最終日は津山です。
残念ながら曇天、と言うよりはもやがかかったような空模様で、それでも破滅をしかけていた肌にはちょうどよかったといった感じです。
そこいらにNARUTOが氾濫をしていたとは旅情篇に書いたとおりで、やや気が滅入りながらの散策です。
まずは日本100名城の一つである津山城ですが、登城口の脇には森忠政の像があります。
忠政は織田信長の重臣であった可成の六男で、美作一国18万5千石の津山藩の初代藩主です。
津山城は山名氏の城があったところに忠政が新たに築いたもので、4重5階の天守閣を誇り77もの櫓を持つ城でした。
まるで居眠りでもしているかのような表情の忠政は、ちょっと狸な感じです。
例によって明治維新後の廃城令により天守閣や櫓の全てが破却をされてしまい、遺されているのは石垣のみです。
関ヶ原の戦いの後に築かれたものですので平城、正確にはやや小高いところにありますから平山城と言った方がよいのかもしれません。
その石垣はきれいに整備をされていてのんびりと過ごすのによい風景ですが、そのほとんどが有料地域ですので市民の憩いの場にはなっていないようです。
城内で唯一の櫓は、2005年に復元をされた備中櫓です。
池田輝政の甥にあたる因幡鳥取藩の2代藩主だった長幸は忠政の女婿で、その長幸が備中守だったことからそう名付けられたと言われています。
発掘調査で池田氏の家紋である揚羽蝶紋の瓦が見つかっており、長幸が津山城を訪れた際に宿泊をするために築かれたものではないかとは説明板の受け売りでした。
この天守台跡には1/2スケールの模擬天守閣が美作国建国1300年記念事業として復元をされましたが、8月2日~18日の公開でしたので残念ながら僅かに間に合いませんでした。
実際のところ間に合わなかったと言うよりはその存在すら知らなかったわけで、お盆の時期ですからどのみち人混みが嫌いな自分には縁がなかったのでしょう。
それにしてもそれなりの費用はかかったと思われますので、あまりな短期間にちょっとビックリしています。
まだ解体工事が完全に終わっていないことで天守台に登ることすらできず、恨めしげに周りをぐるっとうろついてからの撤収です。
次に向かったのは本源寺で、森氏の菩提寺です。
元は安国寺という名でしたが、忠政の戒名である本源院殿前作州太守先翁宗進大居士から本源寺と改められました。
その墓所の門は閉まっており後で調べてみれば予約が必要だったとのことで、またお寺の方もご不在のようで目の前が真っ暗になりかけたのですが、幸いにもお留守番の方のご厚意で脇の入口から入れていただき感謝感激です。
墓所の中央には御霊屋がありますが、さすがにこちらは鍵の場所が分からないとのことで中を見ることはできませんでした。
その背後には忠政らの森一族の五輪塔が、一列に整然と並んでいます。
津山藩の森氏は初代の忠政、2代の長継、3代の長武、4代の長成、5代の衆利と続きましたが、こちらに墓があるのは忠政のみです。
森氏は元は美濃土岐氏の家臣でしたが、その土岐氏が斎藤道三に滅ぼされた後に可成が織田信長に仕えました。
可成の嫡男の可隆は朝倉氏を攻めたときに手筒山城で、また可成もその4ヶ月後に宇佐山城を朝倉、浅井氏に攻められて討ち死にをしたことで、跡を継いだのは次男の長可です。
その長可は鬼武蔵と呼ばれるほどに豪勇な武将でしたが、小牧・長久手の戦いに際しての三河中入りで舅の池田恒興とともに討ち取られてしまい、また可成の三男、四男、五男の蘭丸、坊丸、力丸は既に本能寺の変で信長に殉じていたため、六男の忠政が森氏の棟梁となります。
忠政には重政、忠広の子がありましたが早世をしたことで、甥にあたる関成次に三女を娶せて産まれた家継を迎えて後継とします。
その家継改め長継の嫡男の忠継が早死にをしたことで三男の長武が、長武の跡は忠継の三男の長成が、長成の跡は長継の十二男の衆利が継ぎました。
凡例は赤字が藩主、太字が写真でご紹介ができる武将です。
父の可成が48歳で、長兄の可隆が19歳で、次兄の長可が27歳で、三兄の蘭丸成利が18歳で、四兄の坊丸長隆が17歳で、五兄の力丸長氏が16歳で討ち死にをするという悲劇な一族の中で、忠政は65歳という長命を保ちました。
しかし後継者には恵まれず、三人の男子に先立たれたことで外孫の長継を迎え入れたのは森氏の血筋としては残念至極で、できれば可成の弟の可政には多くの子がいたのですから、その系統から養子を取ってくれればとは個人的な嗜好です。
それなりに優秀な人物だったようですが、意見の対立をした重臣を一族もろとも滅ぼすなど暴君的な側面もあったようです。
こちらは長可の墓ですが、墓と言うよりは供養塔なのでしょう。
忠政にとっては次兄であり、また先代の当主ですから津山藩の藩祖と言えなくもありません。
ただそれであれば父の可成の供養塔があってもいいと思うのですが、残念なことにそれはありませんでした。
長可は信長にその武勇を愛でられるほどに数々の合戦でその豪勇ぶりを発揮し、また本能寺で次弟の蘭丸を討ち取った安田国継を「武功は武功」と召し抱えたり、一方で領地経営にも長けるなど文武に秀でた武将でしたので、生き長らえていればもっと多くの所領を手にすることができたのではないかと思います。
忠継は長継の嫡男ですので、忠政の曾孫になります。
母は先の池田備中守長幸の娘ですので、遠いようでかなり近い血筋が混じり合っています。
父の長継が長命だったこともあり、跡を継ぐことなく38歳の若さで早世をしました。
関成次は可成の次女を母に持ち、忠政の三女を娶ったことで森氏一門に名を連ねました。
嫡男の家継が忠政の跡を継いだことで藩主の父となり、よってこの森氏墓所に墓があるのでしょう。
娘を三信、正方といった森氏の男系一族に嫁がせる一方で、関氏の跡を次男の長政に継がせてその兄の長継から1万8000石を分知させて津山藩の支藩である宮川藩を立藩するなどやりたい放題のようにも見えますが、権力を振りかざしてといった振る舞いは無かったようです。
長継の墓は本源寺ではなく、6キロほど離れた千年寺にあります。
長継山千年禅寺の名のとおり長継が自らの発案で造営をしたものでしたが、何度かの焼失で今はすっかりと廃寺状態です。
なかなかに素敵な荒れ具合で、ヘビかヤモリかは分からなかったのですがその手の生き物や、ヤブ蚊の大群が迎えてくれました。
墓とは言いながらも逆修墓で、その生前に建てられたものです。
逆修墓とは戒名を授かるといった「徳」を積むことで、死後の自身の弔いとなるという意味で建てられた墓のことです。
長継は忠政の跡を継いで2代藩主となり三男の長武に跡を継がせましたが、その後の長成、衆利の代まで生き延びたことが幸せだったかどうか、衆利が幕政を批判する発狂扱いで津山藩が改易となるところまでを見届けての死ですので、かなりの苦痛を伴っての89歳の生涯だったかもしれません。
【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
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