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吉本隆明の経済学

2014年11月03日 | 
(1)先日の拙エントリで取り上げました小林徹氏の著書『経験と出来事 メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体の哲学』(水声社)を読んでいましたら、その第4章で「〔ドゥルーズによれば〕命題のシステムは、「指示」「表示」「意義」という三つの言語的機能によって制御され、「言語が意味を持つ」という事態を成立させている」という文章に遭遇しました(同書P.77)(注1)。
 するとここでもまた、そのエントリの(4)で申し述べたのと同じような酷く手前勝手な連想が沸き起こりました。すなわち、吉本隆明著『言語にとって美とはなにか』(注2)に登場する「指示表出」と「自己表出」です。

 言うまでもなく、小林氏の著書で取り上げられている事柄は3項で吉本隆明のは2項であって、両者で形は異なるわけですが(注3)、こうしたいい加減な思い付きも小林氏の著書を読む一つの取っ掛かりになるのではと考えました。

(2)しかしながら、吉本隆明の著書はかなり古い時期に書かれたものであり、加えて彼自身2年前に亡くなったことでもあり、いまさらそんなことを指摘するまでもないと思い、同エントリでは書くことを控えました。
 そうしたところ、丁度先月中旬に、中沢新一氏の手になる『吉本隆明の経済学』(筑摩選書:以下、「本書」とします)が刊行されたことを知りました。書店でどんな内容なのだろうと思って覗いてみたら、その第1部の第1章から第3章において、「指示表出」とか「自己表出」といった吉本用語が処々に散見されるではありませんか(注4)!
 早速、ザッとですが読んでみました(注5)。

(3)本書でクマネズミが興味を持ったのは、例えば次のようなところです。
 「言語は、自己表出指示表出というふたつの表出からできています(注6)。そして、潜在化した指示表出を通った自己表出が言語の価値です。それはまさに、マルクスが交換価値が要するに価値なのだといっているのとおなじことで、自己表出が価値なんです」(P.61)。

 「ぼくは『言語にとって美とはなにか』の言語概念をどこから作ったかといいますと、〔ソシュールと〕おなじくマルクスの『資本論』から作りました。……そして、ぼくはどこに着目したかというと、「使用価値」という概念が、言語における指示性(物を指す作用)、それから「交換価値」という概念が、「貨幣」と同じで、万人の意識あるいは内面の中に共通にある働きかけの表現(自己表出)に該当するだろうとかんがえたんです。言語における「指示表出」と「自己表出」という概念を、「商品」が「使用価値」と「交換価値」の二重性を持つというところで、対立関係をかんがえて表現の展開を作っていきました」(P.87)。

 これらからすると、吉本隆明がマルクスの議論を鵜呑みにしているように見えますが、決してそうではなく、例えば、マルクスの価値論は「ちょっと息苦し」く、「娯楽とか芸能とか遊びとかも、手を加えた価値化に包括したらいい、とぼくはおもいます。そうすれば価値論も息苦しくなくなるのではないか、ということです」(P.60)と述べたりしています。

(4)その話も興味深いことではありますが、ここでは、冒頭で触れた小林氏の著書との関連で、別の点を取り上げたいと思います。

 吉本隆明は、マルクスの価値論について、ほかに「マルクスの「労働価値」概念と、実際に具体的な現実の市場での商品の価格とのつながりがうまくいかないという批判のされ方もあります」と述べています(P.91)。
 いわゆる「転形問題」でしょう。

 この問題は、Wikipediaで言われているように、マルクスの『資本論』第1巻の冒頭の価値論では、労働価値ではなく生産価格が取り扱われているのだとみなせば、もしかしたら「最終的に、擬似問題(pseudo problem)として決着」しているかもしれません。
 ですが、吉本隆明は本書において、ワルラスが「交換価値という現象は市場において生ずるもの」と述べていることに対して、それは「マルクスの(労働)価値イコール交換価値として商品に内在するという考えを意識して、それに異をたてるためになされた規定だといっていい」が(P.119)、ワルラスは「労働価値説の批判に深入りできなかった」と述べて(P.122)、マルクスの労働価値説を高く評価しています。
 ただそうなると、また振り出しに戻ってしまい、「転形問題」をどう解決するのだ、ということになってしまいます(注7)。

(5)そして、この問題は、吉本隆明の言語論にもつきまとってくるのでは、と思います。
 というのも、マルクスが、商品の価値を交換価値(=労働価値)に見出しているのと同様に、彼は言語の価値を自己表出に見出し、前者が数量的に比較できるのに対応して(注8)、後者も比較可能と考えているようです。
 というのも彼は、「Aという作品とBという作品は、どちらが文学的な価値があると決められる文学理論、文学の考え方を作りたくて、『言語にとって美とはなにか』を書き」、「内在的に内側から決められる価値概念で、言葉の価値を決められれば、文学としてこっちの方は価値があるけれども、こっちの方は価値がないと言えるはずだという考え方を展開していきました」と述べていますから(P.36~P.37)(注9)。

 要するに、商品に内在する労働価値と同じように、言語には何か「言語の価値」といった実体的な共通するものが内在していて比較できるのだ、ということではないでしょうか?
 でも、クマネズミには、ワルラスに従って、商品に労働価値など内在せず、あるのはただ市場の需要と供給で決まる価格のみであり、同様に、言語の場合であっても、予め言語の価値などというものが存在するわけでなく、あるのは単に他人とのコミュニケーションだけなのではないか、と思えます。

