オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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枠が埋まらない

2013-11-17 21:21:29 | 千葉ロッテ

育成枠を維持するための支配下選手登録65人がなかなか埋まりそうにもありません。
ドラフト会議で指名をした7人が入団をすること、グライシンガー、レデズマ、ロサ、ブラゼルが残留をすること、この前提条件での現在は63人です。
門戸開放だった入団テストにはなかなか人が集まらず、そのテスト結果も芳しくなかったようで、とりあえずの妥協なんてことがあるかもしれません。

伊東監督、テスト生「厳しい」 (11/17 日刊スポーツ)

ロッテの秋季鴨川キャンプで17日、6人のテスト生が2日間にわたる紅白戦を終えた。
この日は、今季巨人を戦力外になった岸敬祐投手(26)、元西武の岩崎哲也投手(31)、元日本ハムの金森敬之投手(28=ともに愛媛マンダリンパイレーツ)と元プロ3投手が登板した。
先発の岩崎は2回6安打無四球2失点。
同じく先発の金森は2回4安打4四球1奪三振3失点と、いずれも好結果を残せなかった。
岸は2番手で2回を2安打無四球1奪三振で無失点に抑えたが、伊東勤監督(51)は「1軍で投げられるかと言ったら今のボールでは厳しいかもしれない」と難しい顔だった。

さすがにこの結果ですと、岩崎と金森の不合格は決まりでしょう。
これで合格ともなれば何のためのテストだったということになりますし、ここ一番で結果を出せないのであればそれが実力です。
辛うじての岸も伊東監督の評価は厳しいようですから左腕を考慮しての育成枠としての採用はあるかもしれませんが、支配下選手登録はハードルが高そうです。
あの榊原がオリックスの育成枠での契約ですから、やはり戦力外通告をされた選手でどうこうしようとするのが間違っているのかもしれません。
そうなれば外国人選手となりますが、この日にハフマンが4打数2安打1盗塁で前日には守備でも好守を見せたものの右の外野手が必要なのかどうか、ジョニーで話題となったセリツも今ひとつだったようですし、伊東監督が絶賛をしたらしい波乗りスライダーのローリーが合格圏に一番近いのでしょう。
それでもぐっとこないことに違いはありませんので、クルーズネタが復活をすることを切に願います。

 

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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 津山の巻

2013-11-17 16:38:40 | 日本史

 

最終日は津山です。
残念ながら曇天、と言うよりはもやがかかったような空模様で、それでも破滅をしかけていた肌にはちょうどよかったといった感じです。
そこいらにNARUTOが氾濫をしていたとは旅情篇に書いたとおりで、やや気が滅入りながらの散策です。

まずは日本100名城の一つである津山城ですが、登城口の脇には森忠政の像があります。
忠政は織田信長の重臣であった可成の六男で、美作一国18万5千石の津山藩の初代藩主です。
津山城は山名氏の城があったところに忠政が新たに築いたもので、4重5階の天守閣を誇り77もの櫓を持つ城でした。
まるで居眠りでもしているかのような表情の忠政は、ちょっと狸な感じです。

例によって明治維新後の廃城令により天守閣や櫓の全てが破却をされてしまい、遺されているのは石垣のみです。
関ヶ原の戦いの後に築かれたものですので平城、正確にはやや小高いところにありますから平山城と言った方がよいのかもしれません。
その石垣はきれいに整備をされていてのんびりと過ごすのによい風景ですが、そのほとんどが有料地域ですので市民の憩いの場にはなっていないようです。

城内で唯一の櫓は、2005年に復元をされた備中櫓です。
池田輝政の甥にあたる因幡鳥取藩の2代藩主だった長幸は忠政の女婿で、その長幸が備中守だったことからそう名付けられたと言われています。
発掘調査で池田氏の家紋である揚羽蝶紋の瓦が見つかっており、長幸が津山城を訪れた際に宿泊をするために築かれたものではないかとは説明板の受け売りでした。

