駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

修行と研修

2008年08月09日 | 学思
 包丁一本さらしに巻いて板場の修行と言うが、板場の研修とは言わないようだ。
 国家試験に合格し第*****号の医師免許を取得しても、本人はもとより誰も一人前の医師とは認めない。ほぼ一人前の力量を付けるには、専攻科や才能によって多少の長短はあるが、まあ4,5年の修行が必要だろう。
 研修と言わず修行と言ったのは、時代錯誤かもしれないが、医師が一人前になる過程にそうした要素があった方が良いと思っているからだ。現在は卒後教育として研度医制度と呼ばれるシステムができており、きめ細かいカリキュラム従った教育が大学や総合病院でなされている。そこでの研修に修行の要素がいくらか残っているだろうか。
 研修と修行とどう違うかと改めて問われると、なかなか説明が難しい。修行には自発的精進で多少の理不尽には耐えて頑張る姿勢を感じ、研修には自律的研磨で定められた項目を滞りなく納める姿勢を感ずる。どうも取って付けたような説明だが、まあこれは私の個人的見解だ。
 古くさいかもしれないが、修行にまつわる薫陶や禁欲が技術の習得に必要と思っている。時には反面教師の臭い薫陶もあるかもしれない。禁欲というのは実は何よりもの食前酒である。まあそうして光と陰があるのだが、技術は人から学ぶと身に付き、基本の伝承には曰わく言い難きというか問答無用の部分があるので、今の卒後教育にも修行の要素があればと思う。
 もっとも嘗ての指導医がこれを読まれれば、あの生意気だったお前がそんなことを、と苦笑されるだろう。
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