§1 日露戦争がなければ白人優位の世界史の流れは変わっていなかった
生き残った種が最強でもなければ
最も知能がすぐれているわけでもない
変化に最もよく順応したのである
(チャールズ・ダーウィン)
It is not the strongest of the species that survives,
nor the most intelligent that survives. It is the one
that is the most adaptable to change.
( Charles Darwin, British scientist, 1809-1882 )
◆歴史の真実を知るには当時の人々を取り巻く状況を知ること
§1-1 欧米諸国(白人国家)は地球全土を侵略し尽くそうとしていた
◆新大陸の「発見」は「占有」
◆勝手なトルデシリャス条約
◆さらに勝手なベルリン条約
◆欧米の植民地政策は、ダーウィニズムによって“お墨付き”をもらった
◆白人優位の世界の中でアメリカに恥をかかせた日本
◆結局ハワイは歴史の大きなうねりに呑み込まれたとでもいう他ないだろう
§1-2 日露戦争がなければ白人優位の世界史の流れは変わっていなかった
◆「日露戦争」は世界史上の大事件であった
◆奉天会戦の機関銃の使用が騎兵隊を葬り去った
◆日本海海戦の下瀬火薬の使用が海軍の大艦巨砲時代を導いた
◆日露戦争はロシア主権下の満州を舞台にした戦争だった
◆日露戦争における日本の勝利が支那の崩壊を食い止めた
◆満州の利権めぐり対立始まる
◆満州の利権に接近するアメリカの意図
◆歴史の真実を知るには当時の人々を取り巻く状況を知ること
時は1901年。20世紀に入ったばかりです。日本は明治34年です。机の上に1枚の世界地図があります。開いてみると、いまの世界地図とは様相がまったく違います。アジアに目をやると、インド、ビルマ(現ミャンマー)、マレー半島のマレーシア、シンガポールはすべてイギリスの植民地です。越南(えつなん:現ベトナム)、ラオス、カンボジアのある地域は、仏領インドシナと書かれており、フランス領です。 インドネシアのジャワ島やスマトラ島は蘭領東インド。つまりオランダの植民地です。フィリピンもアメリカに支配されていました。 わずかに独立国として記されているのは、シャム(現タイ)と中国大陸の清(しん)、朝鮮、日本です。このうち、シャムは当時、劣等国と見なされており、西欧の国々のいいなりでした。清も独立国の体裁はとっていましたが、欧米各国に分割され、実権はないに等しい状態でした。お隣の朝鮮は清に属国扱いされ、これまた独立国とはいい難い状況です。自分たちの意志で国を運営していたのは日本だけで、厳密な意味では、独立国は日本一国でした。
§1-1 欧米諸国(白人国家)は地球全土を侵略し尽くそうとしていた
15~18世紀にヨーロッパは「近代化」の基礎を築いた。それは具体的にいえばイスラム世界に対し戦争を挑み勝利を収めたことである。1492年のレコンキスタ(国土回復運動)によるイベリア半島からイスラム教徒の掃討。そして1571年のレパントの海戦におけるオスマン・トルコ艦隊の撃破。スペインとポルトガルがトリデシリャス条約を結んで、大胆な地球の二分割を企てたのはこうした勢いに乗ってのことである。
( 西尾幹二『歴史を裁く愚かさ』p93 )
◆新大陸の「発見」は「占有」
ヨーロッパは15~18世紀に初めてヨーロッパになったのだ。それ以前は蛮族にすぎない。近代の日本人はこの点で誤解している。圧倒的強者から解放されたヨーロッパ人は、その余勢にかられてアジア・アフリカ各地を荒し回ることに、まさに解放感のゆえに、罪の意識を抱かなかったのであろう。当時のヨーロッパ人にとって「発見」はすなわち「占有」であった。
◆勝手なトルデシリャス条約
