この世界の片隅に(※ネタバレ注意)

2017年02月22日 01時09分06秒 | 映画
(※ご注意 一部ネタバレを含みます)


「映画」カテゴリを書くのは久し振りのことです。
京都みなみ会館で表題の映画を観てきました。

アニメ映画と言えば現在のトレンドはやはり「君の名は。」なのかもしれませんが、その陰でじわじわと人気を高めているのが「この世界の片隅に」。
SNSでは随分と話題になっていたことと、能年玲奈改め「のん」さんが声優を務めているということもあり、私も以前から気になっていました。
休みをとった平日の昼下がり、上映直前に駆け込んだものの観客はまばらで、ほどなくしてOPの「悲しくてやりきれない」が流れると、そのままスーッと作品世界に引き込まれていったのでした。

……2時間後。
まず、声優ののんさんが非常にハマり役です!
朝ドラ「あまちゃん」では北三陸に暮らす訛りの強い高校生役で一躍有名になった彼女ですが、今度は広島弁の主人公・浦野すずを声のみで好演しています。「あまちゃん」のキャラを知ったうえで観ているからかもしれませんが、少し不器用なキャラ設定ということもあり、彼女の声は自然に馴染みます。また女優として復帰してほしいと思いつつも、今回声優としての新境地開拓を見せられた気がします。

ストーリーに関しては、前半はコメディ的要素もあり、そこへ徐々に忍び寄る戦争の影……なのですが、描かれているのは一貫して「庶民の暮らし」。
主人公は広島から呉に嫁ぎ、両都市をしばしば往還します。呉は言わずと知れた軍港都市ですが、それでも歴史上に知られた人は誰ひとりとして出てきません。せいぜい戦艦大和くらいで(笑)、それ以外は戦時中に制限され変化していく衣食住を「とても」丁寧に描いています。
また、街並みの描写も細かく、原爆ドーム(もと勧業館)はもちろん、当時の広島をよく知る人なら分かるところが多いのでしょう。おそらく今日では現存しない建物が多いのだと思いますが、迷子になって辿り着いた遊郭の建築が個人的には印象的に残りました。

また、広島から少し離れた呉という場所設定も「なるほど」と思わせられます。
海軍病院では新聞に載っていない情報(「大和」の沈没)が共有されていたこと、原爆投下時の地震のような揺れの衝撃、そして広島市内の回覧板が呉にまで飛んできたといった出来事は、綿密な取材のうえで盛り込まれたエピソードなのでしょう。ちなみに作中では「原爆」という言葉は使われず、「新型爆弾が落ちた「らしい」」という表現に留まっています。
広島「市内」での出来事はこれまでに多くの作品が制作されたおかげで広く知られることとなりましたが、周縁部についてはまだまだ知られていないのが現状だと思います。以前、三次を訪れた際に当時を知る方のお話を聞く機会があり、(三次は)被爆した人々が列車で運ばれてきたことを聞いたのを思い出しました。

そして、従来のいわゆる「戦争もの」の作品と異なる部分としては、当時の人もそう思っていたのかもしれないな、と思わせる点が非常に多かったこと。
戦争を描く場合、多くは現代的価値観の下に制作されることが多く(それはそれで仕方のないこととは思います)、色々と当時についての知識を深めていくと、そうした作品をなかなか純粋に受け止められないこともあります。

しかし本作は、あくまで主人公・すずが見聞きしたことしか描かれないことで、何気ない生活描写・心理描写に重きが置かれ、それが却ってリアリティを高めています(昨年の大河ドラマ「真田丸」でも、本能寺の変や関ヶ原の合戦がさっさと終わってオマケ程度の扱いだったのが話題になりましたが、あちらも真田信繁が見聞きしたことを重点的に描いているからであり、おかげで主人公の無理な介入がなく、違和感なく観ることができました)。
ふつうに暮らしていた人々が、戦争を経験し、多くの大切なものを失い、そして立ち直っていく。
構造としては他でもよくみられるものの、上記のような手法がとられていることで、実際にこんな暮らしをして、こう感じていた家族があったのかもしれない――「この世界の片隅に」という、少し謙遜したようなタイトルの意味が、終盤になって分かるという仕組みです。

同時に、現代において戦争を描くことの難しさも感じた2時間でした。
当時の出来事を語り継いでいく人が日に日に少なくなってきている現在、こうした市井の人々の「ふつうの」暮らしを描いた作品がもっと世に広まり、その代わりを担う役割になればと思います。とりとめのない感想となりましたが、気になった人は是非。

