青もみじの真如堂へ

2020年06月07日 23時58分17秒 | 京都
6月最初の日曜日は、梅雨入り前の快晴。
新緑が見たくなり、5系統のバスに揺られて真如堂を訪れました。


真如堂前バス停(白川通)から参道を上がっていく途中にはアジサイが。
これからひと雨ふた雨ごとに楽しませてくれることでしょう。

境内に入ると、一面の青もみじが出迎えてくれました。






陽光を浴びた青もみじが創り出す緑と光の空間は、秋の紅葉に勝るとも劣らない魅力です。


この時期の真如堂には今までにも何度か訪れていながら、本堂の窓に映り込む緑は初めて気付きました。


「花手水」は最近よく見かけますが、あからさまな「映え」狙いではないささやかなもの。
こちらも周囲の緑が映り込み、大変美しいものでした。

最近はこうした社寺を訪れていなかったせいか、いつも以上に若葉の力強さを感じました。
きっと何事があろうとも、青もみじは今年もここで緑を育み、やがて秋には紅葉を彩っていくのでしょう。

「失われた送り火」を思う

2019年08月17日 02時04分13秒 | 京都
懸念されていた台風も過ぎ去り、今年も無事に五山の送り火がおこなわれました。


今年も友人宅の屋上で。
旧暦では7月16日、十六夜の月も顔を見せてくれました。

ところで、数日前に下鴨神社の古本まつりで購入した北條秀司『古都祭暦』(淡交社、1969年)には、こんなおもしろい記述がありました。この本は随想形式で著者の身内や地域の人々に取材した生の声が豊富に綴られていて、オーラル・ヒストリーの先駆けといったところでしょうか。

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「昭和九年にエライ風が吹いて、東山辺の松の木が根こそぎ倒されてしもたんや。そいでその松の木のお供養やちゅうて、仏教連合会が、まだ都踊りがはじまったばっかりちゅう時に、臨時の大文字を燃やさはった。そしたらその夏、京都はじまってこの方ちゅう大水が出て、四条の大橋も五条の大橋も流されてしもて、京都の半分が水浸しになったんや。しょうむないことするさかい、大文字さんのお祟りがあったんや」
もっと古い話では、
「明治二十四ねんの五月に、ロシヤの皇太子さんが日本へ遊びに来はった。そのご歓迎のために臨時の大文字をとぼさはったら、その四日目に大津で皇太子さんが日本の巡査に斬りつけられはって、世界中がひっくり返るような騒ぎになった。それも大文字のお祟りや」

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前者は京都大水害、後者は大津事件に触れたものですが、「臨時の大文字」なるものが催されていたのは驚きです。関連性はともかく「いらんことしい」は昔から居たのですね。
送り火と言えば民衆の手で維持されてきた厳粛なる宗教行事というイメージですが、近代に入ってからは時折このように軽んじられていたことが(少なくとも上記のエピソードからは)分かります。掘り下げれば他にも臨時開催の記録が出てくるかもしれません。

もう一つ気になるのは、どちらの証言も大文字(おそらく東山の如意ヶ岳)のみであること。
「五山」の名の通り、現在では大文字以外に四つの山(妙法は二つで一つ)に火が灯されますが、大津事件の頃(明治20年代)であれば、現在の五山の他にもたくさんの送り火(かつては十ほど存在したそうです)がおこなわれていたはずです。供養されたのは〈東山辺の松の木〉ですから、やはり近場の大文字で、ということになったのでしょう。そして、歓迎の意としても分かりやすいと考えられます。
五山送り火の中継番組では毎年のように「失われた送り火」についての情報提供を募集していますが(市原村の「い」については研究が進んでいるようです)、その他についてはまともな記録が残されてないことから、たった100年ほど前のことでも不明のまま。何とも歯がゆい思いですが、個人的な興味としては、大正期まで灯されていたという「竿に鈴」の送り火。やはりこれは生殖器崇拝の一環で、ご先祖を送るだけではなく、残された者の子孫繁栄の意も込められていたのではと思うのですが、果たして。

平成細雪

2018年02月24日 01時51分07秒 | 京都
表題のNHKプレミアムドラマが、BSでは1月に、総合では先日深夜にまとめて放送がありました。
カテゴリ分けを迷いましたが、ロケ地に京都も含まれているので「京都」に入れておきましょう。(笑)

