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玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*沖縄の手記から(一)

2015年02月12日 | 捨て猫の独り言

 田宮虎彦の「沖縄の手記から」は地区館にはなく、中央館で借りることができた。この作品は沖縄戦に従軍した海軍軍医K氏の手記によって書かれたとある。作者の創作がどの程度のものか知りたくなり、実物の手記を見たいという思いにかられる。軍医の「私」が鹿屋飛行場から現在は那覇空港である小禄(おろく)飛行場に昭和19年8月3日に着任し、翌年の9月10日に投降するまでの記録である。

 指令(部隊長)の考えが地下壕構築以外にアメリカ軍を迎え撃つ方法はないということだった。ツルハシやスコップで赤土を掘り崩し、もっこで壕の外に運び出す。壕を掘ることで始まった軍医の「私」たちの沖縄戦争は壕を出ることで終えることになる。奥深く掘り進められた壕に守られた命があった。別の場所だが旧海軍司令部壕は当時のままの残っていて戦跡地「海軍壕公園」として今では多くの観光客が訪れる。

 軍医の「私」たちの壕は那覇の港から奥深く入りこんだ深い入り江の南西側につらなる小高い台地の影にある小禄にあった。壕のある台地の沖縄松の林に腰をおろすと、西の海に慶良間の島々が美しく浮んでいるのが見える。のどかに静かであった毎日も10月10日突然来襲してきたアメリカ軍の艦載機によって沖縄は戦火の最初の洗礼を受ける。那覇の町は焼き尽くされた。 

 敵が慶良間の島々に上陸したのは3月26日である。島々の守備隊から別れを伝える無電が伝えられてくる。そして4月1日には嘉手納海岸に上陸した。一本の草木も残さず前線の山肌が焼けただれている。そんな中で軍医たちの集まりで誰が言い出すともなく句会を開くようになる。「壕いでて目にしむ草の青さかな」が軍医の「私」がはじめてつくった俳句だった。5月14日ついに那覇の町に敵が突入した。句会はその夜が最後になった。「独逸降り那覇落ちこよい句会かな」が読み上げられた時、なぜということなく低いかわいた笑い声がおきた。                                                                                                   

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