
例によってプラン作成を任されたので、基本は青春18きっぷとして、行きは思い切って新幹線。それでも幾らかの出費を抑えるため、新大阪から姫路まで在来線特急を利用して乗継割引を効かせることにしました。

8月5日。
6時半過ぎの京都駅で待ち合わせて、改札で18きっぷに2人分の日付印を捺してもらい、さっそく快速電車に乗り込みます。
この時間の快速は京都を出ると長岡京まで停まらないので、西大路や桂川の内線を通過する様子は久々で新鮮なものでした。

京都6:51発→新大阪7:23着

ラッシュで満員状態の快速をどうにか降りて、新大阪駅の新しくなった特急ホームへ移動。
夏休み中の鉄道少年たちが先行の「びわこエクスプレス」にカメラを向けていて、昔の自分を思い出したり。
以前のように列車を撮って何時間も駅に居るということは少なくなりましたが、原点を忘れないことは大切です。

新大阪7:30発→姫路8:35着


(姫路で撮影)
新快速が走っていない時間帯なので、予め用意していた切符に切り替えて「スーパーはくと1号」で。
普通ならば新大阪から新幹線1本ですが、全行程を預かっているので支障ない範囲で趣味も織り交ぜます。(笑)
自由席は満席に近い状態で、新大阪や大阪での降車、大阪から三ノ宮・明石といった短距離の利用もあり、混雑を避ける手段としての特急利用が定着していることを実感しました。
友人も「景色の移り変わりが良かった」と、阪神間を抜けて播磨へと至る車窓を楽しんでくれたようで何よりです。


姫路では恒例行事(?)、乗り換えの時間を利用してえきそばで朝食を。
和風ダシなので食べやすく、早朝出発の時は食欲が無くあまりお腹に入れず出発してしまうものですから、午前中に姫路を通る場合はなるべく寄るようにしています。

それから新幹線ホームへ。

姫路9:00発→広島10:01着


新横浜始発の「ひかり493号」です。
広島までは1時間。特記することもなく退屈な時間だったのですが、新幹線を利用するぶん、現地でかなりの時間を確保出来るので仕方ないところでしょうか。

広島到着後は広電で原爆ドームへ。


原爆ドームは2年半ぶりの訪問となりました。翌日には原爆投下の日を迎えるということもあり、炎天下、念仏の声や核兵器廃絶の署名運動が盛んにおこなわれていました。


傍らには被爆瓦の展示も。

橋を渡って資料館へ向かいます。


丹下健三による設計の平和記念資料館。広場には既に式典の準備がされています。

前回訪問は高校1年生の夏休み、今から約7年前。
当時から戦争や平和について興味・関心を抱いていたことは確かですが、広島や長崎が修学旅行先ではなく、また平和教育というものを受けてこなかった(少なくとも、そう称した授業が無かった)私は、初めて知る戦争、そして原爆の悲惨さに衝撃を受けました。
そう、当時は「衝撃」だけが印象として残っていたのですが(悪く言えばそこで思考停止していたのでしょう――)、それからの7年間、当時を知る人々の話を聞く機会にも恵まれ、大学では仲間とたびたび議論を交わし、教職課程を通じて平和教育についても考え、また平和博物館でアルバイトを経験した後では、原爆の悲惨さはもちろんのこと、そこに加えて、今後の諸課題(たとえば直前に遭遇した核兵器の廃絶であったり、理想的な平和教育の在り方、憲法改正、等々をどう解決していけばよいか)といったことを思い浮かべました。
この旅行の後に上梓された社会学者・古市憲寿さんの『誰も戦争を教えてくれなかった』は、日本はもちろん、世界各地の平和博物館を訪れた上で独自の戦争論を展開されていて、年齢も近いことから、私のこれまでの思考を整理するのにとても役立っていて、今も読み進めているところです。

資料館を出ると、川を挟んで一直線に原爆ドームが見渡せます。


これも丹下健三の狙いだそうです。
こうした建築的視点から資料館を見るのも今回の目的の一つでした。


そして、しばらく時間があったので川沿いのベンチに腰かけて話していると、「被爆電車」と書かれたプラカードに小学生たちの列が出来ていたのを見かけたので、橋の袂でしばらく待ってみることに。