さて、原作は言わずもがな谷崎潤一郎『細雪』ですが、あちらが昭和大恐慌の後から太平洋戦争の開戦前までを描いているのに対し、ドラマの時間軸はバブル崩壊に始まり、阪神淡路大震災を目前に終わりを迎えます。
物語の構造もおおむね踏襲されており、船場の旧家に生まれた四姉妹を主人公としながらも、描かれる空間の多くは阪神間であるところや、四姉妹を取り巻く人間関係などもおおむね原作を尊重したもの。ただ、時代はまったく違いますから、昭和初期を描いた原作からなるほどこのように置き換えられるのかと、毎度驚きと楽しみの連続でした。

ロケ地もほとんど関西で、とくに1話と4話に登場した宇治の興聖寺は新緑も紅葉も美しいですね。映像(画面の切り取り)の美しさ、緩急のつけ方は見事なもの。と言うのも、エンディングを見ていると、今もコンスタントに新作が放送され、再放送も盛んな「京都人の密かな愉しみ」と、どうやら同じ制作陣のよう。美しい四季の風物を織り交ぜながら、家や職業、ひいては土地に(ある意味で)縛りつけられながらもそれぞれの立場で生きていく人々、そして彼らが住まう〈京都〉を描いた実績は流石のものです。

「平成細雪」を底流するのはおそらく「喪失」。
人間や財産など、去っていくもの、失われていくもの、それでも乗り越えていかなければならないものは現代でも同じで、それに翻弄されるばかりでなく、受け容れて前に進んでいくことが一つのメッセージであったように思います。美しい四姉妹のキャスティングもぴったりで魅力的でした。「ごりょうさん」「こいさん」といった呼び方は平成初期であってもいまいちそぐわない気がしますが、姉妹の位相を示す重要な表現なので仕方ないでしょう。

並行して、平成初期という時代も私にとっては懐かしく映りました。まだ携帯電話が普及しておらず、連絡が行き違ったり手間取ったりした時代。結婚について旧来の「家」制度が大きく絡んでいた時代。良くも悪くも、まだまだ昭和の遺風を残していた平成初期が見事に描写されており、久々に幼少の頃を思い出すきっかけとなりました。
反対に言ってしまえば、モノがありふれてしまったこの平成末年、つまり現在の物語として『細雪』を再現することはもはや不可能に近いのでしょう。そうした点では、この30年という時間での大きな変化を認めざるを得ませんし、この時代の始まりにはまだまだ色々なものがなくて、同時に色々なものが残されていたのだということを実感させられます。まさに平成の夕暮れ時にぴったりのドラマだったのではないかと思います。

ところで、ドラマでも何度か出ていた〈夙川の土手〉は、昨年4月の桜の時期に訪れました。


この上流、阪急の線路から少し離れたところにある古民家カフェがドラマでは四女・妙子(こいさん)の工房として登場していましたが、その時は入ろうかどうか迷い、結局は苦楽園の喫茶店に収まった覚えがあります。(笑)
気付けば2月も終わり。また季節が一巡りしようとしています。気温も上がって徐々に春めいてきましたから、久々に原作を片手に阪神間へ足を延ばしてみましょうか。

「京都みなみ会館」閉館・移転へ

2017年12月03日 22時28分06秒 | 京都
一昨日の京都新聞より。

京都現存最古の映画館閉館へ みなみ会館、移転再開目指す

半世紀以上の歴史があり、一般映画の上映館としては京都市内で現存最古の「京都みなみ会館」(南区)が来年3月末で閉館することが30日、分かった。賃借していた建物が老朽化し、多額の修繕費を捻出できないのが主な理由。来年秋以降に近隣での移転再開を目指しているが、東寺近くの国道1号沿いで1980年代以降、アート系ミニシアターとしてファンに愛されてきた建物は取り壊される見込み。
 戦後、映画館のあった場所に1963(昭和38)年末、2階が映画館となる現建物が建ち、「みなみ会館」として改装オープンした。当初は邦画封切館、後にポルノ上映館になった時期もあったが、88年に地元の巌本金属がオーナーになってからは、上映企画会社「RCS」に作品編成を委託し、アート系が定着した。
90年代のミニシアターブームに乗り、スクリーン数は一つながら多くの話題作を組み合わせて上映。溝口健二や市川雷蔵といった京都ゆかりの名作、ヌーベルバーグの旗手であるフランスのゴダール監督など、お薦めの洋画の特集もした。休日前にはオールナイト上映もあり、150の客席が埋まる時もあった。7年前にRCSとの提携を終えて以降は会館直営でこだわりの作品を上映してきた。
 吉田由利香館長(29)は「近くで来年中にも再開できるよう調整を進めている。映画館として新しい場所で発展できるようにしたい」と話す。現会館でのサヨナラ企画を今後展開する。
京都市内のミニシアターは、下京区の「京都シネマ」(スクリーン数3)のほか、上京区の出町桝形商店街に「出町座」(同2)が近くオープンする予定。