トルデシリャスはセルバンテスが一時暮らしたバリャドリードに隣接する街。世界史に詳しい方なら、スペインとポルトガルが1494年にローマ教皇の承認を得て、新たに発見した土地の分割方式を決めたトルデシリャス条約を思い出すだろう。地図上に南北の分割線を引き、東がポルトガル、西がスペインのものとする勝手な条約がこの地で批准されたのである。
◆さらに勝手なベルリン条約
相手が弱ければ好きに占領して自国領にしていい、というのはヴァスコ・ダ・ガマ以来白人国家間では当たり前のことだったが、ただ進出国家が増えた19世紀後半、白人国家同士がいざこざを起こさないようベルリン条約が結ばれた。
◆欧米の植民地政策は、ダーウィニズムによって“お墨付き”をもらった
19世紀から20世紀前半の国際社会は、「侵略は是(ぜ)」とされた時代であった。この時代の思想を簡潔に表現するならば、「弱肉強食」あるいは「適者生存」という言葉を使うのが最もふさわしい。いうまでもないが、このキーワードはダーウィンが提唱した進化論に由来する。もちろん、植民地主義や帝国主義を正当化するためにダーウィンは進化論を作ったわけではない。
◆白人優位の世界の中でアメリカに恥をかかせた日本
ハワイを乗っ取って間もなく、2隻の軍艦がホノルル港に入港し、乗っ取り劇の要となった米軍艦「ボストン」を挟んで投錨した。日本海軍の巡洋艦「浪速」とコルベット艦「金剛」だ。「浪速」の艦長は東郷平八郎といい、彼は樹立されたハワイ共和国に対していっさいの儀礼をとらなかった。それは明らかに米国の暴挙を非難するものだった。
◆結局ハワイは歴史の大きなうねりに呑み込まれたとでもいう他ないだろう
欧米の脅威を感じていたカラカウア王はひそかに日本との提携を考える。1881年に世界歴訪の途次、日本を訪れたカラカウア王は、供の者にも秘密に明治天皇を訪ね、ハワイと日本の王室同士の婚姻関係を成立させて、連携を図ろうとしたのだった。まさに悲壮な決意といわなければならないが、明治政府が成立してからまだ13年、西南戦争が終わってからまだ3年という日本側はこの申し出を婉曲に断って、カラカウア王の秘策は不発に終わってしまった。もしこの思い切った提案を日本側が受諾していたら、そのあと一体どうなっていたことだろうか。カラカウア王はそのあと別の諸国歴訪の旅に出てまもなく、突然カリフォルニアで客死する。
§1-2 日露戦争がなければ白人優位の世界史の流れは変わっていなかった
コロンブスが新大陸を発見するまでは、世界のある地域で起きた事件が別の地域に影響を与えるということは、ほとんどなかった。アレキサンダー大王が現れてもアメリカ大陸には関係がないし、漢の武帝の即位がアフリカに影響を及ぼすことはなかった。ところが、新大陸発見によって世界史の流れが変わった。以来4百年、日露戦争における日本の勝利は、その影響が世界に及んだ点で、コロンブスの新大陸発見に匹敵する世界史上の大事件であったのである。
( 渡部昇一『読む年表 日本の歴史』p207 )
◆「日露戦争」は世界史上の大事件であった
日露戦争がなかったら、あるいは日露戦争に日本が負けていたならば、白人優位の世界史の流れはずっと変わらず、21世紀の今日でも、世界は間違いなく植民地と人種差別に満ちていたであろう。日本が強国ロシアを相手に勝ったのを見て、ほかの有色人種にも、自分たちにもできるかもしれないという意識が生まれた。インドでは民族運動が起こり、あの頑迷固陋(がんめいころう)な清朝政府までが千3百年続いた科挙を廃止し、日本に留学生を送るようになった。日露戦争で日本が勝ったために、白人優位の時代に終止符が打たれたのである。
◆奉天会戦の機関銃の使用が騎兵隊を葬り去った
日本騎兵の創設者、秋山好古が考えたのは、いわば逆転の発想であった。騎馬での戦いでは、日本人がコサックに勝てるわけがない。だから、コサック兵が現われたらただちに馬から降りて、銃で馬ごと薙(な)ぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。これは騎兵の存在理由を根本から覆す発想である。「日本騎兵の生みの親」と言われる秋山将軍のようなエキスパートが、まるで自己否定のようなアイデアを思いつくというのは、普通はできないことである。一種の天才であったと言わざるをえない。
