オリオン村(跡地)

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ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 鳥取の巻 鳥取城の章

2013-09-28 23:07:48 | 日本史

 

旅を重ねる毎にその目的が城跡、墓所に純化をしつつあり、今回もほぼそれが全てと言っていいぐらいです。
特に墓所巡りは世に同好の志が多いこともあって事前にネットで情報を仕入れるなどして、これまでとは雲泥の差ぐらいに行動範囲が広がりました。
墓所とは言っても供養塔が含まれたりと実際に武将がそこで眠っているかどうかはまた別の話ではありますが、その生を感じさせる足跡ですので今後も追っていきたいです。

鳥取の初日ではまず鹿野城跡です。
鳥取駅から海岸線に出てひたすら西に20キロ弱を走っての鹿野町にあり、戦国期に亀井氏の居城となり、亀井氏が石見津和野に加増転封された後は池田氏の支城となりました。
現在は石垣や堀が遺されていますが、本丸跡は城跡に立つ鹿野中学校のグラウンドになっています。

鹿野城跡からほど近いところにあるのが幸盛寺です。
亀井茲矩が義理の舅である山中幸盛の菩提を弔うために開基したもので、その名を取って幸盛寺と名付けられました。
茲矩の出自は湯氏で元は湯国綱と名乗っていましたが、尼子氏の家老であった亀井秀綱の娘を娶って亀井茲矩となります。
幸盛の正室も秀綱の娘ですので茲矩と相婿になりますが、その正室の妹をいったん自らの養女として茲矩と娶せたことで義理の親子関係となりました。

こちらが山中幸盛の墓です。
山中鹿介の方が通りがよいであろう幸盛は品川大膳との一騎打ちや「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったなどの逸話も多く、講談などで名高い尼子十勇士の筆頭として尼子氏再興の戦いに一生を賭けた忠義の士として今なお人気の高い武将です。
ちなみにこの手前に大きな五輪塔があり、茲矩の姉の墓なのですが、テレビなどが取材に来たときにそれを幸盛の墓と間違えるとは、お寺の方の苦笑いなお話でした。

譲伝寺は亀井茲矩の菩提寺です。
亀井氏が石見津和野に移った後も茲矩の菩提寺として栄えたらしく、藩祖のそれがそのままというのはあるいは珍しいかもしれません。
因幡の曹洞宗の本山、と呼ばれるほどだっただけのことはあり、かなりの威容を誇っています。

右手奥のこんもりした丘のようなところを登っていくと、茲矩の実父である湯永綱の供養塔があります。
湯氏は宇多源氏佐々木氏の一族ですので、遠いところでは六角氏、京極氏、そして尼子氏と血が繋がっていることになります。
永綱はその尼子氏の家臣ではありましたがこれといった活躍は伝えられておらず、茲矩の父であることが唯一と言ってもいいぐらいの存在なのでしょう。

亀井茲矩の墓所は、鬱蒼とした山中にあります。
民家の向かいにある一見するとただの雑木林ですので、説明板を見落とすと迷ってしまうかもしれません。
ちょっとした山城を登る感じですので、足元のしっかりとした靴で攻められることをお奨めします。

茲矩はなかなかに有能な武将だったようで、豊臣秀吉に取り立てられて因幡鹿野城主となり1万3500石の大名となりました。
秀吉の死後は徳川家康に接近をして、そして関ヶ原の戦いでも東軍に与して戦後に3万8千石に加増をされています。
また秀吉から「亀井琉球守殿」と書いた扇を賜るなど海外に目を向けた武将でもあり、戒名の光武院殿中山道月大居士の中山とは琉球のことだそうです。

鹿野町から次の目的地である河原町は南東にあたるので斜めに向かえると思いきや、どうやら山などがあるために自転車では無理だとカーナビが訴えるので、仕方がないのでいったん東に向かって鳥取市街に戻り、そこから南下をするという35キロほどの長距離移動となりました。
まず目指すは河原城ですが、なかなかの高台にあり苦労をさせられたものの、かなり雲は厚くなりましたが雨が降るまでには至らなかったのでラッキーといった感じです。

