オリオン村(跡地)

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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 鳥取の巻 鳥取藩主池田家墓所の章

2013-10-02 23:17:19 | 日本史

 

突然に復活をしたgooの文字数制限のために、不細工にも鳥取の巻を分ける羽目となりました。
公的には全角2万字ですが最近は4万字を超えても1つの記事にできていたことで重宝をしていましたので、かなり残念です。
旅の記録はどうしても写真が多くなるので文字数が増えてしまいますから、今後の面倒を考えると頭が痛いです。

そんなこんなで時系列的に前後をしてしまいますが、三日目の最初に訪れたのが鳥取藩主池田家墓所です。
初日の鳥取は大義寺からの帰りにゲリラ雷雨に見舞われるなど散々な帰路となってしまいましたが、この日の鳥取の朝もそれなりの雨でその鳥取藩主池田家墓所に向かう途中で民家のガレージをお借りして雨宿りをさせてもらう憂き目に遭い、しかしその後は急速に天気は回復をしましたので言うなれば線香花火の最後の輝きのようなものでした
ここには鳥取藩主の墓が整然と並んでおり、手入れも行き届いていてかなり壮観です。
地元の方の言葉を借りれば珍しくもここは墓碑ではなく正真正銘の墓所で、歴代藩主の納骨がされているとのことでした。

池田氏は藩祖である輝政が秀でた武将であったこともありますが徳川家康の次女の督姫を継室に迎えたために、西国将軍と呼ばれるほどに栄えました。
輝政は播磨姫路に52万石、督姫の子である次男の忠継は備前岡山に28万石、三男の忠雄は淡路洲本に6万石、弟の長吉も因幡鳥取に6万石と、合わせて92万石にもなります。
それもあって一族が広がっていますのでかなり分かりづらく、折角ですので系図をまとめてみました。
クリックをしていただくと別ウィンドウが開きますので、横に置いていただけると分かりやすいのではないかと思います。
ちなみに凡例は色付きが藩主、太字がそのうちで写真でご紹介ができるものとなります。

輝政の父の恒興は織田信長の乳兄弟で織田家で力をつけていきますが、本能寺の変の後の羽柴陣営と徳川・織田陣営との対立に際して羽柴側に立ち、そして小牧長久手の戦いで三河への中入り部隊の第一陣として攻め入りますが嫡男の元助とともに討ち死にをしてしまいます。
そのため次男の輝政が家督を継ぎ、秀吉の死とともに豊臣政権から徳川政権に華麗に転身をしました。
その跡は嫡男で前妻の子である利隆が継ぎ、督姫の子である忠継らに継がせなかったところに輝政の男を感じますが、その利隆が33歳で没したことで姫路藩3代となった光政は8歳と幼少で、要衝の姫路は任せられないと因幡鳥取に転封となります。
しかし叔父で備前岡山藩主の忠雄がやはり31歳で早世をして子の光仲が3歳だったことで光政との領地入れ替えとなり、光政が岡山池田氏、光仲が鳥取池田氏となりました。

そんなこんなで光仲は父から備前岡山藩の31万5千石を受け継ぐことはできませんでしたが、石高からすれば32万5千石の因幡鳥取藩ですし、岡山池田氏と同じく従四位下が通例でしたのでそのあたりは幕府も配慮をしたのかもしれず、しかし池田氏宗家という意味では利隆の系統である岡山池田氏なのでしょう。
幼少であったことから叔父の輝澄や従兄弟の光政が後見人となり、また米子荒尾氏らの家臣団が領国経営にあたりました。
その後は親政を始めて藩主の権力強化を徹底し、また厳正寡黙な性格で政治に熱心な名君として伝えられています。

その光仲の墓石の背面には、びっしりと文字が刻まれていました。
これまた地元の方の言葉を借りれば光仲の事績が刻み込まれているとのことで、かなりの細かさで没後320年のものとは思えない見事さです。
石がいいんだ、と自慢げに語るその顔が輝いていました。

