電脳筆写『 心超臨界 』

真の発見の旅は新しい景色を求めることではなく
新しい視野を持つことにある
( マルセル・プルースト )

生きるための杖ことば 《 風吹南岸柳 雨打北池蓮——松原泰道 》

2024-06-04 | 03-自己・信念・努力
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スイスの近代哲学者で詩人でもあったアミエル(1881年没)は、キリスト教思想による深い内省的なモラリストだ。彼は自己分析をして言う。「風景、それは内なる魂の状態である」と。さきの東山画伯の言や禅者の「本分現成の妙景」に、彼の言が通じている。


◆風吹南岸柳(風(かぜ)は南岸(なんがん)の柳を吹(ふ)き)
 雨打北池蓮(雨(あめ)は北池(ほくち)の蓮(はす)を打(う)つ)
            ――人天眼目(じんてんがんもく)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p136 )

風は南岸の柳の糸をそよがせ、雨は北池の蓮の花に降りそそぐ――名画さながらの描写で説明の余地は全くない。やはり前の現成底(げんじょうてい)である。真理そのものが詩(うた)われているから、禅者は「本分(ほんぶん)現成の妙景」とも言う。本分も真理も、法もまた同意語である。

禅語には本分現成を語るものが多い事実について、日本画家の東山魁夷(ひがしやまかいい)氏は言われる。「禅が6世紀から盛になったことは、自然現象に対しての思索を深め、人間の奥底にある真の自己である『無相(むそう)の自己』が表現されているものとしての「山水」という考え方」によるのであろう、と(風景との対話)。無相の自己とは「いかように想定づけようのない自己」というほどの意味である。

スイスの近代哲学者で詩人でもあったアミエル(1881年没)は、キリスト教思想による深い内省的なモラリストだ。彼は自己分析をして言う。「風景、それは内なる魂の状態である」と。さきの東山画伯の言や禅者の「本分現成の妙景」に、彼の言が通じている。

現代、もっとも東洋的な山水画伯といわれる奥田元宋(げんそう)氏(日展理事長)の名作に、外房の江見附近を取材された「花畠(はなばたけ)」がある。読売新聞編集委員の田中穣(じょう)氏が、同紙の日曜版「日本の四季」で「花畠」を紹介して「奥田さんの“胸中山水”」と評していた。アミエルの言とともに、絵と字と人間のこころとの深いめぐり合いをおもう。

禅者は、自然と自己とを対立的に見ない。自然が自己で、自己が自然だと対立のない一点に自分を置く。そこに本分現成の語としての自然をよむ禅語が生まれる。

「鳥啼人不見 花落木猶香(鳥啼いて人見えず、花落ちて木猶香(きなおかんば)し)「一曲琵琶奏明月(一曲の琵琶明月に奏す)」「花有清香月有陰(花に清香(せいこう)有り月に陰(かげ)有り)」「杜鵑啼在百花枝(杜鵑(とけん)啼(な)いて百花の枝に在り)」

など、すべて現成底の本地の風光である。
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