城壁や城門があるなど、なかなかな造りの河原城、愛称は若鮎城です。
もっとも鉄筋コンクリート造りの三層四階建てで実在の城を復元したものではなく、単なる展望台でしかありません。
犬山城を模した模擬天守は1994年に建てられたもので、それに先立つ発掘調査で堀切、柱穴、廓など多くの遺構が発見をされたことから中世の山城跡ではあったようです。
説明板を信ずれば町民のシンボルとなっているそうで、ただ空模様もあってか人影は見られませんでした。

河原城を出て暫くしてから雨が降り出して、レインスーツにレインパンツの出番です。
それでも次なる目的地の大義寺に着いたときには雨は上がっていましたので、ラッキーは続いています。
その大義寺には武田高信の墓があり、ここで高信は謀殺をされて波乱の一生を終えました。

高信は若狭武田氏の傍流で因幡山名氏の家臣でしたが次第に力をつけて、鳥取城を奪うなどして主君である山名豊数を追い落とします。
そして毛利氏に通ずるとともに傀儡の守護として豊数の叔父にあたる豊弘を立てて一時は因幡を支配しますが、豊数の弟の豊国との抗争の中でその豊国も毛利氏に降ったために微妙な立場となり、毛利氏に見捨てられる形で豊国に大義寺におびき出されて殺されたというのが通説です。
ただ最近の研究では高信の死はもっと早かったのではないかとも言われており、因幡の梟雄の最期は未だ明らかではありません。
これで初日の史跡巡りは終了をしましたが、鳥取市街に戻る途中でゲリラ雷雨に見舞われたのは旅情篇でも書いたとおりです。

三日目にはまず鳥取藩主池田家墓所に向かったのですが、いつの間にやらgooブログの文字数制限が復活をしたようなので別章とします。
次なるは吉川経家の墓所で、新興住宅地の中の公園にあります。
これがなかなかに場所が分からず駅前の観光案内所に電話をして、ようやくにたどり着きました。
中央に走る広い坂道を登り切ったところにありますが、登り口からそれなりに距離がありますので不安にならずに突き進むことが大切です。

吉川経家は毛利の臣で、吉川元春の同族になります。
石見吉川氏の当主で、織田氏の攻勢に毛利氏から寝返った山名豊国が家臣に鳥取城を追放されたことで城主として迎えられました。
しかし羽柴秀吉の鳥取城渇え殺しと呼ばれる兵糧攻めで鳥取城は落城し、経家は潔く自害をします。
墓碑は2つありますが観光案内所の方の説明によれば右が墓、左が供養塔とのことで、城内にあったものを鳥取城の改修の際に現在の場所に移されたとのことです。
この経家の奮戦は毛利氏にとって死地に赴かせたという後ろめたさもあったでしょうし、岩国に吉川経家弔魂碑があったとは岩国の巻でご紹介をさせていただきました。

鳥取城に向かう途中の丸山町に、奈佐日本助と塩谷高清の供養塔があります。
秀吉の鳥取城攻めの際に日本助は丸山城に、高清は雁金城に拠って鳥取城への兵糧を運ぶ役割を担いましたが、その兵站線を断たれたことが落城に繋がりました。
両将ともに責任を負って自害をし、この供養塔は丸山城のあった丸山の山裾にあります。

そして日本100名城の一つである、鳥取城跡です。
久松山に築かれた山城で、山名氏の居城でしたがイメージとしては吉川経家、そして池田氏が前面に出てきます。
ご多分に漏れず明治になってから建物は払い下げられてしまい残念な状態ではありますが、しかし遺された石垣の偉容さは見事でした。

正面入口には吉川経家の像があります。
やはり鳥取城と言えば経家、とは地元からすればそうなのでしょう。
1993年の建立で20年前ですから意外に新しいかなとは思いますが、その凛々しい姿はミニチュアが欲しいぐらいです。

唯一の建物である城門は、しかし復元をされたものです。
太鼓御門石垣は櫓門であった太鼓御門を支えた石垣で、この太鼓御門には時を告げる太鼓が据えられていたことからそう呼ばれました。
この辺りは工事中なのか柵などがあり、調べてみれば鳥取市は史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備基本計画なるものを策定して30年計画で幕末のときの姿を取り戻すための施策をとるとのことで、こういった自治体の動きはとても嬉しいのですが最後まで見切るには寿命が足りそうにもありません。

