オリオン村(跡地)

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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 岡山の巻 岡山城の章

2013-11-03 16:51:01 | 日本史

 

翌日は岡山市街を中心とした散策です。
アップダウンもさほど無かったことで気持ちのいいサイクリングとなったのですが、あまりな好天による日焼けで腕や手首が腫れてしまって夜には熱さまシートのお世話になりました。
経験則のアベンヌウォーターを持参していなければ、もっと大変なことになったかもしれません。

岡山市街とは言いながらも、遠くから攻めていくのはいつものとおりです。
まずは10キロ弱ほど南にある成隆寺で、ここには宇喜多氏の重臣であった戸川氏の墓所があります。
ブロック塀に囲まれた墓所は非公開との話も聞いていたのですが、お寺の方のご厚意で中に入れていただきました。

戸川達安、あるいは逵安の名の方が有名かもしれませんが、宇喜多直家に仕えた秀安の子です。
達安も父の跡を継いで直家、そして秀家の重臣として活躍をしましたが、しかし宇喜多騒動にて宇喜多詮家、岡利勝、花房正成、職秀らとともに宇喜多家を去ります。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して元の主家と戦い、備中庭瀬3万石の大名となりました。

その他にも多くの墓石があったのですが、戒名などから名前が分かったのは正安、安宣、壽之のみです。
達安の次男の正安は備中庭瀬藩の2代藩主ですが、これといった事績はないようです。
正安の跡は次男の安宣が継ぎ3代藩主となりますが27歳の若さで没し、跡を継いだ嫡男の安風も9歳で病死をしたことで無嗣断絶で改易となりました。
壽之はその墓石の横に系譜が書いてあったことから名前が分かったのですが、うっかりしてそのメモを無くしてしまったので今は不明です。
写真は左から正安、安宣、壽之です。

さらに9キロほど南下をしての海禅寺は、天城池田氏の菩提寺です。
天城池田氏は輝政の兄の元助の系譜で、その子の由之が初代となります。
元助が小牧長久手の戦いで討ち死にをしたことで輝政が池田氏の家督を継ぎ、由之は家老として池田氏を支えました。
その天城池田氏の墓所も近くにあるはずなのですが場所が分からず、お寺の方も不在なのか聞くこともできず、それならばカーナビに案内をしてもらおうと住所を入力しようとしたときに倉敷市の文字を見てビックリとしてしまい、例えば池田氏の菩提寺である国清寺も池田氏が移る度に新しい土地に創られたりもしていましたのでそれと同じではないかと、この海禅寺は間違いなく天城池田氏の菩提寺ながらも墓所は別の海禅寺の近くにあるのだろうと、その独り合点がこの旅の最大のミスをもたらすことになります。
岡山市と倉敷市の位置関係が頭にあれば思いついたのかもしれませんが、まさか自分が既に倉敷市にいるとの発想がゼロで、この墓所を目的に早起きをして20キロ近くを走破した労苦が報われることなく、後になって調べてみればほんの数百メートルほどしか離れていないところにあったことに気か付かなかった自分が情けなくもあります。

また来た道を黙々とペダルを踏んで戻って目指したのは、日本100名城の一つの岡山城です。
登り口はいくつかあるのですが、何となく行き着いた鉄門跡からのスタートです。
この鉄門は藩庁のあった表書院に通ずる櫓門で、木部の全体を鉄で覆っていたことからそう呼ばれていました。

鉄門跡を抜けて右に折れると、そこには不明門があります。
表書院から城主居館のある本段への入口にあたる渡櫓門で、1966年に鉄筋コンクリートで再建をされました。
普段はほとんど閉じられていたことから、その名で呼ばれています。

不明門を抜けると、天守閣が迎えてくれます。
岡山城の築城は宇喜多直家の手によるものですが、大幅に改修をしてほぼ現在の形にしたのは子の秀家となります。
この天守閣も秀家が築いたものですが戦災で焼失をしてしまい、不明門と同じく1966年に鉄筋コンクリートで再建をされました。
烏城とも呼ばれており、その黒塗りの下見板が特徴です。