(6)ここで小林氏の著書です。
 小林氏が、その『経験と出来事 メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体の哲学』の中で次のように述べる点こそが、ここでの問題の要の点なのではと思えるところです。すなわち、
 「言語とは本質的に、われわれを他者との交流の内に全面的に投げ込む運動なのである。「語る主体」はそれゆえ、自由であるからといって個々別々に孤立した存在者ではなく、何よりもまず共存的意識であり、相互主体性なのである。何事か語るべきものが心中に芽生えるとき、われわれはすでに他者と共にあり、「語る主体」として、言語という運動体の内部に組み込まれているのだ」(同書P.47)。
 「言語には他者の存在が絡み合っている。私と他者との間に何らかの関係が結ばれていない場所には、言葉が生じることはない。誰しもひとりで言葉を発することはできない。たとえ、独り言の場合であっても、私は私に語りかけているのであり、そこには自己と自己との関係がある。しかしこのような関係は、言語活動に先立って決定されているわけではない。むしろ我々は、語ることによってこの関係を直接的に生きることによってのみ、それを確証するのである」(同)。

 マルクスの労働価値説では、市場で当該商品を他者と取引するという観点が後ろに退いてしまっているように見えるのと同様に、吉本隆明の言語論においても、コミュニケーションの場において他者と語るという視点が見えにくくなっているように思えてしかたがないところです(注10)。



(注1)ここの部分は、ドゥルーズ著『意味の論理学』(小泉義之訳:河出文庫)の「第3セリー 命題」に対応しているでしょう。
 なお、小林氏に従ってもう少し言えば、「まず言語は語によって事物を「指示」する」。また、「語が「意味」を持つためには、「「語る主体」が必要であ」り、命題は「「語る主体」の思考を「表示」する」。「この機能においては、(「指示」のように)真偽の区別ではなく、主観的な誠実さあるいは欺瞞が問題となる」。そして最後に、「命題は自らを他の命題へと差し向ける「意義」の機能を持っている」のであり、「命題間の意義的関係を支えるのは、……論証が論理学的な価値を持ちうるための真理条件である」(同書P.77)。

(注2)現在、角川ソフィア文庫版で読めますが、単行本(勁草書房刊)は1965年の発行です。

(注3)尤も、『言語にとって美とはなにか』においては、言語に関してさらに、「意味」〔「意識の指示表出からみられた言語の全体の関係」(文庫版P.89)〕、「価値」〔「意識の自己表出からみられた言語の全体の関係」(同P.102)〕、それに「」〔「言語の指示表出と自己表出の交錯した縫目にうみだされる」(同P.116)〕という3つの概念もまた提起されていますから、小林氏の著書で取り上げられている3項に対応するのは、吉本隆明の場合5項だと言えるかもしれません〔ただ、後の3項(「意味」「価値」「像」)はいずれも前の2項(「指示表出」「自己表出」)がらみのものですから、やはり2項というべきかもしれません〕!

(注4)前のエントリで申し上げたように、映画『幻肢』を見たのと小林氏の『経験と出来事 メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体の哲学』を書店で目にしたのが同時期でしたが、まさに同じようなシンクロニシティを今回も感じたところです。

(注5)本書は、吉本隆明の数多い著作の中から12の講演(8)・論考(4)を選び出した上で中沢氏が解説を加えたものを第1部(「吉本隆明の経済学」)とし、中沢氏の論考(「経済の私的構造」)を第2部とするという構成をとっています。
 全体が380ページと大部でありながら、講演録が多いこともあって、吉本隆明関係の著作としては随分と読みやすいように思います。

(注6)本書のP.17では、「言葉は〈指し示し〉〈伝える〉という機能を実現するのに、いつも〈指し示さない〉〈伝えない〉という別の機能の側面を発揮する」とされ、さらには、P.34では、「指示表出というふうに何かを指す使い方と、自己表出という、自分の持っている表現性の元になっているものに対する表現の仕方」とされています。

(注7)最近刊行された『若者よマルクスを読もうⅡ 蘇るマルクス』(内田樹・石川康宏著、かもがわ出版、2014.9)でも、マルクスが、その著『賃金、価格および利潤』において、「市場価格は需要と供給のバランスにより価値(その生産に必要な相対的労働量)を中心に変動する、といった価値論の基本点を解説」しているとして(同書P.166)、価格と労働価値との関係について、まるで何の問題もないかのように述べられているところです〔「市場価格は需要と供給のバランスにより価値(その生産に必要な相対的労働量)を中心に変動する」などということが現実に起きているのでしょうか?〕。

(注8)本書のP.31では「労働時間の大小で価値が決まるという価値論の基本」と述べられています。

(注9)『言語にとって美とはなにか』では、例えば、「A わたしの表皮は旱魃の土地よりも堅くこわばり」と「B わたしの表皮は堅くこわばり」という二つの文章を比較し、「Aではひびわれた土地の像(イメージ)に表皮が連合されて、それだけ自己表出とそれにともなう像の指示性は影響され、つよめられ、したがって意味もまた変化をうける。AはBよりも言語の価値あるとすべき」と述べられています(文庫版P.105)。

(注10)本書において、吉本隆明は、「三木〔成夫〕さんは、人間について、植物神経系の内蔵―大腸とか肺とか心臓といったものですが―の内なる動きと、人間の心情という外なる表現は対応するし、また動物神経系の感覚器官と、脳の表面の動きは対応するとかんがえています」が、「植物器官を主体とした表現を自己表出といえばいいのではないか、〔ぼくは〕そうかんがえました」と述べています(P.61~P.62)。
 ここでは、「表現」ということで他者を想定しているのかもしれませんが、どちらかといえば言語をそれ自体のものとして捉えようとしているのではないかと、クマネズミには思えます。
 また、『言語にとって美とはなにか』では、「言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりをふくむようになり、それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき、はじめて言語とよばれる条件をもった」と述べられていますが(文庫版P.38)、これもまた他者を余り想定していない言い方なのではと思えるところです。
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