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西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
本ブログ記事の無断転載および無断引用をお断りします。
 

マリブラン

2014年11月14日 | サンド・ビオグラフィ
ポリーヌの姉マリブランとその夫のヴァイオリニスト・ベリオ


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P.ヴィアルドとサンド

2014年11月13日 | サンド・ビオグラフィ
1821:ポリーヌ、パリのリシュリュー通りで生まれる(7月18日)
代母はロシアの皇妃ポリーヌ・ガリザンPauline Galitzin.

父のマヌエル・ガルシアは,偉大なテノール歌手。彼の「ドンジュアン」は、誰にもまねができないほど見事だと言われた。
母、結婚前はスペインの舞台で名を馳せた歌い手。、夫とイタリア座でデビューすることを考え国を去った。

ポリーヌの家系、先祖には作曲家もいた。

画像:ポリーヌ・ヴィアルドの両親 


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ミッシェル・ド・ブールジュ

2014年10月23日 | サンド・ビオグラフィ


弁護士の恋人ミッシェル・ド・ブールジュに宛てたサンドの手紙には,情熱的なものが多い。
時にはドキリとするような官能的な言葉も。

ミッシェルの過激な共和主義思想は、サンドの政治思想に少なからぬ影響を与えた。

ミッシェル・ド・ブールジュは非常に有能な政治家でもあり,1851年11月17日に国会(国民議会)でおこなった
彼の演説が、その2週間後、ルイ・ナポレオン(後のナポレオン三世。皇帝ナポレオンは叔父にあたる)の起こした
クーデターの火付け役になったことで、政治史上に彼の名が残されることとなった。

クーデターから二年のちの1853年、モンペリエにて逝去。享年、56歳であった。


サンドのミッシェルへの手紙:

«Ô toi, ma vie! Toi qui me tues aussi et qui m'aimes, toi qui me verses le fiel et l'ambroisie, viens à moi,
ma tête s'épuise, ma vie s'en va. Où es-tu, pourquoi n'es-tu plus là pour me donner un baiser et me guérir?»

(George Sand à Michel de Bourges, 30 avril 1837)
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「われ愛す、ゆえにわれあり」

2014年09月19日 | サンド・ビオグラフィ

「われ思う、ゆえにわれあり」は「われ愛す、ゆえにわれあり」でなくてはならないはずなのです。

        ジョルジュ・サンド


「われ思う、ゆえにわれあり」は、かのデカルトの有名な言葉ですが、サンドは1857年の知人に宛てた手紙の中に、上記のような言葉を残しています。

サンド自身が生き、創作作品の中に描いた愛は、男女の愛から師弟愛、友愛、親子愛、兄弟愛、従姉妹愛、動植物への愛、また、芸術、文学(演劇、詩も含む)、民俗学、哲学、政治、科学、地質学、医学、薬学から骨相学、植物学、鉱物学あるいは神話や語学、料理、裁縫への愛に至るまで、その人生は様々な愛に彩られていたと言えるのでしょう。


画像は、1844年6月のショパンとポリーヌ・ヴィアルドです。
このデッサンを描いたのは、サンドの息子モーリスです。
ポリーヌに恋してしまった男性はツルゲーネフ、ベルリーズ、グノー、ミュッセなど数多くいましたが、モーリスもそのうちの一人でした。
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ジョルジュサンド研究 Les Amis de George Sand

