世界の海軍関係者は衝撃を受けた。「装甲による防御」という考えが、下瀬火薬によって否定されてしまったからである。1906年、イギリス海軍は下瀬火薬に対抗すべく、12インチ砲10門の砲塔を備える巨大艦船「ドレッドノート」号を造りだした。これ以来、世界の海軍は“大艦巨砲時代”に突入する。ドレッドノートの出現は既存の戦艦をすべて旧式艦にしてしまった。下瀬火薬は、戦艦の歴史を変えたほどの大発明だったのである。
◆日本海海戦
『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p212 )
1905(明治38年)
日本海海戦
日本の科学力が世界最強の艦隊を葬り、戦艦の歴史を変えた
日本海海戦で日本海軍は、バルト海からはるばる回航してきたロシアのバルチック艦隊相手にパーフェクトな勝利を収め、これに世界の人々は驚愕した。“奇跡”はなぜ起こったのか。
戦力については、当初の海軍の総排水量トン数はロシアの半分であった。戦艦の数と大砲の門数もロシアが上回っている。
日本は造船先進国であったイギリスから新造艦を購入していたが、その日本側のプラス面を勘定に入れても、かのバルチック艦隊相手では、せいぜいドローン・ゲームが関の山というのが戦前の予想であった。ところが、終わってみれば日本の軍艦は1隻も沈まず、バルチック艦隊はほとんど全部が沈むか、捕獲された。撃沈された戦艦6、巡洋艦5、駆逐艦5、他5、捕獲した戦艦2、駆逐艦1、他4という数字は圧倒的である。ウラジオストックまで逃げおおせた軍艦は損傷を受けた巡洋艦1隻と駆逐艦2隻だけであった。日本側の損害は水雷艇が3隻、波をかぶって転覆したのみである。これほどの完全勝利は海戦史上に類例がない。
日露戦争当時の海戦では、いかに敵艦を沈めるかが最大の目標であった。つまり、艦砲で砲弾を打ち込み、敵艦に穴を開けるということが主だったわけである。だが、つねに波に揺れている敵艦に砲弾を命中させるのは至難のわざである。また、仮に命中させたとしても、必ずしも沈没させうるわけではない。戦艦は船体に分厚い鉄板や鋼板を用いて、砲弾が貫通しないようにしているからである。装甲した戦艦を沈没させることは容易ではない。
たとえば、日本海海戦においても、東郷平八郎大将の座乗した旗艦「三笠」は敵弾を38発も受け、甲板や舷側に穴が開き、百余人の死傷者が出たが、それでも沈まずに戦いつづけている。戦艦というのは、船底を破られないかぎり、なかなか沈没しないものなのである。
だから、夜陰に乗じて水雷艇で戦艦を撃沈するとか、軍港内に停泊している艦船に向けて陸から大砲を打ち込むほうが、ずっと効率的なのだ。実際、日本海軍を苦しめた旅順艦隊を最終的に全滅させたのは、203高地から旅順港に打ち込まれた28センチ榴弾砲であった。
にもかかわらず、艦隊同士の直接対決で日本が一方的な勝利を収め得たのは、日本オリジナルの「下瀬火薬」と呼ばれる新式火薬が威力を発揮したからである。
下瀬火薬とは明治24(1891)、海軍技師の下瀬雅允(まさちか)によって発明された新型火薬である。これ以降、爆薬の歴史が変わったといっても過言ではない。この火薬が生み出す爆風の力は従来型の数倍にも達し、炸裂した砲弾のかけらは猛スピードで飛散するから殺傷力は各段に高い。さらに、気化した3千度の高熱ガスが塗装に引火して火事を引き起こした。
日本軍の砲弾が当たるたびに猛烈な爆発と火炎が起き、ロシア海軍の戦闘力はたちまち失われた。少々砲撃の狙いが外れても大損害を与えられたから、日本は圧倒的に有利であった。
加えて、伊集院(いじゅういん)五郎の開発した伊集院信管によって日本の砲弾が「魚雷式」になっていたこと、木村駿吉(しゅんきち)が開発した無線電信機器によって、「敵艦見ユ」の報がいち早く日本の連合艦隊に届いたことは、日本側に決定的な優位を与えた。海戦において実用に耐えうる電信機器を開発したのは、木村が初めてであった。陸軍の機関銃とともに、当時の日本軍がこうした画期的な“新技術”を導入したことが日露戦争の帰趨を決め、戦争の概念を一変させたのである。
