新しいマックが到着。ようやく設定も終了。快適な動きに超満足です。
昨日のブログの続きをお届けします。
サンドとポリーヌ、二人の往復書簡からは、サンドがいかにオペラ歌手ポリーヌを大切にしていたかを読み取ることができます。
サンドは、ポリーヌの夫、ルイ・ヴィアルドの親しい友人でした。
ルイはポリーヌとの結婚を理由に、パリのイタリア座総支配人の職を辞退しています。歴代の総支配人の中にはその地位を利用して自分の妻や恋人にマドンナの仕事を与え便宜を謀る者もいたのですが、ルイはそうしたことを良しせず自ら離職したのでした。
ルイ・ヴィアルド(1800ー1883)は、1800年生まれ。若い頃は、パリで法律を勉強するつもりでしたが、ジャーナリズムに興味を抱き、1828年に『グローブ』紙の記者となります。ルイはこの時、哲学者ピエール・ルルーと親交を結ぶようになります。サンドにルイを紹介したのは、このピエール・ルルーでした(ルルーは、のちに、サンドとルイ・ヴィアルドと『独立評論』(1841)を共同で出版をしています)。
ルイはジャーナリストでしたが文学者でもあり、スペイン語に精通していて、セルバンテスの『ドンキホーテ』の仏訳もしています。ロシア作家のツルゲーネフの助けを得て、ゴーリキーやプーシキンの作品の仏訳も手がけ、出版しました。
ツルゲーネフは、ポリーヌと出会って以来、彼女の虜となり崇拝者になってしまいます。その崇拝ぶりは、彼女が結婚していることを知りつつ、祖国を捨ててまで彼女の傍で暮らすことを望み、彼女の海外コンサートにまでついてゆくほどでした。今でいえば、追っかけをしていたということになります。ツルゲーネフのこの純粋な愛情については、あくまでプラトニックなものであったとする説と後年になってポリーヌは彼の愛人になったという説があり、研究者により意見が異なっています。
不思議なことに、ポリーヌの夫ルイとツルゲーネフは、同じ年1883年に亡くなっています。もちろん同時というわけではなく、年下のツルゲーネフの方が、半年ほどあとだったのですが。
ポリーヌは彼らが他界してから27年後の1910年にパリにて逝去。
現在は、モンマルトル墓地に埋葬されています。
ポリーヌに魅了され彼女に夢中になったのは、ツルゲーネフだけではありませんでした。ショパンはもちろんのこと、ドラクロワ、フロベール、ルナンも、例外ではありませんでした。
彼女は人間とは思われぬ広い声域(信じがたいほどの高音階も低音階も出すことができ、とくに男性しか可能ではない低い音域がすばらしかったといわれました)、正確な歌唱力とリズム感といった彼女の歌姫としての天才的な資質だけではなく、時には二役を同時に完璧にこなしてしまえるほどの演技力を持ち合わせていました。
こうした大女優のような側面のほか、何よりも一度彼女と話をすると、その会話力により、美人薄命だった姉のマリブランに比べ醜いとさえ思われた彼女の顔が美しく気高く輝き渡り、誰もがその話ぶりと人柄の虜になってしまうほど強力に人を引きつける魅力があったようなのです。
『歌姫コンスエロ』が宗教小説『スピリディオン』とともに、ピエール・ルルーの影響を直接的に受けていることは周知の通りですが、ロンドン、マドリード、ウイーン、ベルリン、サン・ペテルスブルク、モスクワと欧州各地を横断して歌ったポリーヌ・ヴィアルドの姿もまた『歌姫コンスエロ』の中の多くの章に読み取られます。舞台は18世紀に設定されてはいますが、コンスエロはあたかもポリーヌであるかのように、東欧諸国を旅し、宮廷や上流貴族が集まる社交界で歌います。ウイーンの宮廷では、何とコンスエロはマリー・アントワネットの母、マリア・テレジアと会見しています。あるいはまた、彼女が男の子に変装して少年ハイドンとともに旅を続けるといった楽しいシーンまでこの小説には用意されています。