天守閣の東寄りには六十一雁木上門があり、その名のとおり61段の石段があったことでそう呼ばれていました。
扉は閉ざされていましたので本段から出てぐるっと回り込んでみたのですが、しかしどう見てもその石段は半分もありません。
こちらも1966年の再建ですので往時とは違った形での復元となっているのかもしれず、ちょっと名前倒れなところがあり残念ではありました。

こちらは中の段にある月見櫓で、国の重要文化財に指定をされている遺構です。
ただ宇喜多氏の時代のものではなく、岡山池田氏の2代である忠雄が築いたものと言われています。
本瓦葺き二階建てで、貯蔵庫があったり石落としがあったりと本段を守る隅櫓としての機能を有する一方で、平時には月見などの眺望に適した構造になっているとのことでした。

月見櫓の脇には、穴蔵がありました。
言われなければただの凹みにしか見えないのですが、非常用の食料の貯蔵に用いられていたとのことです。
どうやって調べたのかは分かりませんが、香川県豊島産の凝灰岩の切石で造られているとは説明板からの受け売りです。

現在は一続きになっている本段と中の段を繋いでいたのが、この廊下門です。
搦め手にあたる城門で、門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えていました。
これまた1966年の再建ですが、残念ながらその廊下は閉ざされていて渡ることができなかったのが残念と言えば残念です。

岡山城は宇喜多氏、小早川氏、岡山池田氏と城主が変遷をしましたので、石垣にもその特徴が顕れています。
こちらの石垣は宇喜多氏のときのもので、自然石をそのまま積んだ野面積みとなっています。
前回に岡山城に訪れたときにまさにこの石垣が発掘中で、珍しいものを見られたと喜んでいたのですが、埋め戻されるものと思っていましたのでちょっと意外ではありました。

本段南東の高石垣も宇喜多秀家が築いたもので、やはり野面積みになっています。
高さは15.6メートルもあり、関ヶ原の戦い以前の石垣としては屈指の高さとはこれまた説明板の受け売りです。
よくぞ形も整えずに積み上げてこれだけの高さにしたものだと、日本人の技術の高さに毎度のことながら驚かされます。

西の段南西の石垣は小早川秀秋によるものとのことです。
同じく野面積みですが宇喜多氏のそれに比べると隙間など雑な印象があり、その秀秋の性格から適当さが見られるなどの指摘もあるようです。
そんなところまでを城主が指図をするとは思えず、関ヶ原での裏切り、頓死などもあって評判の悪い秀秋が哀れにもなりますが、日本人の気質からすれば仕方がありません。

小納戸櫓下の石垣は池田忠雄が築いたもので、石材をあらかじめしっかりと加工をして隙間なく積み上げられています。
同じ城の城壁とは思えないぐらいの差があり、場所によっては野面積みと連なったりもしていますので不思議な感じがあります。
その加工にしても積み上げた際の姿を想定しての作業になったでしょうから、やはり日本人は凄いとしか言いようがありません。

いわゆる岡山城跡からやや離れたところにある小学校の跡地には、当時の遺構の西の丸西手櫓があります。
二の丸の西の郭西端を守る隅櫓で、池田忠雄が幼少のときに後見をしていた兄の利隆が建てたものと言われています。
入母屋造りの本瓦葺きで、時代背景もあったのでしょうが鉄砲狭間や石落としのある実戦向きで堅牢な造りとなっていますが、二階の広間などがその実戦性にそぐわないのは利隆の子の光政が西の郭を隠居所にしたときに手を加えたのではないかと言われており、既に太平の世になったのだなといった感じがしました。

