内科学会総会で東京に行ってきた。会員の半数以上を占める個人医院に配慮し土日も開催されているので、医院を休むことなく出席できる。
あまり専門的でない日常臨床にも役立つ講演を選んだ積もりだったが、今年は成る程とは思っても、我が医院で生かせる知見は少なかった。そのせいか、いつも勉強しなくてはと感じる刺激が少なく、そう言われてもなあと感じることの方が多かった。
熊本の先生が交通手段がなく上京できず、講演が急遽取りやめになり、被害の大きさを感じさせられた。司会者のお見合い申し上げますは、当然の挨拶ではあるが、立派な国際フォーラムの会場にどことなく空しく響いた。
いつも思うのだが、仲間褒めはほどほどがいい。持ち上げられた教授が苦笑いするようなご大層な賛辞は、事実だろうが短くてよい。
それにしても感じるのは分野によって凹凸はあるが、医学の進歩だ。大体十年ごとに明らかに目に見える進歩がある。それに伴いそれを支える病診連携、医療機器、薬物・・が社会と医療者の負担になって来ている。殊に医療機器や薬物の経済的負担は社会の重荷になってきている。命の値段はいくらなど、難しく微妙で議論が避けられがちだが、一年の寿命を延ばすのに五百万円とか一千万円とか言われると、いずれ何らかの選別が問題になってくるだろう。その一人のために百人の人にしわ寄せが行くようになりつつある。誰が猫の首に鈴を付けるか、まことしやかに伝えられている生活保護には新薬を使わないようにという伝聞のように、暗黙の圧力は困る、冷静に議論できなくなる恐れがあるけれども、何らかの指針が必要になってくると思う。
安陪首相は貧乏人は麦飯を食えとは言えない、いや言わないだろう。