ほどなくして現れたのは被爆電車・652型。
何度もここを訪れていながら、初めての遭遇でした。


続行で651型も通過しました。
信号待ちで停車したので、少し歩いて追っかけ。


68年前に被爆した車両たち。
当初は復興の希望となり、そして現在は当時の生き証人となって広島の街を走っています。
塗装の上からも経年劣化が窺え、走っていること自体がもはや奇跡と言えるのかもしれませんが、今後も可能な限り歴史を伝え続けてほしいものです。


もちろん、お決まりの京都市電も。

この辺りで時間もちょうどお昼となったので、再び広電に乗って八丁堀の「みっちゃん」へ。


お昼時ということで20分ほど列に並ぶことになったのですが、待っただけのことはありました。


注文したのはオーソドクスに肉玉そば。
思っていた以上にボリューム満点で、量の多いお好み焼きは普段から大学近くのお店で慣れているつもりですが(笑)、なかなか食べるのに苦労しました。

それから広島駅へ戻って、呉線の快速「安芸路ライナー」で呉へ。

広島13:30発→呉14:03着


(呉にて撮影)
やって来たのは黄色の103系D-01編成。原型で残る最後のクモハ103が入った編成です。
数年前までは中国地方でも多く活躍していた103系ですが、いつの間にか3編成9両のみとなってしまいました。
勢力は縮小されてもここ呉線では花の快速運用。行楽客で賑わう車内にモーター音を響かせ、対向列車を待たせて小駅を通過する様子からは「まだまだやれる!」といった気迫が窺えました。

呉ではゆめタウンを突っ切って、大和ミュージアムへ。
こちらも7年ぶりの訪問です。




ここは軍事博物館に分類されるのだと思いますが、同じ広島でも呉は軍港で栄えた歴史があるのもまた事実。
ちょうど先月は舞鶴を訪れたこともあり、共通点のある両者は合わせて是非訪れてみたいと思っていました。
肉じゃがは結局どちらが発祥なのでしょうか。(笑)


テラスに出て、呉の港を眺めました。
海を見るというのも今回の目的の一つ。一応、京都府は日本海に面していますが、瀬戸内海の方が好きですね。

帰りは…

呉15:19発→広島16:07着


臨時快速「瀬戸内マリンビュー」の指定席で。
呉駅で空席を尋ねると空いていたので乗ることにしました。行きは30分ほどで着いた道のりを、小一時間かけてゆっくりと戻ります。


「マリンビュー」は呉で20分の停車中に「安芸路ライナー」に追い越されるので、自由席はもちろん指定席の車内はガラガラ。
ソファーシートに腰掛けて、瀬戸内海を眺めながらしばしのクルーズ気分を楽しみました。


おやつはゆめタウンのミスドで買ったポンデリング(桃)を。
観光列車と言えば最近では水戸岡デザインの車両が地方ローカル線の起爆剤として徐々に勢力を拡大していますが、こちらも指定席券だけで乗れる列車としてはなかなかのグレード。自由席車を1両設けて地域輸送も合わせて担っているところがおもしろいところですが、呉線最大のセールスポイントである海を眺めながらまるで部屋のように寛げる空間は、JR西日本にもこのような楽しい列車があるのだということを再認識させてくれました。


検札と共に乗車記念のポストカードが配布されました。
指定席には3回目の乗車ですが、記念品を頂いたのは初めて。おそらく広島デスティネーションキャンペーンの関係でしょうか。マリンメイトによる車内販売も復活していて、全体の気合が感じられました。

広島到着後はいったん友人と別れ、私はお土産のもみじまんじゅうを購入。
再び合流してから、岡山行きの列に並びました。


向かいのホームに停車していた、呉線経由糸崎行きに充当されていたC-21編成のクハ115-192。
初期型・簡易シールドビーム・更新色の変形車です。先日、いよいよ広島地区にも新車が導入されることが発表されましたが、その折にはこうした個性的な車両は真っ先に置き換えられてしまうのでしょうかね…。

広島16:45発→?