この天守台跡には1/2スケールの模擬天守閣が美作国建国1300年記念事業として復元をされましたが、8月2日~18日の公開でしたので残念ながら僅かに間に合いませんでした。
実際のところ間に合わなかったと言うよりはその存在すら知らなかったわけで、お盆の時期ですからどのみち人混みが嫌いな自分には縁がなかったのでしょう。
それにしてもそれなりの費用はかかったと思われますので、あまりな短期間にちょっとビックリしています。
まだ解体工事が完全に終わっていないことで天守台に登ることすらできず、恨めしげに周りをぐるっとうろついてからの撤収です。

次に向かったのは本源寺で、森氏の菩提寺です。
元は安国寺という名でしたが、忠政の戒名である本源院殿前作州太守先翁宗進大居士から本源寺と改められました。
その墓所の門は閉まっており後で調べてみれば予約が必要だったとのことで、またお寺の方もご不在のようで目の前が真っ暗になりかけたのですが、幸いにもお留守番の方のご厚意で脇の入口から入れていただき感謝感激です。

墓所の中央には御霊屋がありますが、さすがにこちらは鍵の場所が分からないとのことで中を見ることはできませんでした。
その背後には忠政らの森一族の五輪塔が、一列に整然と並んでいます。
津山藩の森氏は初代の忠政、2代の長継、3代の長武、4代の長成、5代の衆利と続きましたが、こちらに墓があるのは忠政のみです。

森氏は元は美濃土岐氏の家臣でしたが、その土岐氏が斎藤道三に滅ぼされた後に可成が織田信長に仕えました。
可成の嫡男の可隆は朝倉氏を攻めたときに手筒山城で、また可成もその4ヶ月後に宇佐山城を朝倉、浅井氏に攻められて討ち死にをしたことで、跡を継いだのは次男の長可です。
その長可は鬼武蔵と呼ばれるほどに豪勇な武将でしたが、小牧・長久手の戦いに際しての三河中入りで舅の池田恒興とともに討ち取られてしまい、また可成の三男、四男、五男の蘭丸、坊丸、力丸は既に本能寺の変で信長に殉じていたため、六男の忠政が森氏の棟梁となります。
忠政には重政、忠広の子がありましたが早世をしたことで、甥にあたる関成次に三女を娶せて産まれた家継を迎えて後継とします。
その家継改め長継の嫡男の忠継が早死にをしたことで三男の長武が、長武の跡は忠継の三男の長成が、長成の跡は長継の十二男の衆利が継ぎました。
凡例は赤字が藩主、太字が写真でご紹介ができる武将です。

父の可成が48歳で、長兄の可隆が19歳で、次兄の長可が27歳で、三兄の蘭丸成利が18歳で、四兄の坊丸長隆が17歳で、五兄の力丸長氏が16歳で討ち死にをするという悲劇な一族の中で、忠政は65歳という長命を保ちました。
しかし後継者には恵まれず、三人の男子に先立たれたことで外孫の長継を迎え入れたのは森氏の血筋としては残念至極で、できれば可成の弟の可政には多くの子がいたのですから、その系統から養子を取ってくれればとは個人的な嗜好です。
それなりに優秀な人物だったようですが、意見の対立をした重臣を一族もろとも滅ぼすなど暴君的な側面もあったようです。

こちらは長可の墓ですが、墓と言うよりは供養塔なのでしょう。
忠政にとっては次兄であり、また先代の当主ですから津山藩の藩祖と言えなくもありません。
ただそれであれば父の可成の供養塔があってもいいと思うのですが、残念なことにそれはありませんでした。
長可は信長にその武勇を愛でられるほどに数々の合戦でその豪勇ぶりを発揮し、また本能寺で次弟の蘭丸を討ち取った安田国継を「武功は武功」と召し抱えたり、一方で領地経営にも長けるなど文武に秀でた武将でしたので、生き長らえていればもっと多くの所領を手にすることができたのではないかと思います。

忠継は長継の嫡男ですので、忠政の曾孫になります。
母は先の池田備中守長幸の娘ですので、遠いようでかなり近い血筋が混じり合っています。
父の長継が長命だったこともあり、跡を継ぐことなく38歳の若さで早世をしました。