「利休にたずねよ」

2014年03月03日 22時49分43秒 | 映画

大変遅ればせながら。
原作者の山本兼一さんが亡くなられたというニュースも記憶に新しいところですが、2月の末日、もう午前の一部のみになってしまった上映を観てきました。
大きな映画館は久々でしたが(笑)、さすがに朝9時のシアターに人影はまばら。落ち着いて楽しむことが出来ました。

さて、「利休にたずねよ」は、利休切腹から時を遡り、彼の美の根源を辿っていくストーリー。
従来の利休のイメージであった「わび・さび」の枯れ具合から離れたうえで、実は優美なものを追求していたのではないか……といった仮説が執筆の契機とされていますが、時代考証やフィクション部分の脚色に少々の問題はあれど、飽くなき美の追求やこだわりを持っていた、ストイックな、ある意味で恐ろしい人物像はしっかりと伝わってきました。
撮影には現在に伝わる当時の茶碗が使用されたとのことで、それが美しい所作や点前と合わさり、見事な「映像美」を演出していたと思います。

そうした「人」や「物」の美しさに見入ってしまった2時間でしたが、歴史小説が好きな人なら十分楽しめる作品と言えるでしょう。特に北野大茶湯のシーンは活気があって見事です。先日参加した北野天神梅花祭も元々はそれに端を発するものですが、当時の勢いには敵いませんね。
ただ、史実にこだわるならば、やはりフィクションの部分が目についてしまいます。これらの相違については私もある程度踏まえているつもりですが、ここでは敢えて触れません。(笑)
しかしながら、茶道を嗜んでいる人間としては、見どころが豊富で、今後も自らの美意識を高め、主客共に美しいと思える点前が出来るよう努めていきたい、そう思える作品でした。

一つ個人的に惜しかったのは、美しかった点前のシーンが部分的にしか登場しなかったということ。
せっかくの映画ですから、欲を言えば通しで見てみたかった気もしますが、そうなると撮影はかなりの長回し、観る方は退屈気味にと、なかなかハードルが高そうです。(笑)

「太秦ヤコペッティ」

2014年02月21日 15時58分22秒 | 映画
昨日は久々に立誠シネマで「太秦ヤコペッティ」を観てきました。(二度目)
この一年ほどの間、すっかり単館系の映画ばかり観るようになりましたが、映画都市・京都においてもシネコンが台頭している現在、日本映画発祥の地、そして元・小学校というまたとない舞台を生かした同館での上映作品はいずれも魅力的で、今後も事あるごとに「通学」することになるのだと思っています。


さて、「太秦ヤコペッティ」は、いわゆるスプラッター映画。
磁石で家を造ろうとする変な一家と、彼らに関わる訳アリ警察官の物語……と言うのは簡単ですが、シュール・カオス・エログロナンセンス的要素を多分に含んでいるために、ストーリーの要約、そして感想を述べるのが極めて難しい映画です。(笑)
前回は初めてのスプラッター映画鑑賞ということもあり、血まみれの生々しく気持ち悪い描写、そして対比されるラストの清々しさや美しさが印象に残りましたが、一通りのストーリーが頭に入った状態で鑑賞に臨んだ今回は、(効果的に)ノイジーなサウンドが耳に残りました。
これらは意図的に挿入された箇所、そうでない箇所がありますが、作品独特の価値観が歪んだ世界、敢えて強調された画面の色味やざらつき、陰翳、果ては生と死、美醜の対比までもを表現する役割を担っていたように思います。音楽がただ演出の域に留まっていないのもこの映画の特徴と言えるでしょう。

そして、作品に登場する京都の風景は、大映通り商店街を除けば、いずれも観光とは無縁の地。
しかしながら、錆色の、乾いた、退廃的で殺風景な舞台が何処となくノスタルジックでもあり、一歩外れるとそういった場所の多い、住人目線での京都が良く顕れていました。こうした描き方は宮本杜朗監督の幼少時の心象風景に由来するそうですが、非常にしっくりきます。中華料理屋の場末感もたまりません。
また、二度目の鑑賞にして初めて、あの「斬られ役」で有名な福元清三さんが出演されていることに気付きました。(笑) もちろんここでも被害者役、その大袈裟な倒れ方に思わず笑ってしまいましたが、やはりこの人なくして太秦は語れませんね。

「堀川中立売」「天使突抜六丁目」に次ぐ京都連続シリーズの掉尾を飾る「太秦ヤコペッティ」ですが、綺麗なものから汚いものまで、様々なものを受け止める「京都」の幅の広さ、そのフィールドの上で繰り広げられる表現の多様さを改めて感じたひとときでありました。こんな映画、好きです。(なんて人には言えません)