本からの引用メモです。。。
吉川宏志著『風景と実感』(青磁社、2008年1月刊)12―13ページより。
(詩や歌を読む行為は)クラシック音楽を演奏する行為とも似ているのかもしれない。たとえばピアニストは、バッハの残した楽譜(音符という<記号>で書かれたテクスト)に合わせて、自らの指を動かしてピアノを弾く。そのとき演奏者は、楽譜を通して、バッハの身体の動きをなぞっていることになる。死者であるバッハの身体の動きを蘇らせることによって、演奏者はバッハと<対話>しているのである。
楽譜には、作曲者のイメージの十分の一ぐらいしか書くことができない、という話を聞いたことがある。作者が<記号>で表現できるのは、省略を重ねたほんのわずかな部分だけなのである。
けれども、その<記号>をじっくりと読み込むことにより、作者の身体感覚を、読者の身体のなかで蘇らせることができる。作者の声を、読者の心の中にリアルに響かせることができるのだ。それが「読む」という行為の本質なのではないだろうか。
吉川宏志著『風景と実感』(青磁社、2008年1月刊)12―13ページより。
(詩や歌を読む行為は)クラシック音楽を演奏する行為とも似ているのかもしれない。たとえばピアニストは、バッハの残した楽譜(音符という<記号>で書かれたテクスト)に合わせて、自らの指を動かしてピアノを弾く。そのとき演奏者は、楽譜を通して、バッハの身体の動きをなぞっていることになる。死者であるバッハの身体の動きを蘇らせることによって、演奏者はバッハと<対話>しているのである。
楽譜には、作曲者のイメージの十分の一ぐらいしか書くことができない、という話を聞いたことがある。作者が<記号>で表現できるのは、省略を重ねたほんのわずかな部分だけなのである。
けれども、その<記号>をじっくりと読み込むことにより、作者の身体感覚を、読者の身体のなかで蘇らせることができる。作者の声を、読者の心の中にリアルに響かせることができるのだ。それが「読む」という行為の本質なのではないだろうか。