2014年09月02日 | サンド・ビオグラフィ



フランスのサンド研究学会が毎年刊行している研究誌Cahiers George Sand の第36号。
以下は、その目次です。



SOMMAIRE

Editorial d'Olivier BARA
p. 5

Dossier : « GEORGE SAND AU PAYS DES MERVEILLES »
Simone BERNARD-GRIFFITHS : « George Sand au pays de merveilles » : rhapsodies romantiques entre merveilleux, fantastique et merveillosité

p.7
Claire LE GUILLOU : « La légende d'Evenor et Leucippe (1856), ou George Sand aux prises avec la Bible »
Catherine MASSON : « La Nuit de Noêl d'après Hoffmann (1863) ou le verre grossissant du merveilleux »
Pascale AURAIX-JONCHIÈRE : « Le Nuage rose (1872) ou l'écheveau des contes »
Laetitia HANIN : « La métaphore à la lettre. Un procédé du fantastique chez Sand »
Dominique LAPORTE : « L'épopée sandienne à l'épreuve des sortilèges »
Olivier BARA : « Mouny-Robin, ou comment refondre le fantastique en 1841 »
Simone BERNARD-GRIFFITHS : « La "fabulosité ou merveillosité" de l'imaginaire berrichon sandien : des "Visions de la nuit dans les campagnes" (1851_1855) aux Légendes rustiques (1858) »

Varia
Bernard HAMON : « George Sand et l'enfer chrétien »
Regina BOCHENEZ-FRANCZAKOWA : « George Sand vue par les Polonais »

Parutions :
ÉDITIONS : George Sand, Les Sept cordes de la lyre. Gabriel, Œuvres complètes, 1840, éd. Liliane Lascoux et Lucienne Frappier-Mazur (Anne MARCOLINE) - George Sand, Un hiver à Majorque. Horace, Œuvres complètes 1841-1842, éd. Angela Ryan et Jeanne Brunereau (Sébastien BAUDOIN) - George Sand, La Petite Fadette, Œuvres complètes, 1849, éd. Andrée Mansau (Nigel HARKNESS) - George Sand, La Marquise, éd. Olivier Bara (Brigitte Diaz) - George Sand, Jean Ziska, éd. Olivier Marin (Michèle HECQUET)
ÉTUDES : * Jean Buon, Madame Dupin, Une féministe à Chenonceau au siècle des Lumières, préface de Michelle Perrot (Bernard HAMON) * Monia Kallel, Flaubert et Sand. Le roman d'une correspondance (Catherine MASSON) * Mélancolie ouvrière, de Michelle PERROT (Bernard HAMON) *Martine Reid, George Sand (Laura COLOMBO)
ANNONCES

Vie de l'association :
* Rapport d'activité 2013 (Danielle BAHIAOUI) * Tableau financier 2013 (Jean-Paul PETIT-PERRIN)
Bulletin d'adhésion
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ポリーヌ・ヴィヤルドとソランジュ(2)

2014年08月21日 | サンド・ビオグラフィ

 

 

 1823年6月30日生まれの息子モーリスは、この頃は10歳少し前。教育は家庭教師に任されていましたが、この家庭教師が結婚したため、サンドはモーリスをアンリ四世リセ校の寄宿学校に入れる決心をします。1833年4月のことでした。しかし、モーリスは大好きな母親の住むパリのアパルトマンを離れて寄宿生活を送ることに耐えきれず、それを知ったサンドは、週末のたびに友人のギュスターヴ・パペに依頼し、息子を寄宿舎から自宅のアパルトマンに連れてきてもらっていました。

 一方、モーリスより5年遅れて1828年9月13日に誕生した娘ソランジュは、まだ4,5歳というあどけない年齢でした。彼女はミュッセの前に母親の恋人だった文学青年ジュール・サンドーのことを父親のように慕いなついていましたが、サンドが彼と別れたしまったために、彼女は心に一抹の寂しさを覚えていました。そのうえ、母親はミュッセとイタリアに旅立ってしまい、その不在が彼女をいっそう苦しめることになります。