世界の海軍関係者は衝撃を受けた。「装甲による防御」という考えが、下瀬火薬によって否定されてしまったからである。1906年、イギリス海軍は下瀬火薬に対抗すべく、12インチ砲10門の砲塔を備える巨大艦船「ドレッドノート」号を造りだした。これ以来、世界の海軍は“大艦巨砲時代”に突入する。ドレッドノートの出現は既存の戦艦をすべて旧式艦にしてしまった。下瀬火薬は、戦艦の歴史を変えたほどの大発明だったのである。
◆日本海海戦
『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p212 )
1905(明治38年)
日本海海戦
日本の科学力が世界最強の艦隊を葬り、戦艦の歴史を変えた
日本海海戦で日本海軍は、バルト海からはるばる回航してきたロシアのバルチック艦隊相手にパーフェクトな勝利を収め、これに世界の人々は驚愕した。“奇跡”はなぜ起こったのか。
戦力については、当初の海軍の総排水量トン数はロシアの半分であった。戦艦の数と大砲の門数もロシアが上回っている。
日本は造船先進国であったイギリスから新造艦を購入していたが、その日本側のプラス面を勘定に入れても、かのバルチック艦隊相手では、せいぜいドローン・ゲームが関の山というのが戦前の予想であった。ところが、終わってみれば日本の軍艦は1隻も沈まず、バルチック艦隊はほとんど全部が沈むか、捕獲された。撃沈された戦艦6、巡洋艦5、駆逐艦5、他5、捕獲した戦艦2、駆逐艦1、他4という数字は圧倒的である。ウラジオストックまで逃げおおせた軍艦は損傷を受けた巡洋艦1隻と駆逐艦2隻だけであった。日本側の損害は水雷艇が3隻、波をかぶって転覆したのみである。これほどの完全勝利は海戦史上に類例がない。
日露戦争当時の海戦では、いかに敵艦を沈めるかが最大の目標であった。つまり、艦砲で砲弾を打ち込み、敵艦に穴を開けるということが主だったわけである。だが、つねに波に揺れている敵艦に砲弾を命中させるのは至難のわざである。また、仮に命中させたとしても、必ずしも沈没させうるわけではない。戦艦は船体に分厚い鉄板や鋼板を用いて、砲弾が貫通しないようにしているからである。装甲した戦艦を沈没させることは容易ではない。
たとえば、日本海海戦においても、東郷平八郎大将の座乗した旗艦「三笠」は敵弾を38発も受け、甲板や舷側に穴が開き、百余人の死傷者が出たが、それでも沈まずに戦いつづけている。戦艦というのは、船底を破られないかぎり、なかなか沈没しないものなのである。
だから、夜陰に乗じて水雷艇で戦艦を撃沈するとか、軍港内に停泊している艦船に向けて陸から大砲を打ち込むほうが、ずっと効率的なのだ。実際、日本海軍を苦しめた旅順艦隊を最終的に全滅させたのは、203高地から旅順港に打ち込まれた28センチ榴弾砲であった。
にもかかわらず、艦隊同士の直接対決で日本が一方的な勝利を収め得たのは、日本オリジナルの「下瀬火薬」と呼ばれる新式火薬が威力を発揮したからである。
下瀬火薬とは明治24(1891)、海軍技師の下瀬雅允(まさちか)によって発明された新型火薬である。これ以降、爆薬の歴史が変わったといっても過言ではない。この火薬が生み出す爆風の力は従来型の数倍にも達し、炸裂した砲弾のかけらは猛スピードで飛散するから殺傷力は各段に高い。さらに、気化した3千度の高熱ガスが塗装に引火して火事を引き起こした。
日本軍の砲弾が当たるたびに猛烈な爆発と火炎が起き、ロシア海軍の戦闘力はたちまち失われた。少々砲撃の狙いが外れても大損害を与えられたから、日本は圧倒的に有利であった。
加えて、伊集院(いじゅういん)五郎の開発した伊集院信管によって日本の砲弾が「魚雷式」になっていたこと、木村駿吉(しゅんきち)が開発した無線電信機器によって、「敵艦見ユ」の報がいち早く日本の連合艦隊に届いたことは、日本側に決定的な優位を与えた。海戦において実用に耐えうる電信機器を開発したのは、木村が初めてであった。陸軍の機関銃とともに、当時の日本軍がこうした画期的な“新技術”を導入したことが日露戦争の帰趨を決め、戦争の概念を一変させたのである。
世界の海軍関係者は衝撃を受けた。「装甲による防御」という考えが、下瀬火薬によって否定されてしまったからである。1906年、イギリス海軍は下瀬火薬に対抗すべく、12インチ砲10門の砲塔を備える巨大艦船「ドレッドノート」号を造りだした。これ以来、世界の海軍は“大艦巨砲時代”に突入する。ドレッドノートの出現は既存の戦艦をすべて旧式艦にしてしまった。下瀬火薬は、戦艦の歴史を変えたほどの大発明だったのである。