さよなら北陸本線【その2・今庄燧ヶ城址】

2024年03月24日 11時31分33秒 | 鉄道関係
【その1】の続きです。

燧ヶ城址に登り、麓で買っておいた缶コーヒーで一服。
望遠レンズを取り出して、今庄宿を行く列車を撮影します。

最初にやって来たのは、上り敦賀行きの普通列車。


湯尾トンネルを抜けた列車がスピードを落とし、ゆっくりと今庄駅構内に滑り込みます。


停車時間も束の間、いまは保線車両の基地となっているSL時代の設備を横目に敦賀を目指します。
新会社に移る521系は新たなカラーリングが施されるようで、419系時代から続く青帯もこの区間ではいずれ見納めになるものと思われます(JRに残留する編成はそのままだと思いますが)。

続行して上り「しらさぎ」が通過します。




街道と線路の距離感はこの通り。
中央の近代建築は旧昭和会館(今庄地区公民館今庄分館)。1930年に今庄の篤志家・田中和吉によって建てられた地域のシンボルです。

さらに続いて上り「サンダーバード」が湯尾トンネルから顔を出します。


壁のように立ちはだかる越前の山々を抜け、一路関西へ。

今回の越前行もあって、最近、福井ゆかりの作家・水上勉の文章を読み返していたのですが、『日本紀行』(1975年)の「越前大滝」について述べた文章のなかに、以下の一節がありました。

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 味真野は、謡曲「花筐」にも出てくるのどかな山里である。ここから月尾谷をこえて、上池田の村を訪れると、もう岐阜県境に近い。山また山の奥に、ぽっかり穴があいたような谷間がある。福井市を流れる足羽川の上流だから、越路の山の奥の院だろう。

  み雪ふるこしの大山すぎゆきて
   いづれの日にかわが里をみん

 万葉の歌だが、都をはなれて、北辺の地に赴任していった昔の官吏が、敦賀の北に壁のように立ちはだかる南条の山々をみて、流恨の嘆きを託したものと思われる。味真野は、大山を越前側へ越えたとば口に近い。

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「味真野」とは、現在の越前市、北陸新幹線の新駅・越前たけふ駅にも近い地区ですから、まさしくこの山が立ちはだかる方向に当たります。
交通の便では随分と便利になった関西と嶺北の行き来ですが、実際にこうして「こしの大山」を前にすると、昔日の人々が感じていた「隔絶」が偲ばれます。

下り方面は普通列車がやって来たかと思えば、今庄駅に長く停車しています。
列車運行情報を見ると「サンダーバード」が後ろから接近中。退避のための停車でした。


最長の12両編成が通過します。
経営分離後の旅客列車は最長でも4両編成でしょうか。願わくばここで寝台特急を撮ってみたかったですね。

大阪寄り3両は旧塗装の編成でした。


リニューアルが開始されて9年近く。
見納めになると思われた旧塗装の編成は(付属編成のみですが)意外にも敦賀延伸まで生き残ることになりました。
右側に見えるトンネル坑口は旧線時代のもの。単線かつ非電化時代なので現在線と比較すると小ぶりですが、現在は道路に転用されています。

最後に「サンダーバード」を退避した普通列車を撮影して下山します。
経営分離後はこうした退避もなくなりますから、普通列車でも相当なスピードアップとなるようです。


旧昭和会館周辺をクローズアップ。


今庄宿を後にして。
【その1】でも触れた「矩折」がよく分かります。

駅前に下りてきました。


駅名標は「JR」部分に目張りがされ、新会社への移行準備がされています。
もっとも、これは駅の外側、駐車場を向いていますから、列車内の乗客が直接見ることはない面。
奥の駅名標は車内から見える面で、妙に綺麗ですが、これは丸ごと剥がすと下から3セク仕様の駅名標が出てくるのでしょう。今回の越前行では、こうした措置をこの先至るところで目にすることとなりました。

【その3】へ続く

さよなら北陸本線【その1・今庄】

2024年03月23日 19時15分26秒 | 鉄道関係
3月16日のダイヤ改正に伴い、北陸新幹線が敦賀まで延伸。
それに伴う並行在来線の経営分離はもはや新幹線開業時の恒例行事ですが、いよいよ「北陸本線」は米原から敦賀までとなり、大幅に区間が短縮されます。
京都からは比較的近いこともあり、今までにも「サンダーバード」で何度も通ったエリアですが、やはり最後にもう一度、ということで、嶺北地域の「北陸本線」を訪ねてきました。

3月7日(木)の出来事です。

行きは「サンダーバード3号」で北上しようと思っていたところ、春休みのせいか窓側がほぼ満席。
仕方なく4分後の新幹線で米原へ行き「しらさぎ51号」に乗り換えるルートを選びました。これでも目的地には同じ普通列車に接続することになります。