◆日本海海戦の下瀬火薬の使用が海軍の大艦巨砲時代を導いた
世界の海軍関係者は衝撃を受けた。「装甲による防御」という考えが、下瀬火薬によって否定されてしまったからである。1906年、イギリス海軍は下瀬火薬に対抗すべく、12インチ砲10門の砲塔を備える巨大艦船「ドレッドノート」号を造りだした。これ以来、世界の海軍は“大艦巨砲時代”に突入する。ドレッドノートの出現は既存の戦艦をすべて旧式艦にしてしまった。下瀬火薬は、戦艦の歴史を変えたほどの大発明だったのである。
◆日露戦争はロシア主権下の満州を舞台にした戦争だった
ロシアは満州を去っていく。買収して得た満州をロシアが去っていくという事実の意味を、日本は理解できなかった。前にも述べたが、小村寿太郎(こむらじゅたろう)外相たちは、満州をロシアから引き継ぐには清国の同意が必要との法律論から、満州鉄道の共同経営を申し出ていたアメリカとの条約(桂(かつら)・ハリマン協定)を破棄してしまった。アメリカは怒り、ロシアも清(しん)国も表面的にはともかくとして心中ではあきれ、そして侮日(ぶにち)の心情を湛(たた)えたのである。「清国の同意が必要」との清国の申し出は、ロシアの指示で清国がしたものだ。日本は犯罪的に鈍感だった。
◆日露戦争における日本の勝利が支那の崩壊を食い止めた
日露戦争で日本がロシアを阻止できなかったら、支那の国土はロシア、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの軍隊による領土分捕り合戦の舞台となり、支那人は列強の兵士らの軍靴によって蹂躙(じゅうりん)されるところだった。イギリスやアメリカなどは、そんな事態の出現を手ぐすね引いて待っていたはずである。日露戦争における日本の勝利の最大の受益者は支那である。しかし、支那は解体を阻止してくれた日本に感謝したことがない。
◆満州の利権めぐり対立始まる
ルーズベルトの仲立ちで、1905年8月29日に日露講和条約が結ばれました。これをある教科書は、次のように書いています。「条約によって、樺太の南半分を日本の領土にすること、ロシアが清国(しんこく)から借り受けていたリャントン半島と、南満州の鉄道の権利を日本にゆずること、などが決められた」。この時、来日中のアメリカの実業家ハリマンが政府に「資金を提供するので、南満州鉄道を日本と共同経営しよう」と提案しました。
◆満州の利権に接近するアメリカの意図
何より重要なのは、日本が日露戦争という近代戦において、先進国(白人国)ロシアに勝ったという実績を背景にして、明治44年(1911)の2月になって、アメリカと新通商航海条約を調印して、はじめて関税自主権を獲得したことである。そして、日本が半世紀以上にも及ぶ苦労と忍耐のすえ、平等の取扱いを得た以上、日本も弱い国から同じことを期待しうると考えた。日本人は、これが国際的ルールだと思い込んでいたのである。そして、事実そうだった。この場合。日本から見て「弱い国」が清国であったのは、まことに両国にとって不幸なことであった。しかし、ここで認識しておかなければならないのは、日本が清国いじめをやったのではなく、日本も清国いじめの先進国の仲間に正式に入れてもらったことである。アメリカも清国いじめに参加したがった。アメリカがこの参加に遅れたことが日本との関係をむずかしくすることになる。
生き残った種が最強でもなければ
最も知能がすぐれているわけでもない
変化に最もよく順応したのである
(チャールズ・ダーウィン)
It is not the strongest of the species that survives,
nor the most intelligent that survives. It is the one
that is the most adaptable to change.
