帰ったら、平野さんの『マチネの終わりに』を早速読むつもりです。

ヴァイオリン。

喉風邪を養生すべく一日しごと休みを頂いたけふ。昼間、鬼子母神前の、落語の好楽師匠のお嬢さんがやられている美味なたい焼き屋さんでお土産を設え、久々に池袋ジュンク堂へ。短歌ご担当のTさんにご挨拶してしばし読書を話題に雑談。毎日新聞連載終了後に〈マチ・ロス〉のひとが続出したという平野啓一郎さんの小説『マチネの終わりに』の話で盛り上がる。そのあと、音楽棚へ行き、小野光子氏の『武満徹 ある作曲家の肖像』(音楽之友社)をじっくり立ち読み。夕方、家に帰ると、ポストに歌誌『塔』11月号。たまたま付録の会員住所録をぱらぱら見ていると、平日歌会でご一緒のYさんがじつは私の実家近くにお住まいとわかりびっくり。ふだんの歌会では滅多に住まいの話題など出ないので、知らないことが多いなとあらためて思う。ちなみに、今回、連作〈多胡兵衛厠〉を出していたが、三井先生の選歌欄で半分ほどのうたが救われていた。以下は、投稿した9首。
宇宙駅三十八階の厠にあり〈多胡兵衛厠〉の木製看板
草原の古井戸の傍らに自転車一台 三十八年間置かれたるまま
〈赤紙〉に集合場所は〈古井戸〉とあり 髪の長き番人が棲む
草原の古井戸のありたる辺りとふ 宇宙駅三十八階〈多胡兵衛厠〉
〈多胡兵衛厠〉の奥から三十八番目の個室には髪の長き番人が棲む
宇宙駅にその朝も見送りの群れはあり 日章旗振りて〈万歳〉叫びて
群れの後ろに無表情の顔してそつと佇つ その朝も髪の長き番人は
髪の長き番人は全てを知つてゐるらし もそもそイワシサンドを食(は)みて
〈多胡兵衛厠〉の木製看板に夕日当たる頃〈番人〉ゆつくり便座から立つ
今朝の短歌メモから。
クロワッサン抱へてロサ会館の角曲がれば〈猫〉は陀羅尼を誦してをりたり
ハイドンの最後のシンフォニー聴くわれの背中に〈マリア〉は乗つかつて来ぬ
何の為に生くるか、と洪水引きたる河原へ降り立ちラーメンに湯を注ぐ犬
秋の銀河のふぶける辺りにポスト立つとふ 郵便車は今宵もホームにありて
私が死んでしまへばこの秋の谷中の蛙に挨拶するひとなし
茹でられてしまつたけれどまだ時刻む石川五右衛門の遺愛の時計
昨日の朝。
しごとのあと。日本医大の近くの路上で、愛犬と散歩中の定食屋〈お食事処さわ〉さんのおかみさんに偶々ばったりお会いしいろいろ料理のお話をするなか、今日は日曜で本当はお休みの日ながら、〈今日は気まぐれでお店を開けますよ〉と言われて、四十年来の名物メニュー豚の角煮定食を頂けることに。
「たかが豚の角煮と謂うなかれ。されど豚の角煮である。すべての宇宙がそこには包含されている。ひとくちそれを頬張れば、ホロホロとほどけて蕩けてゆく口の中でビッグバンが始まって、たちまち数多の銀河ができあがり、それらは結ばれ弾けて、至福の一瞬、脳裡で鮮烈に輝き出す。百聞は一見に如かず。なにはともあれご賞味あれ。」などと、開高さんがお元気だったらあるいはお書きになったかもしれない。口のなかでホロホロほどけて蕩けていった後にジンワリ深みのある滋味が広がる、根津の〈さわ〉さんの豚の角煮定食。絶品でした。ご馳走さまでした。
今朝、しごとに出掛ける前に、グレツキの第三交響曲〈悲歌のシンフォニー〉を聴きながら、以前から書き進めて目下停滞しているオルサブローの物語の検問所の次の場面の様子が胸に浮かんだ。アシジのフランチェスコのような修道士のいる修道院の朝の光景。その修道士はひっそりこつこつとたくさんの交響曲の譜面を書き溜めているのだ。。
〈町〉へのただ一つの入り口の検問所脇の側溝に秋のある夕方、薄汚れた犬が死んでいたことがあった。その事実は、大きめのぶかぶかな毛糸靴下を履いて就寝しようとしていたメゲネル検問所長のもとにすぐに伝えられ、裁判所へも速やかに報告されたが、酒精で脂ぎった不夜城のごときお歴々の集う〈町〉の裁判所は案の定その犬が〈町〉に入ろうとしていたのか〈町〉から出ようとしていたのかを朝までおいてはおかれぬ大問題とし、検問所長に事実を直ちに判事の前で詳細に説明せよと出頭命令を下したので、犬の第一発見者たる検問所三等係官オルサブローはその夜のうちに寝室兼書斎代わりの家の物置から検問所に呼び出され、検問所事務棟の木製扉脇の壁に自転車を立て掛けた。検問所事務棟は其々の窓の大きく取られた石造りの三階建てで、一階の当直室の灯りと、三階の所長室の灯りが、煌々と外に洩れていた。