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今年7月の立誠シネマ閉館に続いて、みなみ会館も来年3月に閉館の報。
私にとってはこちらの方が身近な存在だったので寂しい気持ちでいっぱいですが、築年数がそんなに経っていたとは思いませんでした。何と言っても斜向かいに東寺があるので周囲の建物はみんな新しく見えてしまうのですが(笑)、座席の掛け心地は他にはない快適さで、オールナイト上映の際はうっかり寝てしまうことも……。
最近では「この世界の片隅に」「真白の恋」などを観に行きましたが、単館系映画館ならではのこじんまりとした雰囲気や独特のラインナップは、青春や恋愛、時にはエログロやデカダンス、戦争と平和といったものを教えてくれる存在でした。移転後もそうした空間であり続けてほしいですね。

しかし、気になるのはやはり「近隣での再開」という文言。そうなると南区か下京区辺りだと思うのですが、南区は場所によってはアクセスに難があり、梅小路公園には温泉を作るようですし、やはり芸大移転を控えて活気が期待できる崇仁地区などでしょうか?
「来年中に」とあらばもう既に決まっているのかもしれませんが、続報が気になるところです。

「ロームシアター京都」で歌舞伎を観る

2017年11月12日 01時56分28秒 | 京都
6日(月)は岡崎の「ロームシアター京都」で「ANAチャリティー大歌舞伎」を観てきました。


行きは市バスの「岡崎ループ」に遅ればせながら初めて乗車しました。
岡崎地域の回遊を目的として2015年9月に新設された系統ですが、当初は三条京阪発着のため知名度がイマイチ上がらず。四条通に乗り入れようにも2車線化による定時性の確保が懸念され、市電を模したデザインの専用車はいつ見てもガラガラの状態でした。
交通局もこれではさすがにマズいと思ったのか、今春のダイヤ改正からはようやく四条河原町への乗り入れが叶い、阪急電車や市バス各系統と結ばれたこと、観光シーズンにも入ったことでこの日は立ち客も出ていました。

さて、「ロームシアター京都」の前身は、前川國男設計の京都会館(1960年築)。
老朽化に伴い改修工事とネーミングライツによる改称が実施され、昨年1月に「ロームシアター」として再出発を果たしました。私は小中学生のときに行事で何度か訪れた覚えがありますが、リニューアル後の鑑賞は初めて。
現在、四条南座が耐震性の問題から改修・休館中のため、京都市内での歌舞伎上演は歌舞練場(先斗町)や春秋座(京都造形芸大)、そしてここロームシアターなど、会場変更を余儀なくされています。

この日の演目は「義経千本桜(鮨屋の段)」と「釣女」のニ本。


2階席からの観覧となりました。
演目自体は非常に楽しいものでしたが……花道が無いので、1階客席後方から中村獅童が出てきたのが当初分かりづらく(2階からだと真下を覗き込むかたちになる)、客席が4階まで設けられているので、役者さんによってはやや声が通りにくいという点が目立ちました。
いずれもホールの構造上の問題で、たとえばオーケストラ等の場合は迫力があるのだと思いますが、やはり歌舞伎だと南座に勝るところはないな、というのが正直なところ。12月から始まる顔見世(2013年に初めて観たときの記事はこちら)もロームシアターでの開催となるようですが、早く本来の場所での公演が復活してほしいものです。

ところで、「義経千本桜」の舞台は大和国・下市村。


(写真は吉野駅)
近鉄吉野線の沿線で、モデルとなった鮨屋さんは今でもあるようです。
「黒塚」の安達ケ原然り、その舞台を一度でも通過したことがあると、観るときのイメージもより膨らみますね。


そして、吉野線と言えばやはり「青の交響曲」。
再度の乗車をと思い時々チェックしているのですが、なかなか空きが出ません(今年2月に乗車した際の記事はこちら)。いまは紅葉シーズン真っ只中ですから、また閑散期を狙ってみましょうか……。