 母が不在であるというどうしようもないソランジュの孤独感は、ちょうどサンドが四歳の時に経験した苦しみに似ていました。それは、母に対する強烈な思慕と、愛する母に見捨てられたという深い絶望と抗いがたい孤独感でした。サンドの場合は、幼くして父親を落馬事故で失い、それ以降、貴族の祖母に養育されることになるのですが、このとき、きっと迎えに来ると約束しながら、母親は約束を違えたのでした。母ソフィーは、祖母から年金を受け取る代わりに娘を祖母に渡してしまったのでした。夫を失って経済的手段を持たず、サンドにとっての義理の姉カロリーヌをパリに待たせていたソフィーにとって、多くの選択肢はなかったのです。サンドは回想記の中で、このとき、母が自分を祖母に「金で売った」ことを理解し、この時以来、金銭に対し警戒心を抱くようになったと書いています。若干、四歳の幼い子供が、経済概念を理解できたとは思えませんが、少なくともこの幼いときの辛い経験が、のちにサンドの金銭に対する不信感へとつながっていったことは想像に難くありません。

 このとき、自分は一体、何者なのか、自分は祖母の貴族階級に属しているのか、母親の民衆階級なのか、父親の元家庭教師デシャルトルに男子の教育を施される自分は果たして男なのか女なのか、アイデンティティの問いが幼い頃から作家に重くのしかかっていたと思われます。サンドが実生活で変装を好み、作品の中で数多くの変装する登場人物を描いたのは、どちらにも属し得ない自分を隠すためであり、隠すことによって、より自由なアイデンティティになり得たからだと言えるのかもしれません。

 いずれにしろ、二世代に渡って受け継がれた母娘の母親に見捨てられた悲哀と懊悩は、ソランジュの場合、母親への激しい反抗となって転嫁され、ことあるごとにそれが強烈な形となって現れました。サンドの側では、おとなしく言うことをきく長男モーリスに比べ、娘のソランジュは大きくなるにつれて気位ばかりが高くなり、ひどくわがままで母親にとって手に負えない子供ということになってしまうのでした。こうして、母娘の間に宿った相克と確執はその後も長く続くことになり、娘ソランジュは、結果的に、ショパンとサンドの別離を誘発することになってしまうわけですが、その意味では作家の私生活を脅かす存在となっていくのです。

 

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ポリーヌ・ヴィヤルドとサンドの娘ソランジュ(1)

2014年08月20日 | サンド・ビオグラフィ


 1832年に処女作『アンディアナ』で脚光を浴び、翌年に出版した『レリア』はサンドをさらに有名な作家にさせ、こうして女性作家ジョルジュ・サンドは文壇に確かな地位を築くようになっていきます。詩人ミュッセとの大恋愛、二人のイタリアへの逃避行、それぞれの浮気、諍いと束の間の別れ、再会を繰り返し、そしてついには決別。1833年から35年は、サンドの私生活に新たな風が吹き荒れた時節でした。

 この間、ノアンの夫のもとに残してきた子供達のことは、サンドの頭から離れたことはありませんでした。とりわけ、彼らの教育は、サンドにとって最も気がかりなことのひとつでした。 

 

イタリアに滞在中、サンドはミラノから幼い娘のソランジュに愛情のこもった手紙を書き送っています(1834年7月30日ミラノ)。
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『ラ・クープ』にみる女と男 5