さらに、イタリアのオペラ座にやってくる社交界の人々の退廃ぶりー彼らは純粋に芸術を楽しみ音楽を聴くためではなく虚栄心と見栄を満たすために集まってきていて、歌や音楽は社交界のスキャンダルや噂話のバックグラウンドミュージックにすぎないといった詳しい説明や描写、また、主演の座を争うがあまりに歌い手の間で男女を問わず謀略と画策が飛び交い、年配のスポンサーと歌姫の情事とが相まって渦巻くオペラ界の裏事情など、まさに実際に舞台に立っている歌い手でなければ知り得ないような臨場感あふれる詳細な描写がこの小説には数多く認められるのです。
あるいはまた、コンスエロとその一行が旅の途中で追いはぎに襲われ命拾いをする場面は、マヌエル・ガルシア一座(ポリーヌの一家)がアメリカとメキシコの巡業で財を成しフランスに戻る途中で、実際に数十人の追いはぎに襲撃された時の彼女の幼い頃の逸話を彷彿とさせます。
これらの例は一部にすぎず、ポリーヌの姿は『歌姫コンスエロ』の様々な場面に散見されるのですが、サンドが歌姫ポリーヌの話から得た情報が小説の礎になっていることは、言を俟たないでしょう。
画像はポリーヌ・ヴィアルドが描いたピエール・ルルーです。
白髪のポリーヌ・ヴィアルド:
この頃はすでに私財をはたいてモーツアルトの自筆楽譜を購入した後のことだったかもしれません。
ーーー
サンドの音楽小説と呼ばれる創作あるいは音楽について言及している作品としては、『夢想者の物語』(1831)『日記』(1834)『旅人の手紙』(1837)『アルデイーニ家最後の令嬢』(1838)『リラの七弦』(1840)『歌姫コンスエロ』(1842-43)『 ルクレツイア・フロリアーニ』(1847)『笛師の群れ」(1853)『我が生涯の記』(1854)『アドリアニ』(1854)『ファヴィラ先生』(1855)『文学と芸術の問題』(1833-1870) 等を挙げることができるでしょう。
昨日のブログの続きをお届けします。
サンドとポリーヌ、二人の往復書簡からは、サンドがいかにオペラ歌手ポリーヌを大切にしていたかを読み取ることができます。
サンドは、ポリーヌの夫、ルイ・ヴィアルドの親しい友人でした。
ルイはポリーヌとの結婚を理由に、パリのイタリア座総支配人の職を辞退しています。歴代の総支配人の中にはその地位を利用して自分の妻や恋人にマドンナの仕事を与え便宜を謀る者もいたのですが、ルイはそうしたことを良しせず自ら離職したのでした。
ルイ・ヴィアルド(1800ー1883)は、1800年生まれ。若い頃は、パリで法律を勉強するつもりでしたが、ジャーナリズムに興味を抱き、1828年に『グローブ』紙の記者となります。ルイはこの時、哲学者ピエール・ルルーと親交を結ぶようになります。サンドにルイを紹介したのは、このピエール・ルルーでした(ルルーは、のちに、サンドとルイ・ヴィアルドと『独立評論』(1841)を共同で出版をしています)。
ルイはジャーナリストでしたが文学者でもあり、スペイン語に精通していて、セルバンテスの『ドンキホーテ』の仏訳もしています。ロシア作家のツルゲーネフの助けを得て、ゴーリキーやプーシキンの作品の仏訳も手がけ、出版しました。
ツルゲーネフは、ポリーヌと出会って以来、彼女の虜となり崇拝者になってしまいます。その崇拝ぶりは、彼女が結婚していることを知りつつ、祖国を捨ててまで彼女の傍で暮らすことを望み、彼女の海外コンサートにまでついてゆくほどでした。今でいえば、追っかけをしていたということになります。ツルゲーネフのこの純粋な愛情については、あくまでプラトニックなものであったとする説と後年になってポリーヌは彼の愛人になったという説があり、研究者により意見が異なっています。
不思議なことに、ポリーヌの夫ルイとツルゲーネフは、同じ年1883年に亡くなっています。もちろん同時というわけではなく、年下のツルゲーネフの方が、半年ほどあとだったのですが。