畦木のある風景

2017年10月19日 02時53分16秒 | 京都
京都新聞「凡語」(10月17日朝刊より)

稲刈りをほぼ終えた田園風景に緑の樹木が点在する。田んぼわきに植えられた畦(あぜ)木は亀岡盆地の代表的景観で、彼岸花の盛りには畦を染める赤や稲穂の黄金色との鮮やかなコントラストで写真愛好家らを引きつける。
もともと田畑の境界を示し、刈った稲を乾かす稲木などに使われてきた。(中略)実に27種類、推定2千本はあり、稲木用に低く枝を落とすため「げんこつ」「もじゃもじゃ」などと呼ぶユニークな形が多いことも捉えた。
見えてきたのは先人の暮らしぶりだ。山に遠い盆地中央部は燃料となるクヌギやハンノキ、保津川の近くはヤナギが多く、水路の土手の補強も担っていた。「根を張る畦木なら洪水時も流されず、泥で埋まっても目印にして復旧しやすかったのだろう」という。
この20年、ほ場整備や機械化で次々と畦木は姿を消している。(中略)冷え込む朝の霧に浮かぶ畦木は「亀岡の原風景」ともいわれる。一本一本に込められた自然との向き合い方に思いをはせつつ見守りたい。

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亀岡地域にみられる「畦木」についての記事です。
これを読んで思い出すのが、数年前に381系を追いかけていた頃のこと。
確かに、並河・千代川間の線路沿いの田畑には、小さな木が点在していました。


サイドからはすっきりと編成を収められる場所が少なかったため、木を入れて水鏡写真を狙った覚えがあります。
当時は「小さい木が多いな」という程度の印象だったのですが、まさしくこれが畦木だったのです。
そうと知れば、何の変哲もない287系の走行写真も亀岡らしい一枚に!(笑)


言われてみれば、こうして田園の真ん中にポツポツと木が生えている光景は他ではあまり見ません。
独特の植生も、その小振りな形も、すべて先人の手によるものと聞けば納得です。


八木城址に登れば、桂川が横たわる亀岡盆地が明瞭に浮かび上がります。
記事中にもある通り、たびたび水害に見舞われた当地において、失われた田畑を再興する際の目印になったのが畦木だったのだそう。画像の下半分、一直線に並んだ畦木の列を見るとその意図も何となく想起できます。

国鉄特急色を目当てに何度か通った亀岡盆地。京都市内からほど近い田園風景には時折心癒されますが、あぜ道の小さな木ひとつにも土地の歴史が詰まっているのだと、改めて同地のもつ魅力に気付いた次第です。
「丹後の海」や「瑞風」などまだまだ撮りたい列車は走っているので、次に訪れた際はぜひ畦木と列車を共に。

「立誠シネマ」閉館・移転へ

2017年06月15日 02時09分22秒 | 京都
昨日の京都新聞より。

出町の商店街にミニシアター 京都、立誠シネマが移転

京都府舞鶴市の映画製作配給会社「シマフィルム」は、8月末にも京都市上京区の出町桝形商店街にミニシアターをオープンする。現在、元立誠小(中京区)で運営している「立誠シネマ」は7月30日に閉館する。
 新しいミニシアター「出町座」(仮称)はかつて薬局などが営業していたビル(地上3階地下1階建て、延べ約370平方メートル)に入居。デジタル上映の機材を備えた約50人収容のスクリーンを地階と2階にそれぞれ設ける。1階にチケットカウンターや書店、カフェが入り、3階は俳優や脚本家などの養成講座「シネマカレッジ京都」の会場やギャラリーとして活用する。
 シマフィルムは2013年から元立誠小でシネマ(35席)と同カレッジを運営し、レトロな校舎の中にあるシアターとして、映画ファンに親しまれた。しかし京都市は今春、民間事業者による学校跡地の再整備案を選定。旧校舎の改修にあわせ新棟も併設し、地域文化活動の拠点やホテルとして活用する計画で、20年夏までの開業を目指している。同シネマは退去する必要があり、事業を継続する移転場所を探していた。
 同社は「出町は交通のアクセスがよく、周辺に同志社大や京都大、京都造形芸術大などもあり、学生の来場が見込める」としたうえで、「立誠で培ってきた映画文化をさらに育て、地域にスクリーンがある豊かさを実感してもらえる場所を目指す」と語る。
 出町桝形商店街の井上淳理事長(70)は「若者から往年の映画ファンまで多くの人が訪れて、よりにぎわうことを期待している。そして、個性的な店が多い商店街の魅力を知ってもらいたい」と話している。