制服のオルサブローは幾分俯きながら木製扉の前に立ち、「こんばんは。当直お疲れさまです。オルサブローです。」と軽く三回ほどノックをした。すると、しずかに扉が開いて、検問官の制服に身を包んだやや小柄な少女が顔を出した。それと一緒に外へハーブティーのよい香りがこぼれてきた。「オルサブローさん、たいへんなことになって。とにかく中へお入りくださいな。」彼女は、その夜の深夜当直の三等係官アスフィータだった。オルサブローは、アスフィータに軽く微笑みながら「アスフィータさん、君にもいろいろと心配をかけて済まない。それで、所長はもう部屋に来られているのですか?」と尋ねた。「はい、つい先程部屋に入られました。所長ったら、『〈町〉の裁判所の能天気な奴らと来たらまったく』とぶつぶつこぼしていましたよ。」アスフィータが所長の口真似をすると、オルサブローは思わず吹き出し、アスフィータもくすりと笑った。「ありがとう。では、所長のところへ行ってきます。」オルサブローは、当直室奥の階段を急いで駆け上がって行った。
その翌朝のことである。〈町〉を取り囲むように広がる森の中のこじんまりとした修道院では、たいへん豪勢で荘重なオルガンがひとしきり鳴り響いて朝の礼拝が行われたところだった。オルガンが止むと、小柄で初老の修道士がひとり聖堂の扉を開けて出て来て、辺りを見渡し優しく微笑んだ。聖堂の前の木々にはたくさんの小鳥たちが思い思いに枝へ留まって歌をうたっていた。
〈町〉へのただ一つの入り口の検問所脇の側溝に秋のある夕方、薄汚れた犬が死んでいたことがあった。その事実は、大きめのぶかぶかな毛糸靴下を履いて就寝しようとしていたメゲネル検問所長のもとにすぐに伝えられ、裁判所へも速やかに報告されたが、酒精で脂ぎった不夜城のごときお歴々の集う〈町〉の裁判所は案の定その犬が〈町〉に入ろうとしていたのか〈町〉から出ようとしていたのかを朝までおいてはおかれぬ大問題とし、検問所長に事実を直ちに判事の前で詳細に説明せよと出頭命令を下したので、犬の第一発見者たる検問所三等係官オルサブローはその夜のうちに寝室兼書斎代わりの家の物置から検問所に呼び出され、検問所事務棟の木製扉脇の壁に自転車を立て掛けた。検問所事務棟は其々の窓の大きく取られた石造りの三階建てで、一階の当直室の灯りと、三階の所長室の灯りが、煌々と外に洩れていた。
制服のオルサブローは幾分俯きながら木製扉の前に立ち、「こんばんは。当直お疲れさまです。オルサブローです。」と軽く三回ほどノックをした。すると、しずかに扉が開いて、検問官の制服に身を包んだやや小柄な少女が顔を出した。それと一緒に外へハーブティーのよい香りがこぼれてきた。「オルサブローさん、たいへんなことになって。とにかく中へお入りくださいな。」彼女は、その夜の深夜当直の三等係官アスフィータだった。オルサブローは、アスフィータに軽く微笑みながら「アスフィータさん、君にもいろいろと心配をかけて済まない。それで、所長はもう部屋に来られているのですか?」と尋ねた。「はい、つい先程部屋に入られました。所長ったら、『〈町〉の裁判所の能天気な奴らと来たらまったく』とぶつぶつこぼしていましたよ。」アスフィータが所長の口真似をすると、オルサブローは思わず吹き出し、アスフィータもくすりと笑った。「ありがとう。では、所長のところへ行ってきます。」オルサブローは、当直室奥の階段を急いで駆け上がって行った。
その翌朝のことである。〈町〉を取り囲むように広がる森の中のこじんまりとした修道院では、たいへん豪勢で荘重なオルガンがひとしきり鳴り響いて朝の礼拝が行われたところだった。オルガンが止むと、小柄で初老の修道士がひとり聖堂の扉を開けて出て来て、辺りを見渡し優しく微笑んだ。聖堂の前の木々にはたくさんの小鳥たちが思い思いに枝へ留まって歌をうたっていた。
一昨日の夜、しごとのあとで久しぶりに実家へ帰った。その前夜、深夜遅くに母からメールが来た。独り暮らしの母の家の呼び鈴を唐突に鳴らしドアを叩きドアノブをがちゃがちゃ回した酔っ払いが居たらしい。それがひどく母を怖がらせた。また来たら怖い、と母は書いてきた。しごと休みを頂いた昨日は、久しぶりに母と紅葉を愛でながら、元気だった頃の父ともよく歩いた、子ども時代に暮らした辺りの懐かしい道を巡った。 母校の小学校は無くなったし、野っぱらに新しい道のつけられていたところもあったけれども、甘酸っぱい懐かしい気持ちが溢れてきた。不思議な感じだった。
今朝の空。
ヴァイオリニスト、ワディム・グルズマン氏の使用しているストラディバリウスは、かつての名ヴァイオリニスト、レオポルド・アウアーが所有し愛奏していた楽器との由。ということは、そのヴァイオリンの音色は、チャイコフスキーがあの素晴らしい〈ヴァイオリン協奏曲ニ長調〉を書いたときに頭の中で思い描いた音色であり、グラズノフが名曲〈ヴァイオリン協奏曲イ短調〉を書いたときに想像した音色、ということになる。グルズマン氏によるチャイコフスキーやグラズノフのヴァイオリン演奏を聴きながら彼ら作曲家の頭の中をいろいろ想像してみるのも面白い。
レオポルド・アウアーの弾く、チャイコフスキー作曲『メロディ』