今日は服を買いに行ったのですが(後期もRockにいきます!)、意外と早く終わったのでその足で大学へ。
存心館の地下で城山三郎『官僚たちの夏』を買い、清心館ラウンジで少しだけ読んだ後、帰路につきました。
私の大学からの帰宅ルートですが、今まで(おそらく)一度たりとも同じルートで帰ったことがありません。
要は、毎日毎日色んなところに寄り道しているというわけでして、自転車通学ならではの芸当です。
特に最近は京都の街の変遷について興味をもっているので、帰りながらそれをフィールドワークすることが出来るのです!
こんなオイシイ環境は無い!ということで、今日は暗渠になった川の行方を追ってきました。
その川とは鍋取川。
かつて京都の街には無数の川が流れ、水運の一翼を担っていたものもありました。
堀川や今出川、小川など通り名として定着したものもありますが、時代が進むにつれ、そのほとんどは暗渠・廃川となり地上から姿を消しました。
堀川は再び水の流れを甦らせることに成功しましたが、やっぱり人間ってのは、なくしてから気づくものなんでしょうねぇ…。
ネットで下調べもして半ば分かっていた部分もあったのですが、やはり実際にフィールドワークしないと気が済みません!(笑
というわけで、堀川五条下ル、西本願寺の北からスタート!
実は堀川通の西側の歩道そのまま堀川の跡で、その辺りから鍋取川が分岐していたそうです。
堀川通から西に入り、西本願寺の塀に沿って少し進んだところ。
左が西本願寺の塀で、その下、つまり歩道部分が川だったそうです。
奥に見えるのは大宮通。
その大宮通を横断して、島原商店街へ入ったところです。
この辺りは重要文化財の角屋も保存されているように、古くからの街並みがそのまま残っています。
となると、この辺りを駆け抜けた新撰組隊士たちは鍋取川の現役時代を知っているというわけで、壮大なロマンが広がります♪
上の写真にある通り、流路と思われる路地を入ってみます。
この路地にはほとんどの家屋が裏口を向けていて、川であった証拠を裏付けているようです。
路地を辿っていくと、平安高校の門の直前に橋の跡を発見!
この路地が鍋取川の流路である紛れも無い証拠です。
もう、雨の降った時しか水が流れないのでしょうね…。
さて、この路地をもう少し辿ると七条通に突き当たりますが、そこからは痕跡と呼べるものが完全に消滅してしまっています。
調べた結果では梅小路公園の蒸気機関庫脇を抜けて東海道本線を越えていたそうですが、痕跡すら無いそうです。
仕方なく大宮通に戻り、八条大宮まで下って西へ進み、六孫王神社を越えたあたりまで来ました。
奥に見えるのは東海道新幹線の高架です。
路面に明らかな起伏があります。
起伏の上まで来て左折すると…
いつの間にか川幅が広がって、暗渠の始まりです!
これを辿ってみます。
暗渠はご丁寧にタイル貼りとなり、九条通に面する羅城門跡まで来ました。
そう、ここがあの芥川龍之介『羅生門』のモデルとなった羅城門の跡です。
どんな大きな門だったのか、朱雀大路すら消えてしまった今では知る由もありません。
生活道に転用された暗渠は九条通、十条通を越えて続きます。
暗渠化後に整備されたと思われる植え込みには時折ヒガンバナも見られました。
ずーっと辿るうちに曲がって曲がって、吉祥院処理場まで来ました。
奥に祥鳥橋が見えていて、その先でようやく鍋取川との対面が果たせます。
橋を渡ったところ。
鍋取川がようやく暗渠からその姿を現しましたが…
あっという間に、西高瀬川に合流してしまいます。
わずかな流れに、哀しき三面張り。
しかし、全区間を暗渠化され人々から忘れ去られた川も多い中で、末端の少しだけでも陽の当たる鍋取川は、まだまだ幸せな方なのかもしれません。
小学生の頃には下に降りて遊んだり(魚がいた!)、中学生の頃には暗渠の中まで入っていったものですが…
今ではそんなこととても出来ません。
超地元ということもあり、初めから分かっていた部分も多かったのですが、
起点から探索することが出来たのは満足でした。
ただ、4枚目の写真、平安高校の付近では全く水の流れが無かった鍋取川が、最後には少量の水を讃えている点は不思議に思いました。
どの辺りから水が来ているのか非常に気になります。処理場?