「しらさぎ51号」は米原始発。15分ほど前に入線してきました。


ダイヤ改正後も米原には来ますが、全便が敦賀止まりとなり、金沢行きは見納め。
名古屋発着は引き続き残りますが、米原を起終点とする便は「超」がつくほどの短距離特急となってしまいます。とは言え、この区間は特急を除けば新快速という名の各駅停車があるだけ、時間帯によっては近江塩津で乗り換えが必要ですから、特急の存続は当然と言えましょう。


新幹線との乗継割引と、北陸本線の自由席特急券の組み合わせもダイヤ改正で見納めとなります。
さらに背面テーブルには全車指定席化を告げる案内も貼られており、この敦賀開業が在来線特急にとっても大きな変化であることを示しています。


車内に入って驚いたのは、座席の枕カバーが以前の布製から合成皮革素材(?)に変更されていたこと。
一昨年頃からJR九州で導入され、西日本でも北近畿系統の特急では既に見られるようですが、このたび北陸特急においても導入されたようです。
短距離化に合わせて交換の手間とコストを削減したのかもしれませんが、どうも安っぽい印象は拭えません。

当初は空いていた車内でしたが、名古屋方面からの新幹線が着くと窓側の座席は8割方埋まり、新幹線連絡特急らしい様相に。
ノートPCを開けるビジネスマンや、大きな荷物を抱えた帰省客にインバウンドの外国人観光客など、意外にも乗り納めのファンの姿は少なめです。それでも特急の区間短縮は新幹線開業が近付くにつれて多くの人の知るところとなったのか、一見ファンではなさそうな人も「金沢」表示をスマホのカメラに収める姿も散見されました。

走り出した列車は湖北を一路嶺南へ、途中長浜で小休止を挟みながら、余呉湖のほとりを軽やかに駆けていきます。
トンネルを抜けると近江塩津、湖西線の高架を走る普通列車を一瞥すると、またトンネルを抜け、もうすぐ本格稼働を迎える新幹線基地を横目に敦賀駅に滑りこみました。所要時間にしてわずか30分程度、新幹線開業後はここが終点となるわけですが、乗り換えによる時間短縮を便利と捉えるか、手間がかかると捉えるか、目的地によっても評価が変わるところでしょう。


カラフルな特急の乗車位置案内を見ると、北陸に来たことを実感します。
新幹線開業後の特急列車は高架下の専用ホームに収まりますから、これらの表示も新幹線開業に合わせて撤去されるのでしょう。

敦賀では、向かい側のホームに停車中の普通列車に乗り換えました。
あまりにガラ空きなので拍子抜けしていたら、発車の少し前に、先ほど近江塩津で見かけた普通列車が到着。多くの乗客が我先にとダッシュで乗り換え(18きっぷシーズンの風物詩でしょうが、見苦しいことこの上ありません)、通勤電車のような混雑となりました。あと少しで18きっぷでは特例を除いて北陸本線の敦賀から先には乗れなくなりますから、私と同じように「乗り納め」の向きが多いのでしょう。


混雑も少しの辛抱、ふた駅目の今庄で下車しました。
米原や敦賀は多少温暖であったのが、北陸トンネルを抜けるとやはり肌寒く、嶺北に来たことを実感します。


そんな今庄と言えば、時折列車もストップする豪雪地帯。それに備えてか「JR」マークを掲げた除雪車が待機していました。
これもあと少しでロゴを消されるのか……と思っていたら、帰りにはなんと解体作業が始まっていました。おそらく除雪気動車(キヤ143)に置き換えられるのでしょうね。


跨線橋を上ると、新幹線開業を告げるポスターがお出迎え。


前回訪問時は確か10年ほど前、当時は委託の窓口が営業していました。
「サンダーバード」の手書きの指定席券を発行してもらった覚えがあります。


出入口には発車標(?)が掲げられています。
かつては到着列車ごとに駅員さんが並べ替えていたのかもしれません。北海道あたりでは今でも現役ですね。

駅舎全景。


窓口こそ無人になりましたが、観光案内所が併設されていて、人の気配はあります。
待合室も暖房完備、お手洗いも綺麗になっていて、新幹線開業でやって来る観光客を迎える準備は万全のように見えました。

今庄はかつて北国街道の宿場として栄えた町で、いまも街並みにその面影を残しています。


駅から少し歩くと、素晴らしい分岐に出会えました。
右が歩いてきた道(駅からの道)、左が旧北国街道です。北国街道のこの見通しの悪さは「矩折(かねおり)」と呼ばれ、宿場を整備する際に防御も兼ねて考えられたそう。