鳥取池田氏としての初代藩主である光仲の跡は嫡男の綱清が継ぎ、次弟の仲澄は父から2万5千石、後に3万石を分知されて鹿奴藩を、四弟の清定は兄から1万5千石、後に2万石を与えられて若桜藩を興しますが、しかし実態は鳥取藩から蔵米を支給されて藩政も鳥取藩の役人が行っており、徳川御三家のように本藩の血の保存が主な目的だったようです。
現実問題として幕末にかけて前田氏、徳川氏の血が入ってしまいますが、それまでは鹿奴藩の初代藩主の仲澄の血が席巻をしたといった感じです。
また鳥取藩の歴代藩主の墓碑は高さ4.6メートルにも及ぶ壮大な「亀趺円頭」で三段に重ねた亀腹台石の上に「亀趺」と呼ばれる神獣を象った台石を据えていますが、この綱清だけは生類憐みの令に配慮をして「亀趺円頭」の形式とはなっていません。
綱清には継ぐべき子が無かったため次弟の仲澄の長男で甥の吉泰を迎えて3代藩主とし、その嫡男の宗泰が4代藩主となりますが31歳で早世をしたために嫡男の重寛はまだ2歳で、そのため宗泰の従兄弟にあたる若桜藩の3代藩主である定就を藩主として重寛をその養子にしたいと幕府に願い出ましたが、重寛の生母が紀州徳川家の久姫であったことからその後押しで異例とも言える重寛の相続が認められました。
その久姫は賢夫人だったようで幼い重寛を後見して倹約令を押し進めて藩財政を立て直し、その余韻が重寛の次男で6代藩主の治道のときにまで続くことになります。
治道の跡は国許で生まれた嫡男の斉邦、江戸屋敷で生まれた次男の斉稷のそれぞれを推す声で家臣団が割れて、また治道も斉稷を可愛がっていたものの諌死をする家臣も出たことで結局は7代藩主を斉邦が継ぎ、その斉邦が21歳で若死にをしたことで8代藩主を斉稷が襲いました。
斉稷はこれまでの継嗣原則を破って将軍家から斉衆を養子に迎えて鳥取藩では前例のない従四位上が与えられたり葵の御紋を用いることを許されるなど幕府から多くの恩典を与えられましたが、しかし斉衆は15歳で早世をしたことで斉稷の次男の斉訓が9代藩主となります。
その斉訓も嗣子が無いままに22歳で若死にをして跡は鹿奴藩の8代藩主の仲律の長男である慶行が継ぎ、この慶行は重寛の曾孫になりますので血は保たれたことになります。
しかしここまで頑張って受け継いできた輝政の血も慶行が17歳で没した後に加賀前田氏より慶栄を11代藩主としたことで絶えてしまい、慶栄も早世をしたことで12代藩主は水戸徳川家から入った慶徳、そしてその次男の13代藩主である輝知のときに幕末を迎えました。
もっとも慶徳の正室は若桜藩の7代藩主の定保の娘であることから、輝知がこの定保の孫であれば女系として輝政の血は続いていることになります。
ただ鳥取池田氏の当代は女性とのことで、旧鳥取藩主家としての役目終焉を表明しているとのことですので血脈フリークとしては残念でなりません。
写真は上段左から綱清、吉泰、宗泰、重寛、治道、斉邦、斉稷、斉訓、慶行、慶栄です。