( Charles Darwin, British scientist, 1809-1882 )
◆歴史の真実を知るには当時の人々を取り巻く状況を知ること
§1-1 欧米諸国(白人国家)は地球全土を侵略し尽くそうとしていた
◆新大陸の「発見」は「占有」
◆勝手なトルデシリャス条約
◆さらに勝手なベルリン条約
◆欧米の植民地政策は、ダーウィニズムによって“お墨付き”をもらった
◆白人優位の世界の中でアメリカに恥をかかせた日本
◆結局ハワイは歴史の大きなうねりに呑み込まれたとでもいう他ないだろう
§1-2 日露戦争がなければ白人優位の世界史の流れは変わっていなかった
◆「日露戦争」は世界史上の大事件であった
◆奉天会戦の機関銃の使用が騎兵隊を葬り去った
◆日本海海戦の下瀬火薬の使用が海軍の大艦巨砲時代を導いた
◆日露戦争はロシア主権下の満州を舞台にした戦争だった
◆日露戦争における日本の勝利が支那の崩壊を食い止めた
◆満州の利権めぐり対立始まる
◆満州の利権に接近するアメリカの意図
◆歴史の真実を知るには当時の人々を取り巻く状況を知ること
時は1901年。20世紀に入ったばかりです。日本は明治34年です。机の上に1枚の世界地図があります。開いてみると、いまの世界地図とは様相がまったく違います。アジアに目をやると、インド、ビルマ(現ミャンマー)、マレー半島のマレーシア、シンガポールはすべてイギリスの植民地です。越南(えつなん:現ベトナム)、ラオス、カンボジアのある地域は、仏領インドシナと書かれており、フランス領です。 インドネシアのジャワ島やスマトラ島は蘭領東インド。つまりオランダの植民地です。フィリピンもアメリカに支配されていました。 わずかに独立国として記されているのは、シャム(現タイ)と中国大陸の清(しん)、朝鮮、日本です。このうち、シャムは当時、劣等国と見なされており、西欧の国々のいいなりでした。清も独立国の体裁はとっていましたが、欧米各国に分割され、実権はないに等しい状態でした。お隣の朝鮮は清に属国扱いされ、これまた独立国とはいい難い状況です。自分たちの意志で国を運営していたのは日本だけで、厳密な意味では、独立国は日本一国でした。
§1-1 欧米諸国(白人国家)は地球全土を侵略し尽くそうとしていた
15~18世紀にヨーロッパは「近代化」の基礎を築いた。それは具体的にいえばイスラム世界に対し戦争を挑み勝利を収めたことである。1492年のレコンキスタ(国土回復運動)によるイベリア半島からイスラム教徒の掃討。そして1571年のレパントの海戦におけるオスマン・トルコ艦隊の撃破。スペインとポルトガルがトリデシリャス条約を結んで、大胆な地球の二分割を企てたのはこうした勢いに乗ってのことである。
( 西尾幹二『歴史を裁く愚かさ』p93 )
◆新大陸の「発見」は「占有」
ヨーロッパは15~18世紀に初めてヨーロッパになったのだ。それ以前は蛮族にすぎない。近代の日本人はこの点で誤解している。圧倒的強者から解放されたヨーロッパ人は、その余勢にかられてアジア・アフリカ各地を荒し回ることに、まさに解放感のゆえに、罪の意識を抱かなかったのであろう。当時のヨーロッパ人にとって「発見」はすなわち「占有」であった。
◆勝手なトルデシリャス条約
トルデシリャスはセルバンテスが一時暮らしたバリャドリードに隣接する街。世界史に詳しい方なら、スペインとポルトガルが1494年にローマ教皇の承認を得て、新たに発見した土地の分割方式を決めたトルデシリャス条約を思い出すだろう。地図上に南北の分割線を引き、東がポルトガル、西がスペインのものとする勝手な条約がこの地で批准されたのである。