関成次は可成の次女を母に持ち、忠政の三女を娶ったことで森氏一門に名を連ねました。
嫡男の家継が忠政の跡を継いだことで藩主の父となり、よってこの森氏墓所に墓があるのでしょう。
娘を三信、正方といった森氏の男系一族に嫁がせる一方で、関氏の跡を次男の長政に継がせてその兄の長継から1万8000石を分知させて津山藩の支藩である宮川藩を立藩するなどやりたい放題のようにも見えますが、権力を振りかざしてといった振る舞いは無かったようです。

長継の墓は本源寺ではなく、6キロほど離れた千年寺にあります。
長継山千年禅寺の名のとおり長継が自らの発案で造営をしたものでしたが、何度かの焼失で今はすっかりと廃寺状態です。
なかなかに素敵な荒れ具合で、ヘビかヤモリかは分からなかったのですがその手の生き物や、ヤブ蚊の大群が迎えてくれました。

墓とは言いながらも逆修墓で、その生前に建てられたものです。
逆修墓とは戒名を授かるといった「徳」を積むことで、死後の自身の弔いとなるという意味で建てられた墓のことです。
長継は忠政の跡を継いで2代藩主となり三男の長武に跡を継がせましたが、その後の長成、衆利の代まで生き延びたことが幸せだったかどうか、衆利が幕政を批判する発狂扱いで津山藩が改易となるところまでを見届けての死ですので、かなりの苦痛を伴っての89歳の生涯だったかもしれません。


【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
ついてる鳥取、のってる岡山
ついてる鳥取、のってる岡山 旅程篇
ついてる鳥取、のってる岡山 旅情篇
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 鳥取の巻 鳥取城の章
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 鳥取の巻 鳥取藩主池田家墓所の章
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 米子、八橋、倉吉の巻
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 岡山の巻 岡山藩主池田家墓所の章
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 岡山の巻 岡山城の章
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 総社、高梁の巻
ついてる鳥取、のってる岡山 グルメ篇
ついてる鳥取、のってる岡山 スイーツ篇
ついてる鳥取、のってる岡山 おみやげ篇

 


2013年通信簿 15 上野大樹

2013-11-17 02:09:16 | 千葉ロッテ

15 上野大樹 投手 27歳 年俸1700万円

【2013年成績】 42試合 3勝0敗0S 防御率3.07 61回2/3 65被安打 6被本塁打 25与四球 0与死球 41奪三振 被打率.278

今季の上野は先発こそ1試合しかありませんでしたが中継ぎとして41試合とキャリアハイな登板数で、昨年にしぼんだ飛躍への再挑戦のチャンスを掴み取ったシーズンとなりました。
かつてほどではないにせよストレートもアベレージでは130キロ台後半ながらも時折に140キロ台をマークするなど力強さが戻ってきましたし、それでいて不安定だったコントロールも大きく崩れることもなく、そうなれば次は勝利の方程式の一員となれるよう次のステップを目指す来季となります。
スマイル上野のスマイルが増えれば増えるほどロッテファンのスマイルも増えますので、心から笑える2014年になることを願います。

もちろん上野には残された大きな課題があります。
黒木の跡を継げると期待をしている気迫のこもったピッチングスタイルは、しかし実際のところは小心の裏返しではないかと疑っています。
そのスマイルをマウンド上で見せることがないのは自分としてはgoodなのですが、東洋大の後輩である藤岡と同じく悲壮感の漂う表情は見ていて気持ちのいいものではありません。
もう少し表情も肩も力を抜けるようになってこそ上野は真価を発揮できるのではないかと、そこに向けて今季の結果が自信に繋がってくれていればと思います。
実際のところがどうであれ気迫を表に出して躍動感の溢れるスタイルはロッテでは数少ない上野ですから、年齢的にも中継ぎ陣のリーダーとしての活躍を期待します。
来季こそはシーズンを通しての一軍を、40試合で防御率2点台を目標に頑張ってもらいましょう。

2009年通信簿
2010年通信簿
2011年通信簿
2012年通信簿


【オリオン村査定】 1700万円 → 2400万円(△41%)

 

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