ショパンを伴侶とし10年近い月日をともにしたジョルジュ・サンドは、当時オペラ歌手としてヨーロッパやロシアの社交界でその名を知られていたポーリーヌ・ヴィアルドに実の娘に対する以上の深い愛情を注いでいた。
夫のルイ・ヴィヤルドは、オペラ座の総支配人だったが、オペラ歌手のポーリーヌとの結婚と現職の両立は倫理上難しいと考え、オペラ座の職を辞退し、ポーリーヌとの結婚後はサンドや哲学者ピエール・ルルーとともに『独立評論』誌や新聞の刊行に携わった。
ポーリーヌは夫のルイ・ヴィアルドとともに何度もベリー地方を訪れ、ノアンの館に滞在している。
ショパンは、そのようなオペラ歌手ポーリーヌの存在と並外れた音楽の才能を高く評価していた。
サンドは人々が働くときに歌っていたベリー地方の民謡を収集し、館に作った小劇場でこれらの民謡を再現していたが、演劇の脚本を完成させるために、友人のポーリーヌ・ヴィアルドに手助けを求めた。ベリー地方の民間伝承の楽譜を書き記す仕事を依頼したのだった。