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私も時折観に行っていた、木屋町にある「立誠シネマ」が閉館・移転するとのことです。以前、同地にホテル計画が浮上した時から「もしや……」とは思っていましたが、その移転先はなんと出町桝形商店街! 名前も「出町座」と改めるようで、小学校の教室を活用したこじんまりとした独特のシアターがなくなるのは寂しい反面、馴染みの場所に新たな映画館が誕生するのは嬉しいことでもあります。
元・立誠小学校は日本初の映画試写実験がおこなわれた場所でもありますが、そういえば桝形商店街から川を挟んだ「鴨川デルタ」の葵公園にもかつての松竹撮影所がありました。映画発祥の地に復活した映画館は、その移転にあたってもやはり映画ゆかりの地(に、ほど近い場所)を選んだ、というのはいろいろな偶然が重なったにせよ、土地の記憶が結ぶ不思議な縁を見出してしまいます。

さて、その出町ですが、交通アクセスの良さはもちろん、世界遺産の下鴨神社にも近く、かの出町王将や「ふたば」の豆餅は有名ですし、近年ではアニメ「たまこまーけっと」や「有頂天家族」の舞台にもなったことから、新たな文化発信の地としては十分に期待できるかと思います。そして記事にもある通り、何より同志社と京大の中間地点に位置しますから、もし私がいま学生だったら間違いなく入り浸るようになるでしょう。(笑) 周辺には魅力ある喫茶店も多数ありますが、ここまで来るとやはり「ほんやら洞」が焼失・閉店してしまったのがつくづく悔やまれますね……。

開館までにはしばしタイムラグが生じるものの、7/30の最終日まではなかなか興味深い上映スケジュールで(「この世界の片隅に」も再び上映)、私も久々に足を運んでみようかと思っています。梅雨どきこそ、映画都市・京都を満喫する絶好の機会ですね。

水害の記憶

2016年09月19日 16時47分19秒 | 京都
昨日の京都は大雨。
そして連休明けには台風16号が近付きつつありますが、この時期の台風と聞いて思い出すのが、3年前のこと。
2013年の9月16日、台風18号による大雨で桂川が氾濫し、特に嵐山地区では甚大な被害をもたらしました。
当時、台風一過の下流(七条・八条通間)の様子を見に行ったことがあるのですが、写真を撮ったままお蔵入りさせるのも勿体ないので、この機会に振り返ってみたいと思います。



















・おまけ


不通となった阪急電車の代行か、普段は走らない七条通に阪急バスが走っていました。

行者餅を食べる

2016年07月26日 01時19分55秒 | 京都
祇園祭後祭山鉾巡行が終わり、京都もいよいよ夏本番の様相。
後祭で巡行する山鉾の一つに役行者(えんのぎょうじゃ)山がありますが、その山にちなんだお菓子が宵山限定で販売されています。


その名も「行者餅」。
年に一度、宵山(ただし前祭宵山なので16日)の日中のみの限定販売です。恥ずかしながらつい最近まで存在を知らなかったのですが、年に一度とくれば乗らない……いや、食べないわけにはいきません。(笑)

お店は東山安井にある柏家光貞さん。
疫病が流行した19世紀、当時の主人が山伏の修行中、夢枕に現れた役行者の命に従って作られたのが起源とされています。
役行者とは山伏の元祖であり呪術師、別名は役小角(えんのおづの)。ちょうど町田康の小説『人間小唄』には小角という人物が登場しますが、やはりどこか関係があるのでしょうか。滅茶苦茶で一貫性のないストーリーでありながら、如何ようにも解釈できるおもしろい作品です。

さて、お店の前ですが……


鉾町のある「街」からは離れているので人は少なかったものの、それでも30分ほど並びました。顔触れは、やはり毎年来ているのであろう常連さんや「通」の観光客らしき姿が目立ちます。


お店の前の立て看板。
来年からは当日販売のみに切り替えるようです。おそらく前日は大忙しなのでしょうね。注文をきいてお店の奥から運ばれてくる販売形式でしたが、その他にも季節のお菓子があり、見た目にも涼しげでした。

かくして行者餅を手に入れたわけですが、1枚目の写真の通り、行者の衣を模したクレープのような生地のなかに、求肥と、山椒の効いた白味噌餡が詰まり、ピリッとオトナ向けの味わいです。これが年に一度の販売というのですから毎年並ぶのも頷けます。良い厄落としになりました。