鹿奴藩の初代は先に書いたとおり鳥取藩の初代藩主である光仲の次男の仲澄で、その血筋から鳥取藩の3代藩主の吉泰から11代藩主の慶行までを、また若桜藩の2代藩主の定賢、3代藩主の定就、4代藩主の定得、8代藩主の清直、9代藩主の清緝、そして10代藩主の徳定を輩出しましたので鳥取池田氏の血の保存に大きく貢献をしました。
仲澄の長男の吉泰が鳥取藩を継いだために2代藩主となったのは次男の仲央で、3代藩主はその嫡男の仲庸、4代藩主はその嫡男の澄延、しかし澄延に継ぐべき子が無いままに20歳で没したことで跡を次弟の延俊が襲って5代藩主になるものの、その延俊も18歳で没したことで後継者がいなくなります。
そこで鳥取藩から5代藩主の重寛の三男の澄時を、その澄時も17歳で早世をしたことで同じく重寛の四男の仲雅を迎えてそれぞれ6代藩主、7代藩主としましたが、この兄弟は吉泰の曾孫ですから仲澄の血が戻ってきたことになりますので鹿奴藩としては願ったり叶ったりだったのではないかと思います。
8代藩主は仲雅の三男の仲律、その仲律の長男の慶行が鳥取藩を継いだことで9代藩主は三男の仲建が継ぎ、しかし仲建が藩財政が厳しいことを理由に鳥取藩の京都出兵に反対をして諌死をしたことで10代藩主は従兄弟の徳澄が継いで幕末を迎えました。
写真は上段左から仲澄、仲央、仲庸、澄延、延俊、澄時、仲雅、仲律、仲建です。

若桜藩も鹿奴藩と同じく、藩主の墓が時期が同じな鳥取藩主の側にあります。
初代藩主は鳥取藩の初代藩主である光仲の四男の清定で、東館と呼ばれていた鹿奴藩に対して西館と呼ばれました。
清定には子が無かったために、兄で鹿奴藩の初代藩主である仲澄の四男の知至をもらいうけて定賢として2代藩主とします。
そして3代藩主は定賢の嫡男の定就、4代藩主は定就の嫡男の定得が継ぎましたが、定得にやはり子が無いままに没したことで旗本の池田家から定常を迎えて5代藩主としました。
本来であれば鳥取藩、あるいは鹿奴藩から養子を取るべきだったと思うのですが、しかしこの時期は鹿奴藩は同じく跡継ぎに恵まれずに鳥取藩から澄時、仲雅と相次いで迎えれている状態だったことで、おそらくは適切な候補がいなかったのでしょう。
この定常は輝政の四男の輝澄の玄孫ですからかなり遠いものの池田氏の血ですので、まずまずな判断だったと思います。
定常は池田冠山とも呼ばれて文学者として高く評価をされているとのことで、鳥取藩池田家墓所のパンフレットにも支藩では唯一に取り上げられていました。
定常の跡は嫡男の定興が継いで6代藩主となり、その定興が夭折をしたことで六弟の定保が7代藩主に、定保の子が早世をしたことで鹿奴藩の7代藩主の仲雅の八男である清直を迎えて、その清直にも跡を継ぐ子が無かったために同じく鹿奴藩から甥にあたる清緝を迎え入れて9代藩主としたものの20歳で早世をしたために、その次弟の徳定を10代藩主としましたので、幕末の鹿奴藩と若桜藩の藩主は兄弟だったことになります。
写真は上段左から清定、定賢、定就、定得、定常、定興、定保、清直、清緝です。

その他にも藩主の一族の墓が多くありましたが、ご紹介をするのは元服が済んで諱が分かっている人物のみです。
鳥取藩の5代藩主の重寛の長男の治恕は将軍に拝謁をするも17歳で早世をしたことで、次弟の治道が6代藩主となりました。
8代藩主の斉稷は将軍家から斉衆を養子に迎えましたがやはり15歳で没したため、斉稷の実子の斉訓が9代藩主となってこの時点では池田氏の血を守ることになります。
治恕、斉衆は世子でしたので、その墓は藩主と同じく「亀趺円頭」の形式となっています。
初代藩主の光仲の六男である清弥は豊後森藩の久留島通政の養子となって久留島通孝と名乗りましたが、その後に廃嫡をされてしまいました。
また鹿奴藩の初代藩主の仲澄の三男の澄古は長兄が鳥取藩を継いだ吉泰、次兄が鹿奴藩を継いだ仲央、そして弟に若桜藩を継いだ定賢と藩主がずらっと居並ぶ中で不遇を託った立場のようにも見えますが、吉泰の子が少なかったことでの養弟でもありましたので世子の予備軍という扱いだったのかもしれません。
写真は左から治恕、斉衆、清弥、澄古です。


【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
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