さよなら北陸本線【その1・今庄】

2024年03月23日 19時15分26秒 | 鉄道関係
3月16日のダイヤ改正に伴い、北陸新幹線が敦賀まで延伸。
それに伴う並行在来線の経営分離はもはや新幹線開業時の恒例行事ですが、いよいよ「北陸本線」は米原から敦賀までとなり、大幅に区間が短縮されます。
京都からは比較的近いこともあり、今までにも「サンダーバード」で何度も通ったエリアですが、やはり最後にもう一度、ということで、嶺北地域の「北陸本線」を訪ねてきました。

3月7日(木)の出来事です。

行きは「サンダーバード3号」で北上しようと思っていたところ、春休みのせいか窓側がほぼ満席。
仕方なく4分後の新幹線で米原へ行き「しらさぎ51号」に乗り換えるルートを選びました。これでも目的地には同じ普通列車に接続することになります。


「しらさぎ51号」は米原始発。15分ほど前に入線してきました。


ダイヤ改正後も米原には来ますが、全便が敦賀止まりとなり、金沢行きは見納め。
名古屋発着は引き続き残りますが、米原を起終点とする便は「超」がつくほどの短距離特急となってしまいます。とは言え、この区間は特急を除けば新快速という名の各駅停車があるだけ、時間帯によっては近江塩津で乗り換えが必要ですから、特急の存続は当然と言えましょう。


新幹線との乗継割引と、北陸本線の自由席特急券の組み合わせもダイヤ改正で見納めとなります。
さらに背面テーブルには全車指定席化を告げる案内も貼られており、この敦賀開業が在来線特急にとっても大きな変化であることを示しています。


車内に入って驚いたのは、座席の枕カバーが以前の布製から合成皮革素材(?)に変更されていたこと。
一昨年頃からJR九州で導入され、西日本でも北近畿系統の特急では既に見られるようですが、このたび北陸特急においても導入されたようです。
短距離化に合わせて交換の手間とコストを削減したのかもしれませんが、どうも安っぽい印象は拭えません。

当初は空いていた車内でしたが、名古屋方面からの新幹線が着くと窓側の座席は8割方埋まり、新幹線連絡特急らしい様相に。
ノートPCを開けるビジネスマンや、大きな荷物を抱えた帰省客にインバウンドの外国人観光客など、意外にも乗り納めのファンの姿は少なめです。それでも特急の区間短縮は新幹線開業が近付くにつれて多くの人の知るところとなったのか、一見ファンではなさそうな人も「金沢」表示をスマホのカメラに収める姿も散見されました。

走り出した列車は湖北を一路嶺南へ、途中長浜で小休止を挟みながら、余呉湖のほとりを軽やかに駆けていきます。
トンネルを抜けると近江塩津、湖西線の高架を走る普通列車を一瞥すると、またトンネルを抜け、もうすぐ本格稼働を迎える新幹線基地を横目に敦賀駅に滑りこみました。所要時間にしてわずか30分程度、新幹線開業後はここが終点となるわけですが、乗り換えによる時間短縮を便利と捉えるか、手間がかかると捉えるか、目的地によっても評価が変わるところでしょう。


カラフルな特急の乗車位置案内を見ると、北陸に来たことを実感します。
新幹線開業後の特急列車は高架下の専用ホームに収まりますから、これらの表示も新幹線開業に合わせて撤去されるのでしょう。

敦賀では、向かい側のホームに停車中の普通列車に乗り換えました。
あまりにガラ空きなので拍子抜けしていたら、発車の少し前に、先ほど近江塩津で見かけた普通列車が到着。多くの乗客が我先にとダッシュで乗り換え(18きっぷシーズンの風物詩でしょうが、見苦しいことこの上ありません)、通勤電車のような混雑となりました。あと少しで18きっぷでは特例を除いて北陸本線の敦賀から先には乗れなくなりますから、私と同じように「乗り納め」の向きが多いのでしょう。


混雑も少しの辛抱、ふた駅目の今庄で下車しました。
米原や敦賀は多少温暖であったのが、北陸トンネルを抜けるとやはり肌寒く、嶺北に来たことを実感します。


そんな今庄と言えば、時折列車もストップする豪雪地帯。それに備えてか「JR」マークを掲げた除雪車が待機していました。
これもあと少しでロゴを消されるのか……と思っていたら、帰りにはなんと解体作業が始まっていました。おそらく除雪気動車(キヤ143)に置き換えられるのでしょうね。


跨線橋を上ると、新幹線開業を告げるポスターがお出迎え。


前回訪問時は確か10年ほど前、当時は委託の窓口が営業していました。
「サンダーバード」の手書きの指定席券を発行してもらった覚えがあります。


出入口には発車標(?)が掲げられています。
かつては到着列車ごとに駅員さんが並べ替えていたのかもしれません。北海道あたりでは今でも現役ですね。

駅舎全景。


窓口こそ無人になりましたが、観光案内所が併設されていて、人の気配はあります。
待合室も暖房完備、お手洗いも綺麗になっていて、新幹線開業でやって来る観光客を迎える準備は万全のように見えました。

今庄はかつて北国街道の宿場として栄えた町で、いまも街並みにその面影を残しています。


駅から少し歩くと、素晴らしい分岐に出会えました。
右が歩いてきた道(駅からの道)、左が旧北国街道です。北国街道のこの見通しの悪さは「矩折(かねおり)」と呼ばれ、宿場を整備する際に防御も兼ねて考えられたそう。




街道筋のほうでは、約1kmにわたって宿場の街並みが広がります。
列車は1時間おきですから、その間に歩くのにちょうどよい規模の街並みです。今でも現役の商家もあり、火災の延焼を防ぐ「うだつ」が目立つのが特徴。
そのなかでも、古い街並みを生かしながら新陳代謝が起こっているようで、空き家を活用したお店が今まさに開業の準備中でした。こちらのお店のようです。

時がゆっくりと 築90年の古民家利用のコーヒー専門店 今庄宿に完成


そのお店の向かいにあるのが、新羅神社。


その名の通り、新羅からの渡来民がこの地を開発したようで(このページが詳しいです)、新羅→今城(いまき・いまじょう)→今庄という地名の変遷は納得させられるところがあります。この後訪れた武生でも「叔羅(しくら)」という場所を通り過ぎましたから、この越前が古くから渡来民と関わりながら発展してきたことは間違いないでしょう。

神社にお参りを済ませてから、


愛宕山を登ります。
「源平古戦場」の石碑が示す通り、木曽義仲と平家の戦いの折に燧ヶ城(ひうちがじょう)が築城され、その後一向一揆勢が織田信長に敗れるまで山城として存在していたそうです。山じたいは標高267mとそれほど高くありませんが、由来が由来だけに傾斜がきつく、なかなか良い運動になりました。


いかにも城址らしい石垣の並びを抜けると、


頂上に着きました。




今庄宿が一望できる燧ヶ城址から、本日の撮影を始めます。

【その2】へ続く

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