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映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

花宵道中

2014年11月17日 | 邦画(14年)
 『花宵道中』をテアトル新宿で見ました。

(1)本年の東京国際映画祭の特別招待作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「ただひたすら男に抱かれ続けた、そんな風にしていたら、生きることの道筋さえも見失ってしまった、そんな道もないところには花も咲かない」などといった主人公の遊女・朝霧安達祐実)のモノローグが流れる中で、妓楼・山田屋(注2)の部屋で客をとる朝霧と、祭りの雑踏の中で倒れる朝霧が描かれます。

 雑踏の中で倒れた拍子に朝霧は、片方の下駄をなくしてしまい途方に暮れていると、若い男が朝霧を抱きかかえて「大丈夫か?怪我はなかったか?」と声をかけてくれます。



 さらに、朝霧が「下駄をなくしまって」と言うと、その男は下駄を探し出し、朝霧に履かせてくれます。
 その男は、「この下駄の鼻緒は俺が染めた」といいますし、また朝霧の手の傷口を吸ってくれたりもするのです。

 郭で間夫を持つことは厳禁とされていて、朝霧もこれまでそんなことはしてこなかったのですが、そんな男・半次郎渕上泰史)に恋心を抱いてしまいます(注3)。
 さあ、どうなることでしょうか、………?

 本作については、吉原の遊女に関しこれまで映画等で作り上げられてきた定型的なものを一歩も出ていない作品内容だなという感じがし(注4)、取り柄は主演の安達祐実(注5)のヌードシーンだけのようにしか思えなかったため、彼女のファンでもない者にとっては100分が随分と長く感じられました。

(2)本作の原作は、宮木あや子氏の短編「花宵道中」(新潮文庫『花宵道中』に所収:注6)ですが、原作の短編と本作とで違いはそれほど見受けられません。

 と言っても、例えば、原作では半次郎は「縛り首」になったとされているところ(文庫版P.45)、本作では「打首」とされています(注7)。
 また、八幡様の祭りの際に半次郎が探してくれたのは、原作では「草履」となっていますが(文庫版P.14)、本作では「下駄」(注8)。

 さらに、本作では、半次郎の姉が朝霧の姉女郎の霧里高岡早紀)であり、朝霧を身請けするのが吉田屋津田寛治)だとされているところ、原作ではそのようには書かれておりません(注9)。

 そして、一番異なるのは、主人公の設定なのかもしれません。
 というのも、原作では、「あたしは不器量だから、そのままじゃ売れないってんで姉さんは意地んなって三味も踊りも唄も仕込んで、内八文字の踏み方まで教えてくれた」と朝霧が半次郎に語りますが(注10)、本作では、その朝霧を安達祐実が演じているのです!

 でも、そんなことよりなにより、映画は映画なりに、もう少し斬新な視点で吉原の遊女を描いてほしいものだなと思いました。

(3)外山真也氏は、「あまりにも説明的なフラッシュバックの挿入に至っては、柔軟さが裏目に出た残念な結果と思えなくもないが」としつつも、「安定した演出と確かな語り口、何より安達祐実の女優魂によって、見応えのある吉原花魁映画に仕上がっている」として★4つ(5つのうち)をつけています。



(注1)監督は、『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』の豊島圭介

(注2)天保8年(1837年)の吉原大火で吉原遊郭が焼けてしまい、原作によれば、山田屋は深川の富岡八幡宮の近くで仮宅を設けて営業しています(文庫版P.10)。

(注3)朝霧は誰も見ていないと思っていましたが、本作のラストによれば、妹女郎の八津小篠恵奈)が密かに見ていたようです。

(注4)本作は、劇場用パンフレット掲載の「Key Words」において、「水揚げ」とか「身請け」それに「気を遣る」といった用語を説明する必要がある観客を対象にしているので、定型的なものになってしまうのも仕方がないのかもしれませんが(「気を遣る」について、「男女が睦み合ったときに、達すること」と解説されていますが、「達する」に関するデジタル大辞泉のこの内容では、解説の意味することかわからないでしょう!)。