岡山城を出て次に向かったのが徳与寺で、於福の供養塔があります。
於福は宇喜多直家の継室となり秀家を産み、また直家の死後に豊臣秀吉の側室となったことでも有名です。
ただ近年の研究ではこの供養塔は於福のそれではなく、宇喜多詮家の室のものではないかとも言われているようです。

瑞雲寺は小早川秀秋の菩提寺です。
その本堂に秀秋の墓があるとのことで、基本的には非公開ながらも見せてもらうことができたとの情報もあったので二日間で三度訪れたのですが、願いは叶いませんでした。
チャイムを鳴らしても無反応で、ラジオの音が聞こえていましたのでおそらくは誰かはいたと思うのですが、観光客は相手にしないということであれば仕方がありません。

光珍寺は宇喜多氏の菩提寺です。
しかしこういったビルな寺は初めて見ましたし、申し訳ないながらも風情が足りない感じがします。
戦災で焼失をした際に宇喜多直家の木像や宇喜多氏の位牌も失われてしまい、明治維新後の廃城と第二次世界大戦の空襲は歴史ファンにとっての敵としか言いようがありません。

その光珍寺と元は一つの寺だったのが、岡山寺です。
池田氏のときに理由は分かりませんが、分割をされて今に至っています。
そういう意味ではこちらも宇喜多氏の菩提寺だと、無理矢理に言えなくもありません。

そして意味深な五輪塔です。
覆屋までありますので寺にとっては大切なものであることは明らかで、そうなれば宇喜多直家のそれではないかと夢が広がります。
ネットで調べてみれば岡山寺としてこれを直家の墓としているわけではないようですし当然のように説明板などもありませんでしたが、そうではないかとの意見と言いますか希望と言いますか、そういった記載もチラホラと見かけますので、思い切ってこれを「(仮)宇喜多直家の墓」としても罰は当たらないでしょう。

岡山市街の中心地はほぼ巡ったので、次はまたえっちらおっちらと西に13キロほどの高松城跡です。
羽柴秀吉の「高松城水攻め」で有名な城ですが、しかし遺構としてはほとんど何も残っていません。
この高松城の城主だったのが毛利氏に仕えていた清水宗治で、城兵を助命することを条件に切腹をしました。
ここがその自刃の地とのことで、船上での切腹ではなかったかのかとは思いつつも、それだけ地元の人に愛されているということなのでしょう。

その城跡は公園になっていますが、これといって何があるわけでもありません。
そもそもがかなり広大な範囲で堤防を築いての水攻めでしたので、僅かに残された遺構はもっと外周にあるのでしょう。
ここで唯一のそれらしきものは宗治の首塚で、つまりはここが高松城の本丸跡になります。

こちらがその首塚です。
こんもりとした盛り土のようなものの上に供養塔があり、しかし実際にその首がここに埋まっているかどうかは分かりません。
宗治の子の景治が毛利氏に従って萩に移り、そこに父の菩提寺として清鏡寺を構えて宗治の墓もそこにありますので、あるいは改葬をされているといったこともありそうです。

強烈な逆光だったので補正をしても左が精一杯で、仕方がないので正面は諦めての右になります。
宗治はその最期から忠義の士として讃えられていますが、元は毛利氏と備中を争う三村氏に荷担をしていた石川久智の女婿で、三村氏から叛して毛利氏に降っています。
久智の子の久式も一時的に毛利氏に属していましたので宗治のみが裏切ったということでもないでしょうし、当時からすればこういった強大勢力に挟まれた国人衆の右往左往は珍しいことでもなく、それだけになぜに宗治が毛利氏、実際のところは小早川隆景に操を立て通したのかはよく分かりません。
それだけ隆景に人を惹きつける魅力があったのか、それとも他の理由があったのか、何にせよ宗治は武士の鑑として現在に伝えられています。