ポリーヌは彼らが他界してから27年後の1910年にパリにて逝去。
現在は、モンマルトル墓地に埋葬されています。
ポリーヌに魅了され彼女に夢中になったのは、ツルゲーネフだけではありませんでした。ショパンはもちろんのこと、ドラクロワ、フロベール、ルナンも、例外ではありませんでした。
彼女は人間とは思われぬ広い声域(信じがたいほどの高音階も低音階も出すことができ、とくに男性しか可能ではない低い音域がすばらしかったといわれました)、正確な歌唱力とリズム感といった彼女の歌姫としての天才的な資質だけではなく、時には二役を同時に完璧にこなしてしまえるほどの演技力を持ち合わせていました。
こうした大女優のような側面のほか、何よりも一度彼女と話をすると、その会話力により、美人薄命だった姉のマリブランに比べ醜いとさえ思われた彼女の顔が美しく気高く輝き渡り、誰もがその話ぶりと人柄の虜になってしまうほど強力に人を引きつける魅力があったようなのです。
『歌姫コンスエロ』が宗教小説『スピリディオン』とともに、ピエール・ルルーの影響を直接的に受けていることは周知の通りですが、ロンドン、マドリード、ウイーン、ベルリン、サン・ペテルスブルク、モスクワと欧州各地を横断して歌ったポリーヌ・ヴィアルドの姿もまた『歌姫コンスエロ』の中の多くの章に読み取られます。舞台は18世紀に設定されてはいますが、コンスエロはあたかもポリーヌであるかのように、東欧諸国を旅し、宮廷や上流貴族が集まる社交界で歌います。ウイーンの宮廷では、何とコンスエロはマリー・アントワネットの母、マリア・テレジアと会見しています。あるいはまた、彼女が男の子に変装して少年ハイドンとともに旅を続けるといった楽しいシーンまでこの小説には用意されています。
さらに、イタリアのオペラ座にやってくる社交界の人々の退廃ぶりー彼らは純粋に芸術を楽しみ音楽を聴くためではなく虚栄心と見栄を満たすために集まってきていて、歌や音楽は社交界のスキャンダルや噂話のバックグラウンドミュージックにすぎないといった詳しい説明や描写、また、主演の座を争うがあまりに歌い手の間で男女を問わず謀略と画策が飛び交い、年配のスポンサーと歌姫の情事とが相まって渦巻くオペラ界の裏事情など、まさに実際に舞台に立っている歌い手でなければ知り得ないような臨場感あふれる詳細な描写がこの小説には数多く認められるのです。
あるいはまた、コンスエロとその一行が旅の途中で追いはぎに襲われ命拾いをする場面は、マヌエル・ガルシア一座(ポリーヌの一家)がアメリカとメキシコの巡業で財を成しフランスに戻る途中で、実際に数十人の追いはぎに襲撃された時の彼女の幼い頃の逸話を彷彿とさせます。
これらの例は一部にすぎず、ポリーヌの姿は『歌姫コンスエロ』の様々な場面に散見されるのですが、サンドが歌姫ポリーヌの話から得た情報が小説の礎になっていることは、言を俟たないでしょう。
画像はポリーヌ・ヴィアルドが描いたピエール・ルルーです。
白髪のポリーヌ・ヴィアルド:
この頃はすでに私財をはたいてモーツアルトの自筆楽譜を購入した後のことだったかもしれません。
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サンドの音楽小説と呼ばれる創作あるいは音楽について言及している作品としては、『夢想者の物語』(1831)『日記』(1834)『旅人の手紙』(1837)『アルデイーニ家最後の令嬢』(1838)『リラの七弦』(1840)『歌姫コンスエロ』(1842-43)『 ルクレツイア・フロリアーニ』(1847)『笛師の群れ」(1853)『我が生涯の記』(1854)『アドリアニ』(1854)『ファヴィラ先生』(1855)『文学と芸術の問題』(1833-1870) 等を挙げることができるでしょう。