2014年08月19日 | サンド・ビオグラフィ


(2)ボニュス先生は、自分の洋服と赤い頭巾をエルマンに与え、女装させて彼の脱走を助け、エルマンの身代わりとなって牢獄に残る。しかしこの時、うっかり通行証書をエルマンに貸した洋服に入れたままにしてしまったために、彼は再び死刑場に連れてゆかれることになる。このとき、魔法の力で死刑執行人に雷を落とし彼を救うのは、ズィラである。彼女も男装する。馬を急がせたあまり、馬は主人の騎士を落下させ、町外れで力尽きて死んでしまうという事故が起きるが、ズィラはたずなにしがみついていた騎士のマントを着て、絞首刑台に向かうのである。(P62) こうして、二度もズィラに命を助けられたボニュス先生は、再び妖精の国に戻って女装し、幸せなベジェタリアン生活に満足し、嬉々として家事やお菓子作りに勤しむのだった。
 このように、『ラ・クープ』』では、男女の変装が交互に現れ、時にはユーモアとテンポに富む筆致で描かれている。ここでは、変装という装置により、性における男女の役割、所有と服従、あるいは異性愛の概念の基本である性差が消滅してしまっている。男女の逆転現象が古いジェンダー規範やドクサに囚われることなく、これらを軽々と超えたところで目的達成のための手段として機能しているのである。ここでいうドクサとは、ブルデユー流に言うならば、何ら疑問の対象とされることなく、ノーマルで当然のこととして見なされる社会的な思い込みと実践の総体、すなわち臆見を指す。 さらに男女の変装は、この作品全編を覆う死という重いテーマを緩和する役割を果たしていることも付け加えておこう。
 こうした男女の反転現象は、サンドの物語世界では回帰的な現象であり、サンドの創作技法の常套手段といってもよいだろう。サンドの小説では、伝統主義の人間が好みがちな「待つ女」や、女性作家に期待される美人薄命の「受け身の女」は、ヒロインとはなりえない。サンドが社会通念を「転覆させる作家」あるいは「革命的な作家」と言われる所以である。 
 サンドはフェミニズム運動に積極的ではなかったために当時のフェミニストからはアンチフェミニストと非難されたが、作家サンドは創作を通し、女性は男性と同じ教育が与えられれば、男性と同じくか、もしくは男性より優れた能力を発揮するのだと絶えず主張する。独学で学問するヒロインや男性と同じ職業を獲得する登場人物も多い。ゴンクールやボードレール等の男性作家からスケープゴートにされ、激しい批判や揶揄を浴びても怯むことなく、全世界の読者に向かって女性の置かれた不利な状況や告発し、作品の中でそれらを変装をはじめとし様々な技法を駆使し、繰り返し訴え続けた。 サンドが同時代の男性作家や多くの女性作家たちと異なる独創性は、この点にあると言えるだろう。このようなサンドの作家としての文学上の功績は、社会変革を目指すフェミニストの実践運動と同様に、評価されるべきであろう。
 

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『ラ・クープ』にみる女と男 6

2014年08月19日 | サンド・ビオグラフィ

 
(3)『ラ・クープ』における男装と女装
 ところで、サンドの『ラ・クープ』においては、変装という形を借りて、同時代の社会通念を超えた、性の反転現象がごく当たり前のことのように登場する。男の女装と女の男装が、作中人物に危機を脱出させるための有効策として機能している。最も変装の回数が多いのは、王子エルマンの家庭教師のボニュス先生である。ボニュス先生は、エルネスト王子が氷河の深淵に落っこち行方不明になった廉で貴族の侍従たち20名とともに王に極刑を言い渡され、命からがら国を逃れる。妖精の谷間の近くで、ぼろを纏った飢餓状態で死にかけていたところに死体を狙ってやってきた禿鷲に手を齧られそうになり、逆にこの禿鷲を捕まえ生き血を吸って生き延びていたところを、妖精ズィラに目撃され、彼女に助けられる。妖精の国で妖精の服と赤い頭巾を借りて身につけたのが彼の最初の女装だった。女装をしたボニュス先生は、背が高く容貌のよくない妖精のように見え、小柄な妖精のレジが一時間も笑い続けるほど奇妙な格好だったが(p38)、死刑囚の彼は位の高い妖精が人間に決してみつからない場所に連れてきてくれたことに一生の恩と幸せを感じ、料理や菓子作りを生き甲斐に死ぬまで妖精の国で生きてゆくことを決意する。妖精のレジは、こどものアルマンを女装させ、歌と踊りを披露させて楽しむ。彼女は、エルマンに金のベルトのついたひだがたっぷりのピンクのスカートをはかせ、髪を整えて花で飾り、真珠の首飾りを付けたりするのだった。p38.
 さらに物語の中半では、大人になったエルマンが自国で従兄弟が王位を継承すると知り、自分の権利を取り戻すべく故郷の国に忍び込むが、官憲にスパイと疑われ投獄されてしまう。それを知ったボニュス先生は女装し、エルマンが王位の正統後継者であることを証明する王室の通行証書とともに、密かに祖国に戻る(P62)