鳥取城跡はとにかく石垣、石垣、石垣、なのですが、その中でも珍しいのが「お左近」の手水鉢です。
池田輝政の次弟である長吉が池田氏として初めて鳥取城に入り、子の長幸が備中松山に加増転封をされた後に輝政の孫の光政、次いで光政の従兄弟の光仲が城主となりましたのでややこしいのですが、このあたりは次の章をご参照いただければ人間関係が分かりやすいと思います。
その長幸の正室の次女の「お左近」が城の改修の際に難工事であった三階櫓の石垣にその手水鉢を築き込んだところ無事に完成をした、との逸話が残されているとは説明板からの受け売りですが、こう見てみるとなかなかに見栄えがよく花でも活けたくなります。

その三階櫓は江戸期に天守閣が落雷で焼失をした後は、鳥取城を象徴する建物とされました。
三層三階の隅櫓ながらも宇和島城や丸亀城の天守閣を凌ぐ規模を誇り、高さは犬山城と同じぐらいとはwikipediaの説明です。
菱櫓は二層二階で文字どおりに菱形だったらしく、なぜにそんな形だったのかはよく分かりません。
写真は左が三階櫓跡、右が菱櫓跡です。

天球丸は長吉の姉、天球院の名にちなんだ曲輪です。
山崎家盛の室であった天球院が山崎氏を去ってから住んだ居館があったことからそう名付けられました。
その南東には櫓がありましたが焼失をして、その跡に武具蔵が建てられたことで、右の写真のように左側の櫓跡、右側の蔵跡が遺されています。

その天球丸の城壁にあるのが、巻石垣です。
亀の甲羅のようになっているので登りづらいだろうなと思ったのですが、どうやらそれが目的ではなく石垣が崩れそうになったときにそれを防ぐために築かれたものとのことでした。
これがあるから天球丸と呼ばれている、と言われても信じてしまいそうなぐらいに珍しく、こういったものを見たのは初めてではないかと思います。

ここから天守台のあった天守跡に登ることができるのですが、今回はパスをしました。
上り下りだけで往復で1時間ぐらいかかるらしく当日中に岡山に出る予定だったこと、鳥取砂丘でらくだに乗りたかったのでそれでは時間が足りなさそうだったのがその理由ですが、登り口を見たところかなり鬱蒼とした山林になっていて「マジで熊が出そう」に思えてしまったのも大きかったです。
ご丁寧にも登り口に熊に注意の看板がありましたし、どうやら2ヶ月ちょっと前の6月に発見情報があったらしいので脅しには充分でしょう。
もっとも鳥取砂丘は断念となりましたし、後で調べてみればかなり急峻なものの足場は石段があってしっかりとしていたらしいので、ちょっと後悔をしています。
次回に来たときには熊笛でも持って挑もうかと思いますが、鳥取城の名前の入ったものをおみやげに売り出せばとは逆効果かもしれません。

延々と続く上り坂に鳥取砂丘を諦めて、向かったのは景福寺です。
池田氏の家老の荒尾氏の菩提寺で、こちらに後藤氏の墓所があります。
大坂の陣で戦没をした後藤又兵衛基次の室は三浦氏の出で、その子である為勝を連れて岡山の実家に戻りました。
どうやら為勝はそのまま荒尾氏に仕えたようで、荒尾氏は主君に従って鳥取に移りましたので、よってこの景福寺に墓所があるのでしょう。

基次は生存説があるなど片手に余るほどの墓がありますが、こちらにはその遺髪が埋められているとのことです。
また為勝は幕府を憚ったのか後藤ではなく母の実家である三浦氏を名乗り、三浦為勝となります。
三浦氏となると宇喜多直家の継室で秀家の母である於福が最初に嫁いだ美作三浦氏が距離的にも近いので関係があるのかとも思ってしまいますが、今ひとつ分かりませんでした。
写真は左が基次、右が為勝です。

