カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

慶應4年。

2024-03-19 07:20:13 | Weblog
慶應4年1月3日、鳥羽伏見の戦い。鳥羽、伏見で旧幕府軍と新政府軍が交戦。旧幕府軍が敗退。1月8日、徳川慶喜、大阪城を出て江戸に戻る。1月11 日、神戸事件。岡山藩兵、神戸でフランス人を殺傷。

その頃、幕府内での政争に敗れ、要職を降りて駿河台の屋敷にいた小栗忠順のもとをさまざまな人物が訪ねていたようだ。『小栗日記』慶應4年1月17日(1868年2月10日)分より。

17日 寅 天気能
(中略)
一、大鳥啓助(圭介)来ル、逢申候
一、古屋昨(佐久)左衛門・松濤権之丞来ル、於中奥逢申候
一、由井図書来ル、於奥逢申候
(後略)

面会場所が玄関先か〈中奥〉か〈奥〉かは、用向き、話の内容で小栗がその都度判断区別していたらしい。

松濤権之丞は、池田使節団の一員としてフランスから帰国した後、富士見御宝蔵番格・騎兵差図役下役、同砲兵差図役並勤方を経て、小十人格・軍艦役並となり、慶応3年(1867年)11月に古屋佐久左衛門とともに海軍伝習所通弁掛になった。その後、松濤は勝海舟配下に入り、軍事方となって恭順工作に従事。小栗忠順とは以前から面識があったと思われるが、松濤が友人古屋を伴って小栗を訪ねた用向きは、勝海舟の意向をうけたものだったかそうでなかったかは判らぬ。ただ中奥での話だったことから推察するに、それなりに重たい話だったようだ。そして、それから3ヶ月余りを経た慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)、小栗忠順と松濤権之丞とは別々の場所で同じ日に奇しくも落命。小栗は群馬県の処刑場で、松濤は恭順工作で訪れた千葉県の姉ヶ崎で。運命の皮肉というかなんというか、実にいろいろ考えさせられる。

以上、取り敢えずのメモ。
それぞれの墓所。


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