そして、先週木曜日は後祭宵宵宵山へ。




件の役行者山と、


以前アルバイトで曳かせてもらった黒主山を訪れました。後祭は山が中心で数は少ないですが、出店がないので落ち着いて回れますし、どの山もユニークで見応えがあります。人ごみが苦手な方は是非後祭の方へ。(笑)

葵祭2016

2016年05月15日 22時42分03秒 | 京都
好天に恵まれた今年の葵祭。
「路頭の儀」を下鴨本通で見てきました。




一般車は交通規制中なので、南行車線をバスが北上していく光景が見られます。こう陽射しが強いとバス車内から見るのも良さそうに見えますが、規制のお陰か意外とスムーズに通り抜けて行きました。が、この4系統の終点は上賀茂神社ですから、上手くバスを捕まえれば追っかけが出来そうです。


見物中に遭遇した唯一のツーステ車、205系統の6413。
車齢20年を迎えるこの車にとっては、おそらくこれが最後の葵祭輸送となるでしょう。


乗り物いまむかし。(笑)
南行車線のバスは見物の背後から来るのでヒヤッとしますが、「後ろからバス来てますよ、足踏まれますよ~」と、DJポリス(?)によってきちんと注意喚起がされていました。


今年からの新顔、ケイルックによる「K'Loop」。
京阪バスが運転していた「京都ひるバス」を引き継いだもので、休日に市内の観光地を周遊しています。とは言え、本数・路線数ともに市バスが幅を効かせている現状ではどのくらいの需要があるのか少々気になるところ。そのほか、京都駅と南部を結ぶ「京都らくなんエクスプレス」の運行も担当しており、前面の「R'EX」ロゴがそれを物語っています。




今年の斎王代さん。


最後に1系統を撮って撤収。短時間でしたが日に焼けた気がします。
これで京都に初夏が到来。次は祇園祭、それまでには今よりもっと暑くなりますが、何とか5月の残り半分を無事に乗り越えていきたいものです。

高野川と疏水の桜

2016年04月06日 00時14分05秒 | 京都
毎年楽しみにしている下鴨界隈の桜が、今年もきれいに咲いてくれました。













春に桜が咲くのは当たり前、ゆえに従来は特段の興味・関心を抱いてはいなかったのですが、大学に入ってからというもの、たとえば近代以降の公園や学校の整備にまつわる桜の役割や、桜に対するイメージ付与(城址に植えられた桜、或いは「同期の桜」などがそうです)を知るにつれ、以前よりもじっと眺めることが多くなった気がします。
私にとっての本番は桜が散ってからになりそうですが、それまでは、この束の間の景色に心ゆくまで癒されようと思います。

夏の終わり

2015年09月01日 21時47分44秒 | 京都
9月に入りました。
夏より秋、秋より冬が好きな私にとっては非常に嬉しい、季節の変わり目です。(笑)

結局、今年の夏は京都に閉じこもっていましたが、地元・梅小路蒸気機関車館の閉館は大きな出来事でした。
来春に京都鉄道博物館としてのリニューアルオープンを控えた一時閉館とは言え、今まで自宅や学校の教室にまで日常的に聞こえていた汽笛が途絶えてしまうのですから、寂しさもそれなりに。

さすがに最終日は混雑しそうだったので、閉館3日前の木曜日に行ってきました。
おおかた夏休みも終わった平日の午前中なら、まだ落ち着いて楽しめるだろうという魂胆です。


予想は当たり、10数年ぶりに館内へ足を踏み入れた感想は……記憶のなかと何も変わっていない!
写真手前のちびっ子はそれぞれ別の方向に駆け出していきますが、実は、私が彼らくらいの時は、黒いSLはただただ恐怖の存在でした。
炭水車を従えたその葉巻状のフォルムはもちろん、地獄の底にまで響きそうな汽笛、そして「窓がない」という怖さ。
趣味の対象となった今では信じられない感覚ですが、同じような理由で、山陰線の暗いホームに停まっていた国鉄色のキハ181も先頭の機械室部分を見るのがどうも苦手だった覚えがあります。
そう思えば、いまの車両は随分と丸っこくて優しげな表情になりましたね。