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『ラ・クープ』にみる女と男 4

2014年08月18日 | サンド・ビオグラフィ

(2)女性性/男性性:ルソーとサンド
 では、サンド自身の性のアイデンテイテイは、どのようなものだったのだろうか。ここでは、サンドがその哲学を「モーツアルトの音楽のように心地よい」と賞賛し、自ら「ルソーの娘」と書き残したジャン・ジャック・ルソーとの比較を通し、サンド自身の性のアイデンテイテイについて俯瞰してみよう。

 男性性と女性性の逆転あるいは一つの性の中の両性の混在といった特色は、『我が生涯の記』の作者であるサンドと『告白』の著者ルソーと異なる点であり、似ている点でもある。生まれて8日後に他界した母が父イザック・ルソーに残した人生とベッドの空虚を埋めるため、少年ルソーは激しい言葉とともに父親に繰り返し強く抱きしめられ、接吻をされ続けた。「もしおまえがおまえでなかったら、どんなに愛しただろうか」という言葉とともに。こうして、ルソーは父親により去勢された。不在の母の代替となり、父親の欲望が転化され、女性化されていったのだ。したがって、50代の『告白』の作者にとって、女性性は子供の頃からの自身の性のアイデンテイテイであった、と『ルソーと批評』の著者は指摘している。 
 他方、サンドの場合には、父親を4歳で亡くし、祖母からは父の名前と間違えてモーリスと呼ばれるほど父親の代わりに溺愛され、貴族女性のしつけを厳しく教え込まれつつ、父親の家庭教師からは男子教育を受けた。ルソーのように去勢されるまでには至らなくとも、ルソーの女性化とは真逆の性である男性性が、サンドには子供時代から植え付けられていたと言っても過言ではないだろう。しかし、サンドは、一方の性に偏った性をもつのではなく、両性を備えた独自の性、あるいはどちらももたない性をもつに至り、フロベールがサンドを「第三の性」と形容した独特のアイデンテイテイを形成していったと推察される。 
 ルソーの『告白』は一種の自伝であるサンドの『わが生涯の記』と比較した場合、作家のプライベートな部分の露出度は数倍にも及ぶと思われるほど強烈であることが明らかになる。男性作家のこうした露出度に関し考察してみると、男性性が支配している、時として自虐的で露出狂的でさえある男性作家の告白は、一般にレトリックとしてゆるやかに解釈されるのに対し、これが女性作家であった場合には、スケープゴートよろしく、書いた事は片端から文字通りにとられ、あからさまに侮蔑や軽蔑の対象とされてしまう。19世紀の一部の男性作家たちは、女性作家に対しパノプチコン的な特殊なまなざしをもって彼女たちの威信を地に落とすためにアンテナを張り巡らしていたのではないかと疑いたくなるほど過激であった。文学の真の発展にも、よりよい人間世界の構築のためにも何ら貢献しない、女性作家に対する悪口と中傷、嫌がらせは、ブルデューの表現を借りれば、一部の限定された文化資本をもつ極く特殊な階層の、現代で言えばグロバリゼーションのハビトゥスから逃れられない哀れむべき種族のみが為す行為といえるのであろう。サンドはこうした第二の性の作家に対する一部の男性作家の言われなき恥辱を自ら経験し、辛酸をなめた女性作家であった。女性作家はルソーのような露出度の高い『告白』の類いの自伝を書くべきではないとサンドが強調するのは、こうした辛い経験をいやというほど積んでいたからであったと推測される。 

 

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