電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意して決めた解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

南京大虐殺という嘘 《 「南京大虐殺」説の怪――渡部昇一 》

2024-08-01 | 04-歴史・文化・社会
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
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敗戦後これ(南京大虐殺)を聞かされた日本人の多くは、話を真(ま)に受けてしまった。ミッドウェー海戦後の戦時中の大本営発表がいかに出鱈目(でたらめ)であったかはすでに有名だったから、「こういうことがあってもおかしくない」と考えたのは無理もない。じつは、私もその一人であった。しかし、時間が経つにつれて、「南京大虐殺」には不審なことが多すぎるのではないかと思うようになった。しかもその思いは募(つの)る一方である。


◎「南京大虐殺」説の怪

「『昭和の大戦』への道」
( 渡部昇一、ワック、p175 )

◆軍規を徹底させた南京攻略

盧溝橋(ろこうきょう)で始まった日中両軍の衝突は、通州(つうしゅう)、上海(しゃんはい)と飛び火していき、全面戦争の様相を呈してきた。それらはすべて、国民政府軍が主導権を握った形で進んだ。日本軍は「適当なところで収束(しゅうそく)させたい」と常に考えていた。それが昭和天皇のご希望であることが知られていたので、はじめから思いきった作戦を立てることはなく、受身的に戦争拡大に引きずりこまれたと言ってよい。一方、国民政府のほうに、この戦争を止める気はないのも明らかであった。

そこで、シナの日本軍が考えたのは、首都南京(なんきん)を攻略することであった。柳川平助(やながわへいすけ)中将の第10軍を杭州(こうしゅう)湾に上陸させたため、上海を衝(つ)かれる形になった中国軍は総くずれになり、日本軍は一挙に南京を目ざした。

ユン・チアンの『マオ』によれば、上海戦線で、精鋭なる73個師団40万人以上を投入した中国軍はその大部分を殲滅(せんめつ)され、蒋介石(しょうかいせき)の虎の子の空軍のほぼ全部と軍艦の大部分を失った。日本側も約四万の犠牲を出した。日本としては首都を占領してしまえば、さすがに国民政府も和解に応ずるのではないかという期待があったのである(だが、南京占領でも、戦争は終わらなかった。蒋介石は和解交渉を拒絶し、また、日本側も近衛(このえ)首相が「国民政府を対手(あいて)にせず」と声明し、和平の道を閉ざしてしまったからである)。

そこで日本軍は南京に進撃したわけであるが、こともあろうに、これを見た蒋介石ら国民政府の首脳部は、20万人近くの市民を置き去りにしたまま、夜間脱出してしまった。

さらにこのとき、蒋介石は南京防衛を唐生智(とうせいち)将軍に任せたのだが、何と、この将軍も南京陥落前夜、ひそかに脱出しているのである。つまり、日本軍が南京を陥落せしめたときには、この城の中には、責任者と呼べるような敵の将軍がいなかったのである。

一方、攻略側の日本軍はどうであったかと言えば、これはまことに慎重であった。

そもそも南京城を包囲しても、日本軍はすぐに攻撃をしなかった。その前に、籠城(ろうじょう)している国民政府軍に対して投降(とうこう)勧告を出し、彼らが拒否したのを確認してから攻撃したのだ。

また、南京攻略戦を前に松井石根(いわね)将軍は全軍に訓令を出した。内容としては、「日本軍が外国の首都に入城するのは史上初めてのことであるから、後世の模範となるような行動をするべし」ということで、軍規を徹底的に守れということが細かく書かれていた。

日本軍が南京攻略に当たって慎重を期したのは、当時の国際社会がみな日中の戦争に注目していたからである。蒋介石によって上海で多数の外国人居留民が殺されているのだから、なおさらである。

この当時、シナ大陸にはたくさんの外国人ジャーナリストがいた。彼らは決して日本に同情的な人ではない。もしここで少しでも日本軍の落ち度を報道されるようになれば、国際社会における日本の評判がさらに落ちてしまうであろう――松井将軍が全軍に軍規の徹底を呼び掛けたのは、そうした判断があったからだ。

さて、南京攻略は、昭和12年(1937)12月10日から始まった。最初、国民政府軍の抵抗は激しかったが、すでに述べたように、途中で唐生智将軍らが脱出してしまったこともあり、彼らの戦意は急速に衰え、日本軍は13日には城内に入ることができた。正式に入城式が行なわれたのは17日のことである。

◆「南京大虐殺」説の怪

ところが、このようにして行なわれた南京攻略戦に対して、敗戦後、突如として「南京大虐殺」という言いがかりがなされたのである。何と、この戦いで日本軍は30万人のシナ人を殺したというのだ。

この“大虐殺”が最初に言われたのは、言うまでもなく東京裁判の法廷であった。東京裁判で主張された「南京大虐殺の真相」なるものは以下のとおりである。

(1) 南京落城直後の数日で、非戦闘員の中国人が少なくとも1万3千人殺害された。
(2) 占領後、1カ月の間に約3万の強姦事件が起こった。
(3) 同じく6週間にわたって略奪・放火が続けられ、市内の3分の1が破壊された。
(4) 降伏した中国兵捕虜(ほりょ)3万人以上が殺された。
(5) 占領後6週間で殺された一般人・捕虜の総数は20万から30万人に上る。

敗戦後これを聞かされた日本人の多くは、話を真(ま)に受けてしまった。ミッドウェー海戦後の戦時中の大本営発表がいかに出鱈目(でたらめ)であったかはすでに有名だったから、「こういうことがあってもおかしくない」と考えたのは無理もない。

じつは、私もその一人であった。しかし、時間が経つにつれて、「南京大虐殺」には不審なことが多すぎるのではないかと思うようになった。しかもその思いは募(つの)る一方である。
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