全部携帯で撮った気まぐれなレポでしたが、今後も探索を続けていこうと思います↑↑
存心館の地下で城山三郎『官僚たちの夏』を買い、清心館ラウンジで少しだけ読んだ後、帰路につきました。
私の大学からの帰宅ルートですが、今まで(おそらく)一度たりとも同じルートで帰ったことがありません。
要は、毎日毎日色んなところに寄り道しているというわけでして、自転車通学ならではの芸当です。
特に最近は京都の街の変遷について興味をもっているので、帰りながらそれをフィールドワークすることが出来るのです!
こんなオイシイ環境は無い!ということで、今日は暗渠になった川の行方を追ってきました。
その川とは鍋取川。
かつて京都の街には無数の川が流れ、水運の一翼を担っていたものもありました。
堀川や今出川、小川など通り名として定着したものもありますが、時代が進むにつれ、そのほとんどは暗渠・廃川となり地上から姿を消しました。
堀川は再び水の流れを甦らせることに成功しましたが、やっぱり人間ってのは、なくしてから気づくものなんでしょうねぇ…。
ネットで下調べもして半ば分かっていた部分もあったのですが、やはり実際にフィールドワークしないと気が済みません!(笑
というわけで、堀川五条下ル、西本願寺の北からスタート!
実は堀川通の西側の歩道そのまま堀川の跡で、その辺りから鍋取川が分岐していたそうです。
堀川通から西に入り、西本願寺の塀に沿って少し進んだところ。
左が西本願寺の塀で、その下、つまり歩道部分が川だったそうです。
奥に見えるのは大宮通。
その大宮通を横断して、島原商店街へ入ったところです。
この辺りは重要文化財の角屋も保存されているように、古くからの街並みがそのまま残っています。
となると、この辺りを駆け抜けた新撰組隊士たちは鍋取川の現役時代を知っているというわけで、壮大なロマンが広がります♪
上の写真にある通り、流路と思われる路地を入ってみます。
この路地にはほとんどの家屋が裏口を向けていて、川であった証拠を裏付けているようです。
路地を辿っていくと、平安高校の門の直前に橋の跡を発見!
この路地が鍋取川の流路である紛れも無い証拠です。
もう、雨の降った時しか水が流れないのでしょうね…。
さて、この路地をもう少し辿ると七条通に突き当たりますが、そこからは痕跡と呼べるものが完全に消滅してしまっています。
調べた結果では梅小路公園の蒸気機関庫脇を抜けて東海道本線を越えていたそうですが、痕跡すら無いそうです。
仕方なく大宮通に戻り、八条大宮まで下って西へ進み、六孫王神社を越えたあたりまで来ました。
奥に見えるのは東海道新幹線の高架です。
路面に明らかな起伏があります。
起伏の上まで来て左折すると…
いつの間にか川幅が広がって、暗渠の始まりです!
これを辿ってみます。
暗渠はご丁寧にタイル貼りとなり、九条通に面する羅城門跡まで来ました。
そう、ここがあの芥川龍之介『羅生門』のモデルとなった羅城門の跡です。
どんな大きな門だったのか、朱雀大路すら消えてしまった今では知る由もありません。
生活道に転用された暗渠は九条通、十条通を越えて続きます。
暗渠化後に整備されたと思われる植え込みには時折ヒガンバナも見られました。
ずーっと辿るうちに曲がって曲がって、吉祥院処理場まで来ました。
奥に祥鳥橋が見えていて、その先でようやく鍋取川との対面が果たせます。
橋を渡ったところ。
鍋取川がようやく暗渠からその姿を現しましたが…
あっという間に、西高瀬川に合流してしまいます。
わずかな流れに、哀しき三面張り。
しかし、全区間を暗渠化され人々から忘れ去られた川も多い中で、末端の少しだけでも陽の当たる鍋取川は、まだまだ幸せな方なのかもしれません。
小学生の頃には下に降りて遊んだり(魚がいた!)、中学生の頃には暗渠の中まで入っていったものですが…
今ではそんなこととても出来ません。
超地元ということもあり、初めから分かっていた部分も多かったのですが、
起点から探索することが出来たのは満足でした。
ただ、4枚目の写真、平安高校の付近では全く水の流れが無かった鍋取川が、最後には少量の水を讃えている点は不思議に思いました。
どの辺りから水が来ているのか非常に気になります。処理場?
全部携帯で撮った気まぐれなレポでしたが、今後も探索を続けていこうと思います↑↑