◆さらに勝手なベルリン条約
相手が弱ければ好きに占領して自国領にしていい、というのはヴァスコ・ダ・ガマ以来白人国家間では当たり前のことだったが、ただ進出国家が増えた19世紀後半、白人国家同士がいざこざを起こさないようベルリン条約が結ばれた。
◆欧米の植民地政策は、ダーウィニズムによって“お墨付き”をもらった
19世紀から20世紀前半の国際社会は、「侵略は是(ぜ)」とされた時代であった。この時代の思想を簡潔に表現するならば、「弱肉強食」あるいは「適者生存」という言葉を使うのが最もふさわしい。いうまでもないが、このキーワードはダーウィンが提唱した進化論に由来する。もちろん、植民地主義や帝国主義を正当化するためにダーウィンは進化論を作ったわけではない。
◆白人優位の世界の中でアメリカに恥をかかせた日本
ハワイを乗っ取って間もなく、2隻の軍艦がホノルル港に入港し、乗っ取り劇の要となった米軍艦「ボストン」を挟んで投錨した。日本海軍の巡洋艦「浪速」とコルベット艦「金剛」だ。「浪速」の艦長は東郷平八郎といい、彼は樹立されたハワイ共和国に対していっさいの儀礼をとらなかった。それは明らかに米国の暴挙を非難するものだった。
◆結局ハワイは歴史の大きなうねりに呑み込まれたとでもいう他ないだろう
欧米の脅威を感じていたカラカウア王はひそかに日本との提携を考える。1881年に世界歴訪の途次、日本を訪れたカラカウア王は、供の者にも秘密に明治天皇を訪ね、ハワイと日本の王室同士の婚姻関係を成立させて、連携を図ろうとしたのだった。まさに悲壮な決意といわなければならないが、明治政府が成立してからまだ13年、西南戦争が終わってからまだ3年という日本側はこの申し出を婉曲に断って、カラカウア王の秘策は不発に終わってしまった。もしこの思い切った提案を日本側が受諾していたら、そのあと一体どうなっていたことだろうか。カラカウア王はそのあと別の諸国歴訪の旅に出てまもなく、突然カリフォルニアで客死する。
§1-2 日露戦争がなければ白人優位の世界史の流れは変わっていなかった
コロンブスが新大陸を発見するまでは、世界のある地域で起きた事件が別の地域に影響を与えるということは、ほとんどなかった。アレキサンダー大王が現れてもアメリカ大陸には関係がないし、漢の武帝の即位がアフリカに影響を及ぼすことはなかった。ところが、新大陸発見によって世界史の流れが変わった。以来4百年、日露戦争における日本の勝利は、その影響が世界に及んだ点で、コロンブスの新大陸発見に匹敵する世界史上の大事件であったのである。
( 渡部昇一『読む年表 日本の歴史』p207 )
◆「日露戦争」は世界史上の大事件であった
日露戦争がなかったら、あるいは日露戦争に日本が負けていたならば、白人優位の世界史の流れはずっと変わらず、21世紀の今日でも、世界は間違いなく植民地と人種差別に満ちていたであろう。日本が強国ロシアを相手に勝ったのを見て、ほかの有色人種にも、自分たちにもできるかもしれないという意識が生まれた。インドでは民族運動が起こり、あの頑迷固陋(がんめいころう)な清朝政府までが千3百年続いた科挙を廃止し、日本に留学生を送るようになった。日露戦争で日本が勝ったために、白人優位の時代に終止符が打たれたのである。
◆奉天会戦の機関銃の使用が騎兵隊を葬り去った
日本騎兵の創設者、秋山好古が考えたのは、いわば逆転の発想であった。騎馬での戦いでは、日本人がコサックに勝てるわけがない。だから、コサック兵が現われたらただちに馬から降りて、銃で馬ごと薙(な)ぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。これは騎兵の存在理由を根本から覆す発想である。「日本騎兵の生みの親」と言われる秋山将軍のようなエキスパートが、まるで自己否定のようなアイデアを思いつくというのは、普通はできないことである。一種の天才であったと言わざるをえない。
