カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

『松村禎三句集 旱夫抄』

2008-07-10 19:57:03 | Weblog
『松村禎三句集 旱夫抄』(平成3年新版・深夜叢書社)所収の文章から、メモです。。。

 *****

松村禎三『作句ノート』より。

 (前略)
 寺山修司とは三十五年前、「氷海」に共に投句していて知り合った。お互いに句作から遠ざかっていたが、彼の最晩年に、一緒に同人誌を作り、再び句作をはじめるべく約束する機を得た。しかし彼は果たさずして逝った。前年の暮「天井桟敷」の餅つき大会に誘われて行った。腹水で大きくなった腹を抱えるようにして、尚かつ紺の背広で盛装して、狭い事務所の奥の寝椅子で彼は迎えてくれた。肝臓がもう駄目だと彼は言った。死をどう思うかと訊いたら、この世に未練があると言った。その言葉の正確さに私は撃たれた。(了)

 *****

松村禎三『後記』より。

 (前略)
 私は作曲を志して昭和二十四年に京都から東京へ出てきた。翌二十五年東京藝術大学受験の時に身体検査で両肺結核と判定され、入学試験を落ちた。当時肺結核は必ず死に至る病であった。きくところによると、及落判定会議で担当医師が、彼はこの儘入学させても二年ももたないであろうと言ったそうである。絶望して東京の郊外の清瀬村の療養所へ入る時、作曲の師である池内友次郎先生から大きな慰めと励ましを頂き、療養しながら俳句を始めるようにとのおすすめを頂いた。
 (後略)
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松村禎三氏と高安国世先生

2008-07-10 13:59:47 | Weblog
 メモです。。。

沼野雄司氏による「松村禎三・生涯と作品の概観」(松村禎三『交響曲第1番』<音楽之友社版ポケットスコア>の巻頭)より。

 (前略)
 終戦の年に旧制三高の理科甲類に入学。自由な校風から、様々な知的刺激を受ける(一年先輩には後に文芸評論家として活躍する粟津則雄がいた)。三高では数学研究を志す一方で音楽部に属し、さらには個人的にピアノを高橋恒冶に、和声を長廣敏雄に師事。本格的に作曲家への道を志すことになる。
 1949年、20歳の年に三高を卒業すると、作曲家を目指すために上京。(中略)
 東京では世田谷のゆかり幼稚園に寄宿し、池内友次郎に作曲を師事。東京芸大を受験するが、結核が発覚したために最終試験で落とされてしまう。結局、21歳から26歳末までの五年間、彼は肋骨を何本も切除するという辛い手術に耐えながら、死と隣り合わせの生活を送ることになったのだった。この入院中には、師の池内や闘病仲間の影響から句作を始め、旱夫(ヒデリオ)の号でものした俳句で第一回氷海賞を得ている。
 (後略)

 *****

木村草弥氏の2007/01/22のBlog記事:
「かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり 高安国世」
http://www.doblog.com/weblog/myblog/4950/2618226#2618226

 (前略)
高安国世先生は旧制高校の頃は第三高等学校の教授であり、新制大学になって三高は京都大学吉田分校になり、教養課程を担当されていた。三高出身の連中に聞くと、教室では短歌の話を、よくされたという。
 (後略)
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