『松村禎三句集 旱夫抄』(平成3年新版・深夜叢書社)所収の文章から、メモです。。。
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松村禎三『作句ノート』より。
(前略)
寺山修司とは三十五年前、「氷海」に共に投句していて知り合った。お互いに句作から遠ざかっていたが、彼の最晩年に、一緒に同人誌を作り、再び句作をはじめるべく約束する機を得た。しかし彼は果たさずして逝った。前年の暮「天井桟敷」の餅つき大会に誘われて行った。腹水で大きくなった腹を抱えるようにして、尚かつ紺の背広で盛装して、狭い事務所の奥の寝椅子で彼は迎えてくれた。肝臓がもう駄目だと彼は言った。死をどう思うかと訊いたら、この世に未練があると言った。その言葉の正確さに私は撃たれた。(了)
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松村禎三『後記』より。
(前略)
私は作曲を志して昭和二十四年に京都から東京へ出てきた。翌二十五年東京藝術大学受験の時に身体検査で両肺結核と判定され、入学試験を落ちた。当時肺結核は必ず死に至る病であった。きくところによると、及落判定会議で担当医師が、彼はこの儘入学させても二年ももたないであろうと言ったそうである。絶望して東京の郊外の清瀬村の療養所へ入る時、作曲の師である池内友次郎先生から大きな慰めと励ましを頂き、療養しながら俳句を始めるようにとのおすすめを頂いた。
(後略)
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松村禎三『作句ノート』より。
(前略)
寺山修司とは三十五年前、「氷海」に共に投句していて知り合った。お互いに句作から遠ざかっていたが、彼の最晩年に、一緒に同人誌を作り、再び句作をはじめるべく約束する機を得た。しかし彼は果たさずして逝った。前年の暮「天井桟敷」の餅つき大会に誘われて行った。腹水で大きくなった腹を抱えるようにして、尚かつ紺の背広で盛装して、狭い事務所の奥の寝椅子で彼は迎えてくれた。肝臓がもう駄目だと彼は言った。死をどう思うかと訊いたら、この世に未練があると言った。その言葉の正確さに私は撃たれた。(了)
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松村禎三『後記』より。
(前略)
私は作曲を志して昭和二十四年に京都から東京へ出てきた。翌二十五年東京藝術大学受験の時に身体検査で両肺結核と判定され、入学試験を落ちた。当時肺結核は必ず死に至る病であった。きくところによると、及落判定会議で担当医師が、彼はこの儘入学させても二年ももたないであろうと言ったそうである。絶望して東京の郊外の清瀬村の療養所へ入る時、作曲の師である池内友次郎先生から大きな慰めと励ましを頂き、療養しながら俳句を始めるようにとのおすすめを頂いた。
(後略)