6月19日は「桜桃忌」。
作家・太宰治の命日(入水自殺したのが13日、遺体が見つかったのが19日)であり、誕生日であることから、彼の作品にちなんでこの名が付けられています。
これまでに、青森の生家「斜陽館」や小説『津軽』の舞台を何度か訪ねてきましたが、三鷹の墓所を訪れるのは今回は初めて。青森よりはるかに訪問が容易なはずなのですが、やはり桜桃忌に行かなければ、との思いが強く、休日と重なる今年までひたすら機会を待っていたのです。
行きは、最後の寝台特急となってしまった「サンライズ」で。
日曜日着と言えども閑散期の6月、シングルの1Fには空室が目立っていました。
東京から中央線に乗ること30分、三鷹で下車。
かつて太宰が暮らしていた街、駅近くの跨線橋はお気に入りの場所だったらしく、隣接する電車区を見ながら、ホリデー快速「富士山」を撮影。
当日は奇しくも仙台で485系のラストランがおこなわれていましたが、こちらの183系はまだしばらく安泰でしょうか。
駅近くの玉川上水沿いを歩きます。
当時は人食い川と言われていたそうですが、今となっては水深も浅く穏やかなもの。この雰囲気は――そう、下鴨の疏水に似ています。
墓所のある禅林寺。ようやく訪問が叶いました。
やはりと言うべきか、太宰治(津島家)のお墓には桜桃が供えられ、朝の9時過ぎだと言うのに私と似たような文学青年風が何人か列を作っていました。
ちなみに斜向かいには森鷗外が眠っていますが、お供え物は太宰に比べると圧倒的に少なく寂しい様子。鷗外の作品は自分の研究にも関係していたので、こちらもきちんと手を合わせておきました。
太宰の青森にしろ、鷗外の津和野にしろ、彼らの出身地や作品の舞台など、ゆかりのある場所はこれまでにも多々訪れましたが、墓所というのは、その本人がそこに眠っているという点で、何とも言えない特別な雰囲気があるものですね。「ようやく来ることができました」と独り感慨に耽っていました。(笑)
閑静な住宅街の様子は、やはり下鴨にどこか似ている気がします。
太宰没後68年。変わってしまったものもきっと多いのでしょうけれど、各所に立てられた案内板が土地の記憶を語りかけ、今でも文学的空間へと誘ってくれます。
さぁ、次はどの作品の舞台を訪れましょうか。
作家・太宰治の命日(入水自殺したのが13日、遺体が見つかったのが19日)であり、誕生日であることから、彼の作品にちなんでこの名が付けられています。
これまでに、青森の生家「斜陽館」や小説『津軽』の舞台を何度か訪ねてきましたが、三鷹の墓所を訪れるのは今回は初めて。青森よりはるかに訪問が容易なはずなのですが、やはり桜桃忌に行かなければ、との思いが強く、休日と重なる今年までひたすら機会を待っていたのです。
行きは、最後の寝台特急となってしまった「サンライズ」で。
日曜日着と言えども閑散期の6月、シングルの1Fには空室が目立っていました。
東京から中央線に乗ること30分、三鷹で下車。
かつて太宰が暮らしていた街、駅近くの跨線橋はお気に入りの場所だったらしく、隣接する電車区を見ながら、ホリデー快速「富士山」を撮影。
当日は奇しくも仙台で485系のラストランがおこなわれていましたが、こちらの183系はまだしばらく安泰でしょうか。
駅近くの玉川上水沿いを歩きます。
当時は人食い川と言われていたそうですが、今となっては水深も浅く穏やかなもの。この雰囲気は――そう、下鴨の疏水に似ています。
墓所のある禅林寺。ようやく訪問が叶いました。
やはりと言うべきか、太宰治(津島家)のお墓には桜桃が供えられ、朝の9時過ぎだと言うのに私と似たような文学青年風が何人か列を作っていました。
ちなみに斜向かいには森鷗外が眠っていますが、お供え物は太宰に比べると圧倒的に少なく寂しい様子。鷗外の作品は自分の研究にも関係していたので、こちらもきちんと手を合わせておきました。
太宰の青森にしろ、鷗外の津和野にしろ、彼らの出身地や作品の舞台など、ゆかりのある場所はこれまでにも多々訪れましたが、墓所というのは、その本人がそこに眠っているという点で、何とも言えない特別な雰囲気があるものですね。「ようやく来ることができました」と独り感慨に耽っていました。(笑)
閑静な住宅街の様子は、やはり下鴨にどこか似ている気がします。
太宰没後68年。変わってしまったものもきっと多いのでしょうけれど、各所に立てられた案内板が土地の記憶を語りかけ、今でも文学的空間へと誘ってくれます。
さぁ、次はどの作品の舞台を訪れましょうか。