◆日本海海戦の下瀬火薬の使用が海軍の大艦巨砲時代を導いた
世界の海軍関係者は衝撃を受けた。「装甲による防御」という考えが、下瀬火薬によって否定されてしまったからである。1906年、イギリス海軍は下瀬火薬に対抗すべく、12インチ砲10門の砲塔を備える巨大艦船「ドレッドノート」号を造りだした。これ以来、世界の海軍は“大艦巨砲時代”に突入する。ドレッドノートの出現は既存の戦艦をすべて旧式艦にしてしまった。下瀬火薬は、戦艦の歴史を変えたほどの大発明だったのである。
◆日露戦争はロシア主権下の満州を舞台にした戦争だった
ロシアは満州を去っていく。買収して得た満州をロシアが去っていくという事実の意味を、日本は理解できなかった。前にも述べたが、小村寿太郎(こむらじゅたろう)外相たちは、満州をロシアから引き継ぐには清国の同意が必要との法律論から、満州鉄道の共同経営を申し出ていたアメリカとの条約(桂(かつら)・ハリマン協定)を破棄してしまった。アメリカは怒り、ロシアも清(しん)国も表面的にはともかくとして心中ではあきれ、そして侮日(ぶにち)の心情を湛(たた)えたのである。「清国の同意が必要」との清国の申し出は、ロシアの指示で清国がしたものだ。日本は犯罪的に鈍感だった。
◆日露戦争における日本の勝利が支那の崩壊を食い止めた
日露戦争で日本がロシアを阻止できなかったら、支那の国土はロシア、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの軍隊による領土分捕り合戦の舞台となり、支那人は列強の兵士らの軍靴によって蹂躙(じゅうりん)されるところだった。イギリスやアメリカなどは、そんな事態の出現を手ぐすね引いて待っていたはずである。日露戦争における日本の勝利の最大の受益者は支那である。しかし、支那は解体を阻止してくれた日本に感謝したことがない。
◆満州の利権めぐり対立始まる
ルーズベルトの仲立ちで、1905年8月29日に日露講和条約が結ばれました。これをある教科書は、次のように書いています。「条約によって、樺太の南半分を日本の領土にすること、ロシアが清国(しんこく)から借り受けていたリャントン半島と、南満州の鉄道の権利を日本にゆずること、などが決められた」。この時、来日中のアメリカの実業家ハリマンが政府に「資金を提供するので、南満州鉄道を日本と共同経営しよう」と提案しました。
◆満州の利権に接近するアメリカの意図
何より重要なのは、日本が日露戦争という近代戦において、先進国(白人国)ロシアに勝ったという実績を背景にして、明治44年(1911)の2月になって、アメリカと新通商航海条約を調印して、はじめて関税自主権を獲得したことである。そして、日本が半世紀以上にも及ぶ苦労と忍耐のすえ、平等の取扱いを得た以上、日本も弱い国から同じことを期待しうると考えた。日本人は、これが国際的ルールだと思い込んでいたのである。そして、事実そうだった。この場合。日本から見て「弱い国」が清国であったのは、まことに両国にとって不幸なことであった。しかし、ここで認識しておかなければならないのは、日本が清国いじめをやったのではなく、日本も清国いじめの先進国の仲間に正式に入れてもらったことである。アメリカも清国いじめに参加したがった。アメリカがこの参加に遅れたことが日本との関係をむずかしくすることになる。