街道筋のほうでは、約1kmにわたって宿場の街並みが広がります。
列車は1時間おきですから、その間に歩くのにちょうどよい規模の街並みです。今でも現役の商家もあり、火災の延焼を防ぐ「うだつ」が目立つのが特徴。
そのなかでも、古い街並みを生かしながら新陳代謝が起こっているようで、空き家を活用したお店が今まさに開業の準備中でした。こちらのお店のようです。

時がゆっくりと 築90年の古民家利用のコーヒー専門店 今庄宿に完成


そのお店の向かいにあるのが、新羅神社。


その名の通り、新羅からの渡来民がこの地を開発したようで(このページが詳しいです)、新羅→今城(いまき・いまじょう)→今庄という地名の変遷は納得させられるところがあります。この後訪れた武生でも「叔羅(しくら)」という場所を通り過ぎましたから、この越前が古くから渡来民と関わりながら発展してきたことは間違いないでしょう。

神社にお参りを済ませてから、


愛宕山を登ります。
「源平古戦場」の石碑が示す通り、木曽義仲と平家の戦いの折に燧ヶ城(ひうちがじょう)が築城され、その後一向一揆勢が織田信長に敗れるまで山城として存在していたそうです。山じたいは標高267mとそれほど高くありませんが、由来が由来だけに傾斜がきつく、なかなか良い運動になりました。


いかにも城址らしい石垣の並びを抜けると、


頂上に着きました。




今庄宿が一望できる燧ヶ城址から、本日の撮影を始めます。

【その2】へ続く

早春の伯備線を撮る【その3・方谷】

2024年03月03日 11時49分52秒 | 鉄道関係
【その2】の続きです。

美袋駅を出た列車は、隣の備中広瀬駅までの間に総社市と高梁市の境を跨ぎます。
当初、美袋の撮影地から備中広瀬まで何とか線路の対岸を歩けないものかと調べていたのですが、撮影地からは山道を延々と迂回するか、線路沿いの国道(歩道なし、交通量多)を歩くしか方法はなさそうで、断念しました。
列車は備中高梁で「やくも13号」に追い越され、次の木野山で「やくも16号」と行き違い。その次の方谷で下車。


こちらは以前友人と訪れたことがあるのですが、それも高校時代ですから、実に10数年ぶり。
岡山で待ち合わせて急行「つやま」を撮り、伯備線で北上。ここ方谷と布原に寄り道をし、最終の芸備線を備後落合で乗り継いで三次に宿泊。翌朝は三江線で江津に出て山陰方面へ……という行程でした。今はもう芸備線の最終は備後落合での接続がなく、三江線も廃止されていますから、辿ることが不可能になってしまいました。
当時の伯備線は、381系の「ゆったり」改造前で、「スーパーやくも」が「やくも」に統一されたことで「緑やくも」が増殖中。普通列車は115系ばかりで、213系も未更新車。貨物列車にもコキ71が繋がれていた頃です。

ホーム端の地下通路を通って、駅舎へ向かいます。


前回訪問時とほとんど変わらない佇まいで迎えてくれました。


目立つ変化は、ICカード処理機が設けられたくらい。
駅名標もそのままですが、かつてはホームに置かれていたものでしょうか。


窓口も塞がれず、現役当時の雰囲気のまま。
前回訪問時は簡易委託駅で、窓口の方とお話した覚えがあります。今ならきっと何かしらの切符を購入していたことでしょう。


駅舎を出たところに、駅名の由来となった山田方谷生誕地の案内板がありました。
近年は山田方谷を大河ドラマの主人公に推す動きもあるようで、もし実現すれば、幕末期を最初から最後まで、ときに中枢にも関わりながら見届けた人物ですから、題材としてはおもしろそうです。


振り返って、駅舎全景。
伯備線内では美袋駅と並ぶ素晴らしい木造駅舎です。ちょうど西日が柔らかく当たる絶好のタイミング。


特徴的な車寄せのコンクリート柱。
これも郷土の偉人の名を由来とする駅の「威厳」でしょうか。開業が昭和3(1928)年ですから、それこそ山田方谷(1877年没)をリアルタイムで知る人もこの駅舎の開業に立ち会ったのでしょう。その感慨やいかに。


ちなみに、駅舎内は入れるようになっていました(時間・日時限定)。
出札をしていた当時の設備はありませんが、天井の高さや出札・荷物窓口高さなど、往時の雰囲気は十分味わえます。


