一ヶ月ほど前、あと十五分ほどで閉院の時間にMさんの娘さんから震え声で電話があった。お母さんが血を吐いて真っ青になった。今、向かっているから医院を閉めないでと言う。来て貰っても重症に対応は出来ないし、困ったとは思ったが、駄目とは言えない声音に、取り敢えず診てみないことにはと、「分かりました」と答えていた。
一体何がと看護師と顔を見合わせるうちに、五分ほどで車が着いた。夫と看護師に両脇を抱えられ、おぼつかない足で入ってきたMさんは口の周りに鮮血を付けて真っ青だ。何とか座らせて胸の音を聞くと両肺、特に右底部にバリバリと音が聞こえる。あえぎあえぎで言葉にならない。夫の話では台所で夕飯の用意をしていたら突然血を吐いたらしい。どうも吐血ではなく喀血のようだ。速脈を触れるが血圧は測れない。座って居られなくなったので、半座位にさせ、点滴の指示を出した。
電話に飛びつき、狭心症で受診したことのあるK総合病院に掛ける。「救急外来を」に交換手はお待ちくださいと答えたのだが、一二分のその間が随分長く感じられ、手に汗を握ってしまう。「もしもし」の遠い電話に手短に状況を伝え、送るので診て欲しいとお願いする。血圧は意識はなどの質問に答え、「いいですよ、紹介状を付けてください」の返事を貰う。直ぐ119番に電話する。**から向かいました。転送先の病院には連絡済みですねには「はい」と応じる。
僅か数行だが紹介状を書き、検査データを添える。それから救急車用の搬送願い書に記入する。高々五六分だが、この間患者を診ることが出来ない。書き終える頃にサイレンが聞こえはじめ、救急車が到着した。Mさんは呼べば頷くが、顔面蒼白で意識は朦朧としていた。
「一体何なんだろう、助からないんじゃないかな」と職員と話しながら、医院を閉めた。大動脈瘤破裂で喀血するだろうか?消化管出血ではないと思うがと考えてみたが、よく分からなかった。
そのMさんが昨夕突然、いつもの降圧剤を希望されて受診された。あれあれ足がある。「よく生きて帰って来れました、駄目かと思いましたよ」と感激しながら正直にお話した。どうも当院に来たことはよく憶えていないようで、なんだか二週間ほどで退院できたという。どこから出血したかは色々調べたが分からないと言われたという。えっそんなとは思ったが、ああそうなのとお答えした。助けてくれたのには大感謝だが、紹介状のお返事は戴きたいと思った。尤も、目の回る忙しさの救急外来では返事は無理かな、それでも転科した呼吸器からはお返事が欲しいと思う。暫く待って、連絡が無ければ問い合わせてみよう。