「うしろすがたのしぐれてゆくか」は自由律俳句で知られる種田山頭火の句です。専門的な句の解釈はよく知りませんが、自分の後姿を立ち去ってゆく度し難い碌でなしのように心眼で俯瞰している光景が浮かびます。
この山頭火の句だけではなく後姿は芝居や映画で様々な意味を込めて使われています。多くの人が実際に自らの人生で、後姿を万感の思いを込めて見つめた経験をお持ちでしょう。
そうしたこととは別に、否繋がっているのですが、後姿の告げるものがあります。それは実年齢です。患者が診察室へ入ってくる様子も大切ですが、去ってゆく光景も重要な臨床情報なのです。年齢は抗いようもなく歩き方に現れます。それが一目で見て取れるのが後姿です。カラオケが得意なMさん、血圧を測定した後、いつものように張りのある声であれこれ近況を報告し「じゃあ、先生また」と立ち去る後姿には年を取られたなと思わせるものが見て取れます。
江戸と背中を見て死にたいと昔の人は云いました。江戸(今は東京ですが)、これは数え切れず見ていますが、残念ながら背中を鏡なしには見ることはできません。勿論、後姿も見ることはできません。後姿がなぜ多くのことを語るのか、それは一つには無防備だからでしょう。俺の後ろに回るなというのは剣豪やガンマンの台詞でよく聞きますが、それは守り切れないからという意味なのでしょう。
勿論、年齢だけでなく様々なことを後姿は語っています。口舌の輩の後姿を注視したい十月ではあります。