機関車にはいずれも閉館を記念する旗が掛けられていましたが、D52のものがいちばんきれいだったので一枚。


C56とオハフ50は模型用にと細部写真も撮っておきました。
休憩室となって久しいオハフ50ですが、後付けの家庭用エアコンを除いてほぼ原型を残していると思われ、屋外にしては保存状態も良好です。


そして、嵯峨野線の築堤下から不気味に口を開けるトンネル……かつて流れていた鍋取川の遺構です。
周辺には他にも幾つかの支流や旧流路がありましたが、現在は全て廃川or暗渠化され、このトンネルの前後も既に跡形はありません。
この界隈は梅小路公園だけではなく、かつて存在した市電のアンダークロスや豊臣秀吉の築いた御土居堀など、古くから地形が改変され続けてきたエリア。それも鉄道博物館の建設と嵯峨野線の新駅設置でようやく一段落しそうですが、既に役目を終えた川のトンネルなどいつ消滅してもおかしくない状態なので、これが最後の機会と思い収めておきました。


空が広く見える、扇形機関庫と転車台。
ここが原爆の投下地点候補となっていた時代から、70年が経ちました。


ハチロクの牽くスチーム号。
願わくば博物館開館の暁には京都駅からシャトル輸送でも……と思ってしまいますが、いろいろと制約があるのでしょうね。


帰りに遭遇した381系、こちらは残り2ヶ月です。

後祭宵山

2015年07月24日 01時44分50秒 | 京都
時間が出来たので行ってみました。




以前アルバイトさせてもらった黒主山。
オリジナル手ぬぐいを買って、御神体の大伴黒主さんにお参り。




鯉山。
この山の懸装品は、16世紀にベルギーで制作されたタペストリー。
伝来した経緯が未だ不明であるところに、祇園祭の奥深さ、おもしろさを感じます。


後祭が復活してから初めての訪問となりましたが、交通規制ナシ・出店ナシで、人も少なく落ち着いて回ることが出来ました。
おそらくはこれが本来の宵山の雰囲気なのでしょう。久々に森見登美彦『宵山万華鏡』を読み返したくなりました。

2015年の祇園祭

2015年07月19日 02時18分59秒 | 京都
台風の接近により、開催が危ぶまれた今年の祇園祭(前祭)山鉾巡行。
過去4年連続で曳き手のアルバイトやボランティアに参加してきましたが、今年は都合がつかず辞退。
当日は強風に加えて大雨となりましたが、懸念されていた台風は進路を変え、大きなトラブルもなく無事に執り行われたようです。

さて、今回多くの人が注目した巡行そのものの決行ですが(決行が発表されたのは当日の早朝5時過ぎでした)、過去に中止となった例はあまり聞いたことがありません。
そのせいか、巡行前日の16日には各新聞社が「何百年も」前の中止例を参照しながら開催の可能性に言及。
なかでも、読売新聞のサイトが詳しくまとめてくれていますので、引用しておきます。

・YOMIURI ONLINE「本能寺の変で延期した例も…祇園祭に台風迫る」http://www.yomiuri.co.jp/national/20150716-OYT1T50193.html(2015年07月16日 16時03分)

1467~99年 応仁の乱による荒廃で中止
1582年 本能寺の変で11月に延期
1680年 徳川家綱の死去で延期
1865年 前年の禁門の変の影響で前祭中止
1879年 コレラ流行で前祭・後祭とも11月に延期
1884年 大雨で前祭の山鉾巡行を中断し、23日に延期
1886年 コレラ流行で前祭・後祭とも11月に延期
1887年 コレラ流行を警戒し、前祭・後祭とも5月に前倒し
1895年 コレラ流行で前祭・後祭とも10月に延期
1912年 明治天皇の容体悪化で後祭を中止
1913年 明治天皇崩御の服喪で前祭、後祭とも8月に延期
1943~46年 太平洋戦争の戦局悪化と戦後の混乱で中止
1962年 阪急電鉄の四条通地下工事で中止

これを見ると、応仁の乱や本能寺の変といった一般にも広く知られている歴史的事実に影響されたこと、疫病退散を願って始まった祇園祭もコレラには勝てなかったことや、ほんの100年ほど前までは時期を変更したケースが多くみられ、意外にもフレキシブルな運用がされていたのだと驚きます。
現代では交通規制やそれに伴う各種手配諸々の関係で前倒しや延期などはまず無理だと思いますが、いずれにせよ、過去50年間は予定通り決行されてきたため、前例を知らない人が多いのも無理はありません。