そして後続の岡山行きに乗車。
西条まではごく順調に進んでいたのですが、先行列車(時刻表から推測するに白市行き1566M)が西高屋駅でパンタグラフにビニールが巻き付いたらしく、我々が乗車している岡山行き368Mは西条で抑止。
タクシーで新幹線の東広島に抜ける案も思い浮かびましたが、すぐに再開するだろうと思って待機していると、いつの間にか後続の白市行き1568Mが隣のホームに到着し、途中打ち切りで今度は1577Mとして南岩国へ折り返していく始末。
隣の通過線にはEF210牽引・EF67推進の貨物列車も到着し、なかなか運行を再開しない列車内は先ほどの白市行き1568Mから流れてきた帰宅客も合わさって一時満員状態に。

やがて「ビニールが複雑に絡まっている」と詳細を告げる放送があり、18:15頃の運転再開が一時知らされるも、368Mは西条を81分遅れの18:43に出発しました。
この時点で帰りのどこかの区間で新幹線を使わざるを得なくなりましたが、三原では良い時間帯の新幹線が無く(やはり「のぞみ」が停まらないのが大きい)、岡山~姫路間で新幹線を使うこととして、ひとまず368Mを岡山まで乗り通すことを決定。
しかし、三原を出た列車は次の糸崎に停車したまま(19:30過ぎ)なかなか発車する気配がありません。支社境界のために乗務員も入れ替わり、やがて20:04発の発車となる旨の放送が流れました。
ふと時刻表を捲るとそれは後続の376Mの時間。本来ならば376Mは南岩国始発ですが、岡山地区に遅れを持ち込まないために途中の何処かで打ち切り、代わりに遅れてやって来たこの368Mを糸崎から376Mに仕立てることになったのでしょう。西条抑止の遅れはともかく、この遅れは誤算でした。
368Mも打ち切られなかっただけ良かったのかもしれませんが、当初予定していた岡山~姫路間の新幹線利用を延ばし、岡山~新大阪で新幹線を使うことを決めました。予定通り岡山に付けば10分強の接続で「のぞみ」、最悪遅れても「さくら」がありますから、もうここまで来れば「毒を食らわば皿まで」といった心持です。
そうして元368Mこと372Mは遅れていた列車の接続を待って糸崎を9分延発。停車駅ごとに「西高屋駅での架線トラブルのため○分遅れ」との案内が流れましたが、実際それどころの遅れではなかったことを知るのは西条以遠から乗り通した乗客のみ。
気を紛らわせるために読んでいた本も結末が近づき、列車もいよいよ終局へ。

?→岡山21:37着


広島から約5時間遅れの21:37に到着。
372Mとしては6遅れ、368Mとしては実に125分もの遅れでした。さすがに通しで乗ったのは我々だけだったのかもしれません。
これなら広島で写真を撮っていた呉線経由の糸崎行き(950M)に乗っていたとしても岡山には1時間早く着いていたことになります。
よく走ってくれたな、と記念に一枚だけN-03編成の写真を撮り、少々急いで乗り換え窓口で新大阪までの切符を求め、駆け足で新幹線ホームへ。
5000円の出費は痛いところですが、互いに翌日にはバイトが控えているので今日中に京都に着かなければなりません。神戸や大阪に住んでいれば「サンライズ」で優雅にシャワーなど浴びて帰る手もあったのでしょうが…。

岡山21:44発→新大阪22:28着
「のぞみ98号」。名古屋への最終列車です。
慌てて階段を上って乗り込んだために自由席からは随分と離れた号車に乗ってしまい、同じようなことをした何人かと3号車までゾロゾロと歩くことに。
N700系の椅子はあまり好きではないのですが、さすがに新幹線は速く、トイレに立ったり携帯を触ったりしている間にもう大阪市街の灯りが。

新大阪22:38発→京都23:16着

ラストランナーは米原行きの快速。
どうにか予定通りの時間で戻ってくることが出来、京都駅で解散となりました。
最後はハプニングにも見舞われましたが、私にとっても友人にとっても久々の広島行となり、充実した夏のひとときを過ごすことが出来ました。
もちろん、翌日は午前中のアルバイトを何とか切り抜け、午後を昼寝で潰したのでした。