荒尾氏の菩提寺ですので当然のように墓所もあり、かなり巨大な墓石が立ち並んでいました。
説明板には倉吉荒尾氏の初代である嵩就、二代の宣就、そして三代の秀就の説明がありましたが、しかし戒名から探し当てられたのは秀就だけです。
その秀就は池田氏の家老として光仲、綱清、吉泰の3代に仕えて、吉泰の擁立に尽力をしたこともあって家中に威を張りました。

鳥取の最後は玄忠寺です。
ここには荒木又右衛門の墓があり、ちょっとした遺品館もあります。
又右衛門は鍵屋の辻の決闘で名高い、柳生新陰流で大和郡山藩の剣術師範役を務めた剣豪です。

備中岡山藩の池田忠雄の小姓の渡辺源大夫に懸想して断られた河合又五郎が源大夫を斬り殺して出奔し、旗本の安藤氏に匿われたことから話は始まります。
当然のように忠雄は又五郎の引き渡しを要求しますが安藤正珍は旗本仲間と結集してこれを拒否し、忠雄は遺言で又五郎を討つように言い残しました。
そのため源大夫の兄である数馬が仇討ちをするために脱藩をし、その義兄にあたる又右衛門が助太刀をして又五郎を討ち果たしたのが鍵屋の辻の決闘の経緯です。
戦いの場のあった伊賀上野の藤堂氏に預けられた後に忠雄の子である光仲に引き取られたことで又右衛門は鳥取に移り、この地で没しました。
その墓は右側のひび割れの対策なのか、墓石の一部を所持すると勝負に勝つといい伝えられることで削っていく不届き者対策なのか、金網で囲われていました。


【2013年8月 鳥取、岡山の旅】
ついてる鳥取、のってる岡山
ついてる鳥取、のってる岡山 旅程篇
ついてる鳥取、のってる岡山 旅情篇
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 鳥取の巻 鳥取藩主池田家墓所の章
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 米子、八橋、倉吉の巻
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 岡山の巻 岡山藩主池田家墓所の章
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 岡山の巻 岡山城の章
ついてる鳥取、のってる岡山 史跡巡り篇 総社、高梁の巻
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3 コメント

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お尋ねします (しかおまま)
2013-09-29 01:41:58
毛利一族・山中鹿之助・池田氏・・・・と、なじみのある中国地方なので、親しい気持ちで楽しんで読ませていただいています。

ところで、以前にはどういう地方・地域を回られたのでしょうか?
過去ログを全部さかのぼって読ませていただくのは、ちと時間がかかるので・・・・。
静岡県には行かれたことがありますか?
急ぎませんので、よろしくお願いいたします。
おはようございます (kaorin)
2013-09-29 07:52:32
横溝正史の小説に出てきそうな不気味な雰囲気がいいですね。どうも私の頭に中はすぐそういう物に繋げてしまう習性のようで困ります。間違えても「ひぐらしは鳴きますか?」なんて聞きません(笑)

でも、こうして史跡巡りをしていると、その時代を生きた名士たちの、言動や夢、そういった事に、時には押しつぶされそうになったり、時には明るい光を見出したり、一瞬、同化してしまいます。大変な時期を乗り越えてきたんだなぁって。そういう人たちの原動力となったのはなんだったんでしょうね。

あと、ごめんなさい。倉吉と倉敷、間違えていました。
お返事 (オリオン)
2013-09-30 01:31:01
>しかおままさん
史跡巡り、という点からすれば学生時代からですのでもう20年以上で、47都道府県の全てを回っています。
静岡も3度ぐらいは行っているはずです。
ただブログを始めてから、また日本100名城を巡り始めてからはまだ静岡には行っていません。
期限切れの近いマイルを使うために飛行機に乗って遠くから攻めていますので、北海道、北東北、四国、九州、沖縄、そして今の中国といったところです。
東海地方は5年後ぐらいかなぁ、と思っています。

>kaorinさん
マジで不気味です(笑)
かなり険しい山城なんかは崖から滑り落ちたら暫くは発見されないだろうな、なんてところも少なくありません。
足腰が健在なうちですかね、頑張らなければ。
戦国時代は生きるか死ぬかの瀬戸際でのせめぎ合いでしたから、それだけ濃厚な生が感じられるのだと思います。
少しでもその名残に触れられればと、日本全国を行脚中です。