直近では1962年、阪急電鉄(当時は「京阪神急行電鉄」)の大宮~河原町間地下線の延伸工事のため中止されています。
実はちょうどこの頃の京都を研究対象としているので、これについては以前から知っていましたが、せっかくなので手元にある当時の新聞記事をあわせてご紹介。

・京都新聞 1962年7月17日(火曜日)夕刊 「祇園祭り〝ショート巡行〟に歓声」

きょう十七日は、京の夏を飾る日本の三大祭り、祇園祭りの本番。ことしは阪急の地下鉄工事で山ボコの四条通巡行は中止。伝統破りの「動かぬ祇園祭り」となったかわり、各ホコ町の祇園ばやしはひときわ高く〝聞く祇園祭り〟をかなでた。一方、鶏、菊水、放下三ホコ町でも〝町内デモ〟で観光、見物客を集めたが、朝からの高曇りもひびいて午前中の人出は府警本部調べで四万人。例年の人波を大きく下回った。

・京都新聞 1962年7月24日(火曜日) 「ひっそりと「宵山」 後の祭り九基の山に点灯」

……後の祭りは、近年、十七日行なわれる前の祭りに人気を奪われたかっこうであまりふるわないうえ、ことしは四条通の阪急地下鉄工事で前の祭り同様、巡行中止・居祭りときまったためかこの夜の人出は少なく〝かき山〟の町筋などひっそりしたもの。(中略)なお居祭りになっている後の祭りでも、南、北両観音山だけは前の祭りの鶏、菊水、放下の三ボコ同様、町内巡行を行ない、〝動かない祭り〟に花をそえることになっている。

これらの記事によると、この年の祇園祭は一部の町内に限って小規模な巡行はあったものの、基本的には山鉾の動かない「居祭り」になったことが分かります。いまでは「動く美術館」とも評される山鉾ですから、人出が大きく減ったのも納得します。
また、24日付の記事にある「近年、十七日行なわれる前の祭りに人気を奪われたかっこうであまりふるわないうえ」といった記述の通り、交通渋滞の懸念や観光の促進、高度経済成長といった時勢もあり、この数年後の1966年には、前祭・後祭が一昨年までみられた合同運行の形式に変更されることとなりました。

そうした長い歴史のなかで、幸いにも中止の前例に加わることなく決行された今年の前祭山鉾巡行。
しかし、昨年から後祭が復活、今年は四条通の歩道拡幅後初の巡行となり、祇園祭そのものが、そして、それを取り巻く〈京都〉は確実に変容し、一つの転換期を迎えていることは確かです。
今回、中止が懸念されたことからたまたま歴史を振り返る機会に恵まれましたが、時代を遡れば、疫病にはじまり、戦争、災害、時の政策――様々な出来事による「曲がり角」を経てきた祇園祭、そのたびに、懸命に「辻回し」をおこないながら困難を乗り越えてきた町衆(まちしゅう)の力に、改めて尊敬の念を抱かずにはいられません。

藤森神社の紫陽花

2015年06月10日 01時20分04秒 | 京都
各地で入梅、京都も曇りのち雨の予報。
そんな月曜日の夕刻、紫陽花で知られる藤森神社を訪れました。


京阪墨染駅から徒歩数分。JR藤森駅へ向かう途中の坂道にあり、京都教育大学に隣接しています。
表は何度か通ったことがありますが、境内に入るのは初めて。


日本書紀の編纂にも携わった舎人親王や、この地で戦勝を祈願して出陣した早良親王をはじめ十二柱を祀っています。
そうした経緯もあり、軍都として栄えていた戦時中には武運と馬の神社としても信仰も。なかなかディープな伏見の歴史、まだまだ知らないことがたくさんあります。

さて、お参りを済ませて、境内の外れにある紫陽花苑へ。






色とりどりの紫陽花。見頃は来週辺りでしょうか。
思えば紫陽花をじっくり撮るのは初めてのような気がします。
八重桜もそうですが、こう、豪華に咲き誇る花が好きですね。




そんな中で、「青」の美しさにしばし見とれていました。
真ん中のボタンのように見える箇所が実は「花」の部分で、ここが開くと満開。周囲の花びらのように見えている部分は、実は「萼(がく)」だそうです。
とは言え、これでは余りに立派な萼で、誤解する人が多いのも仕方ないところですね。


去り際に見つけたカタツムリの親子。
せっかくなので、今年は梅雨を楽しんでみようと思います。