玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*繋がった

2016年01月14日 | 捨て猫の独り言

 東京にいて故郷の新聞のウエブサイトにある「桜島ライブカメラ」を見る。瞬時に鹿児島の空模様がわかる。また過去の桜島の噴煙を再現することもできる。あるとき「ナギ60本を植樹」という小さな記事に目が止まった。いちき串木野市の一之宮神社のヒトツバの木が落雷で折れ、代わりの木を探していた。松崎孝(88)さんが神社周辺にナギの木が自生しているのを発見、種を集めて2年半前から鉢で栽培し高さ40cm程になるまで成長させた。大里の住民は11月末に35mの参道の両側に2mの間隔で植え、玉垣となるように社殿のまわりにも配置した。

 ごく最近の紀伊半島の旅で、熊野速玉大社で樹齢約1000年のナギの木を見た体験がなければおそらく見逃していた記事だ。平安末期に熊野三山造営奉行を勤めた平重盛(清盛の嫡男)の手植えとされ、梛としては日本最大で天然記念物に指定されている。那覇の那が入った漢字は覚えやすい。バスガイドさんから旅の別れに「なぎの葉」をプレゼントされた。宝くじが当たるなどの御利益があるということだったが、いまだにそれらしきことは身の回りに起きていない。

  

 玉川上水開削の総奉行である松平伊豆守信綱に関する本を読んだ。そこから発展して徳川将軍家についていくらか知識が増えた。二代将軍秀忠は律儀な恐妻家だった。秀忠の正室は、秀吉が藤吉郎のころから懸想していた信長の妹お市の方の三女のお江与である。秀吉が実力者の家康と縁故を結ぶためにめとらせた。姉さん女房のお江与は二男五女を産んだ。三代将軍となる家光(竹千代)と忠長(国松)のお世継ぎ騒動はよく知られている。お江与は愚鈍な竹千代を嫌い利発な国松を愛した。兄をさしおいて弟を後継者にするのは将来の災いの種である。秀忠は憂慮したが、お江与に逆らうほうが怖いので、それもよかろうとうなずいた。

 

 家光は、正室の産んだ子で将軍となった稀なケースである。15代にわたる将軍たちの生母のほとんどは、侍、農民、商人、僧侶の娘すなわち側室である。紀伊半島の旅では高野山の奥の院を訪れた。奥の院の霊域は広く、二十万ともいわれる墓石群には圧倒される。その中で一大きい石塔であることから「一番石塔」の名で有名な崇源夫人(江姫)・五輪石塔がある。旅で見た時には一番大きい石塔というだけで、私の中で忠長の悲劇とは繋がってはいなかった。目にあまる行動に平素から心を痛めていた母のために、忠長が母のあの世でのしあわせを願った石塔だという。大御所秀忠が病没すると、かばうものは誰もいない。忠長は上州高崎城に幽閉され、切腹を命ぜられて28年の短い生涯を終えた。弟を死に追いやった家光は30代のはじめから、きうつの病いに悩まされた。

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