城跡公園の一角には、高松城跡公園史料館があります。
8畳ほどの狭い空間ではありますが水攻めや宗治にかかる資料が多く展示をされていて、また自分しかいなかったこともあってか係の方がいろいろと説明をしてくださいました。
帰り際に自転車で100メートルも走ったところまで追いかけてきてマスカットまでいただき、これだから旅は止められません。

首があれば胴もある、宗治の胴塚です。
首のない胴体を家臣が持ち帰って埋葬をしたとのことで、しかしやはりここにその胴体が眠っているかどうかはよく分かりません。
ちなみにここは妙玄寺という宇喜多氏の重臣だった花房氏の菩提寺だったところで、やはり宇喜多騒動で宇喜多氏から離れた花房職秀の墓もあるとのことでしたが、かなり以前に当時の住職が夜逃げをしてしまい近くの寺が檀家さんを引き取ったとのことですので、そのあたりはもう誰も分からないとは地元の方のお話でした。

またしても岡山市街に舞い戻っての少林寺です。
少林寺とは言ってもリー・リンチェイがいるわけでもなく、池田輝政の子の輝興の菩提寺です。
輝興の墓は和意谷にありますが、兄の政綱の墓がこちらにあるとの情報がありましたので足を運んでみたものの、お寺の方が不在で見つけることはできませんでした。

最後は国清寺です。
池田輝政、利隆の菩提寺で、また岡山藩の支藩である鴨方藩は光政の次男の政言が2万5千石で、生坂藩は三男の輝録が1万5千石で、つまりは利隆の孫、輝政の曾孫がそれぞれ立藩をして、その代々の当主の墓所があるとのことでしたが、もう肌が熱を持ってしまって余裕が無かったために次回の楽しみにと先送りにしました。
一部は戦後に別の場所に移されたとのことで、そのあたりの情報収集が足りていなかったということもあります。
いろいろと他にも見落としを現地に入ってから気がつかされましたし、まだまだ準備不足を痛感したのも今回の旅の収穫だったりもします。


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4 コメント

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すごい! (大森鴎)
2013-11-04 01:34:19
まさか高松城跡まで自転車で移動されたとは・・・。
オリオンさん、体力もありますねえ。

岡山城近くの後楽園には立ち寄らなかったのですか?
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お返事 (オリオン)
2013-11-04 23:58:52
岡山市街から13キロほどですので、球場へ行くのと同じぐらいなのでお茶の子さいさい(笑)
もっともその前に倉敷まで行ったのでこの日の走行距離は88.05キロと、最後はかなりへばりましたが。
後楽園には行きませんでした。
金沢に行ったときも兼六園には寄りませんでしたし、きっと水戸に行っても偕楽園には足を伸ばさないと思います。
いや、あまり庭園とかは興味がないので・・・
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郷里の歴史を興味深く読みました (ジャムジャムジャンケン)
2013-11-08 04:59:27
こんにちは、お邪魔します。
倉敷市出身で千葉県在住のロッテファンです。

郷里の探訪記を楽しく読みました。たまにしか帰郷しませんが、一度ゆっくり歴史を振りかえる旅もしてみたいと思わされました。

天城池田市の墓所の件 残念でしたね。
江戸時代までは備前岡山と備中倉敷は明確な区別があったと思いますが、特に昭和以降、地域の交通や経済上の結び付きもあって、備前の天城や児島は倉敷市に、備中にある高松や足守は岡山市となっています。

次回のご訪問に取っておく、と思し召しいただければと思います。
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お返事 (オリオン)
2013-11-09 01:03:44
この手の取りこぼしは、次へのバネにすることにしています(笑)
でも惜しかったと言いますか、カーナビに住所まで入力をしましたので検索ボタンさえ押していれば自分が既に倉敷にいたことに気がつけたと思うのですが、押す前に「倉敷?」で思考が止まってしまいました・・・
以前は地図をしっかりと頭に入れて動いていたのですが、カーナビに頼るようになってからそれを怠るようになった報いかもしれません。
次回への糧、と自分に言い聞かせています。
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