(注5)安達祐実が出演する作品は、最近見たことがありませんが、映画主演は約20年ぶりだそうですし、さらに今年は芸能生活30周年の節目でもあるそうです(この記事)。
 なお、半次郎役の渕上泰史は『共喰い』に出演していたようですが印象に残っておりません。また、朝霧の妹女郎・八津役の小篠恵奈は『ももいろそらを』などで見ています。
 さらに、山田屋の女将役の友近は『地獄でなぜ悪い』で、吉田屋役の津田寛治は『恋の罪』などで見ています。

(注6)文庫版は、連作短編小説が6つ集められたものとなっており、「花宵道中」はその第1編目。
 また、短編「花宵道中」は新潮社の「女による女のためのR-18文学賞」の第5回を受賞。
 なお、同賞は、第10回までは「女性が書く、性をテーマにした小説」をテーマとしてきたところ、第11回以降は「女性ならではの感性を生かした小説」とテーマを拡大しているようです。
 ちなみに、第8回の同賞を受賞した短編「ミクマリ」を所収する『ふがいない僕は空を見た』が映画化されています(この拙エントリをご覧ください)。

(注7)江戸時代における町人に対する死刑は、このサイトの記事によれば、6種類ありますが、「縛り首」はなかったようです。
 原作のコミック版(漫画・斉木久美子、コミック小学館ブックス)でも「縛り首」とされていますが、あるいは、文庫版の解説を書いている巌本野ばら氏が言うように、「(原作者の)宮本あや子氏自身、歴史にさほど詳しくないから」なのかもしれません(P.370)!

(注8)上記「注7」で触れたコミック版でも「草履」です。
 さらには、雑誌『シナリオ』12月号掲載のシナリオにおいても、一貫して「草履」となっているにもかかわらず、本作では「下駄」が使われます(劇場用パンフレット掲載のエッセイ「朝霧の“足”に主眼を置いた、「赤い糸の契り」の物語」において、轟夕起夫氏も、「原作では下駄ではなく草履なのだが」と述べているところです)。

(注9)尤も、新潮文庫『花宵道中』所収の「青花牡丹」では、朝霧の姉女郎の霧里と半次郎が姉弟であるばかりか、なんと吉田屋の子供だとされているのです!
 本作において、半次郎が吉田屋を殺すまでに至る理由をはっきりと描くために、他の短編の話しをもってきたのでしょうが、いくらなんでも霧里と半次郎が吉田屋の子供だったという設定まで映画に取り入れることができなかったのでしょう!
 ただ、本作では、吉田屋の策略により半次郎は吉田屋の遠縁筋の娘と祝言を挙げることになっていますが、これは、原作の「青花牡丹」で、東雲と言っていた半次郎が絹問屋の娘と結婚したこと(文庫版P.150)を映画に取り入れたものではないかと思われます。
 でも、ここらあたりは、原作にしても本作にしても、ご都合主義が過ぎているような感じがしてしまいます。

(注10)他にも、例えば、「ごめんね姉さん、あたしがもっと綺麗だったら。朝霧は申し訳なさそうに謝っていた」などとあります(文庫版P.133)。
 また、上記「注7」で触れたコミック版でも、朝霧は「そりゃあたしは綺麗じゃないし…/化粧してねぇ顔なんざ しおれてしぼんだ朝顔みたいだしよ…」と独り言を言います。



★★☆☆☆☆



象のロケット:花宵道中


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2 コメント

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こんばんは (maki)
2015-08-27 21:39:12
おっしゃるとおり、いかにも吉原然とした話を
そつなく描いただけの話で、
話題性は安達さんのヌード、それだけでしたね
安達さんはそつなく演じられていましたが、それも
「ガラスの仮面」のマヤを演じていた当時を思い起させるような「演技です」で、彼女の新境地とも言えず…と言う感じでした
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Unknown (クマネズミ)
2015-08-28 05:52:16
「maki」さん、わざわざこちらにもコメントをいただき有り難うございます。
安達祐実を殆どフォローしておりませんので、正直、どうしてこういう作品が公開されるのかな、と思ってしまいました。
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