駅舎を出てすぐ横にある、山田方谷の「長瀬塾」跡を示す石碑。
ちょうど現在の駅が塾跡となるようで、かの河合継之助もここを訪れたことがあるのだとか。


駅前の風景。
商店があり、前回訪問時はここでパンを買った覚えがあります。現在では閉業されているようで、せっかくなので自販機で飲み物を買いました。

さて、駅舎を一通り見たところで、撮影地に向かいます。

例によって対岸の国道には歩道がないので、駅横から旧道というか廃道を歩きます。
普段はほとんど通行がないのか、足元は石がゴロゴロ、枯れ草も茂ったままで、夏場だと虫が鬱陶しいかもしれません。


道中で見つけた「岡山県」の境界杭。
「県」が「縣」ではないですが、字体がなんとなく古そうです。

前回訪問時はこの辺りから河原に降りて撮影していましたが、今回はそのまま10分ほど歩いて南下。
しばらくすると、川沿いの小さな集落に辿り着きました。


国道からは橋を介して繋がっています。
橋の上から方谷駅方面を見ると、もうすぐ影が線路に掛かりそう。ここからは時間との勝負です。


撮り方を色々と考えているうちに「やくも15号」が通過。
偶然にも? 車両と欄干の色が揃っています。


後追い。
美袋の撮影地もそうでしたが、山と川に挟まれたわずかな平場を列車が走る、これぞ思い描いていた伯備線的情景です。
機会があれば「サンライズ」も撮ってみたいですが、Wet上でほとんど作例を見ないあたり、早朝は日が当たらないのでしょう。

この時間帯の「やくも」は方谷で交換しますから、急いで橋を渡ります。


「緑やくも」で運用される「やくも18号」です。
先ほどの川沿いと迷っていたのですが、天気が良かったので線路際で。4連がカーブにちょうど収まりました。


ロゴマークもバッチリ再現されています。
「スーパー」なき後、「ゆったり」で統一されるまで、ノーマルの「やくも」といえばこの色。
出雲市→米子で走っていた「通勤ライナー」ではロザが開放されていて、わざわざ乗りに行ったこともありました。

駅に戻って、列車を待ちます。


やって来たのは、またもや213系。
先ほど乗車した列車の折り返しです。

岡山行きなのでこのまま乗っていてもよかったのですが、今度は備中高梁で途中下車。


市の中心駅かつ特急停車駅らしく以前は窓口も営業していましたが、いまは券売機に置き換えられ、改札窓口も閉鎖。
周辺の無人駅の巡回サポートをするようになったので、実質的な無人駅となってしまいました。
この日は備中川面駅に駅員さんの姿が見えたので、巡回していることは確かなのでしょう。それにしても、と思うところはありますが、


駅を出るとすぐに高梁市図書館・蔦屋書店・観光案内所が併設されていて、こちらには人気があります。
蔦屋書店にはスタバがあるので、ここで小休憩。実は昼食を逃していたので、助かりました。

帰りの列車を調べたり、写真を整理したりして、「やくも20号」で高梁を後にします。


朝に撮影した「スーパーやくも」塗装がやって来ました。


ここまで沿線撮影ばかりでしたから、たまには駅でじっくり撮りたかったのです。
車体に大きく書かれた「SUPER YAKUMO」の愛称は、憧れのスーパー特急の証。工夫を凝らしたロゴマークばかりの現在にあって、シンプルな文字列が却って新鮮に映ります。

今回選んだのは、先頭車の11番列。


配管の関係で窓際のA・D席はなく、1人掛けの座席となっています。
高梁からはチケットレスで500円、短距離の乗車なので今回はここを選んでみました。
通路側なので外の景色はあまり楽しめませんが、一日歩き回ったので寝てしまい、気付くと岡山到着を告げる鉄道唱歌チャイムが。


降りてから、じっくりと撮影します。
愛称幕の「スーパー」がスピード感あふれる字体でカッコいいですね。
カラーリングも国鉄色から大きく変化しましたが、「ヒゲ」がアレンジされて取り込まれているのが好みです。


側面のLED行先表示は、現役当時にはなかった組み合わせ。


パノラマグリーン車側。
サロ譲りの大窓が特徴的です。もうこうした改造車もなかなか出てこないのでしょうね。


「スーパー雷鳥」「スーパーくろしお」など、西日本のスーパー特急でおなじみだったパノラマグリーン車も、この「やくも」が最後となってしまいました。
増解結における汎用性の観点からか、このところの新型車両は貫通型ばかりで、前面展望はむしろ普通列車のほうがよく見渡せます。代わりに(?)273系ではフルフラットにできるグループ席が設けられるようで、そちらも楽しみですね。


4月からの273系投入に伴い、このパノラマグリーン車はいち早く引退するようで、直接目にするのはこれがおそらく最後の機会。
最後に「スーパーやくも」として撮影することができて、ひとまず悔いはありません。381系じたいはもうしばらく残るようで、いつかの再会に期待です。