玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*図書館の講演会

2009年12月13日 | 捨て猫の独り言

 《『赤毛のアン』が生まれるまで~村岡花子の生涯~》と題する講演が小平市中央図書館で10日に開かれました。講師は1967年生まれの村岡恵里さんです。昨年マガジンハウス社から『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を出版しました。翻訳家村岡花子のお孫さんに当たります。都合により予約していた家人に代わって私が出席することになりました。平日の午前10時開演ということもあって男の出席者はわずか2人だけでした。この一年を振り返ると私が参加した3回の講演会の講師は太田治子、松本侑子、村岡恵里とすべて女性で場所はすべて小平市でした。

 村岡花子は1983年生まれで旧姓「安中はな」です。偶然にも「安中はな」の中にアンがあります。父親の計らいで10歳からカナダのメソジスト派教会によって設立された東洋英和女学院の寄宿舎生活が始まります。カナダのオンタリオ州発行の教科書が使われていました。寄宿舎の本棚は原書ばかり、それを後輩に翻訳して読み聞かせ「英語の花さん」と一目置かれる存在でした。後に翻訳することになる小説の原作者モンゴメリとほぼ同世代のカナダ人宣教師に厳しく鍛えられます。日曜日にはカナダの生活を思わせるケーキの甘い香りがたちこめたりしました。英米文学ばかりでなく佐々木信綱に師事していた柳原白蓮や片山廣子らとの親交を通して日本の古典にも目を向けた時期もありました。

 結婚や関東大震災や疫病による6歳の長男の死などを経て花子は翻訳を中心にペンで家計を支えていきます。太平洋戦争の2年前にカナダ人宣教師ミス・ショーがモンゴメリの『Anne of Green Gables』を46歳の花子に贈って帰国します。それは花子が過ごした学院での思い出のつまった玉手箱のような一冊でした。翻訳は戦争中も続けられ、敗戦の年に訳了しています。そして1952年の59歳の時に三笠書房から「赤毛のアン」として出版されました。原題は直訳すると「緑の切妻屋根のアン」です。花子は「窓辺による少女」にする予定でしたが急遽編集者や娘の提案を受け入れて「赤毛のアン」にしたそうです。「ありふれた日常を輝きに変える言葉」がちりばめられていると言われるこの小説を私も読んでみたいと思います。

 花子の書斎には額装された林芙美子の詩が掲げられていました。花子より10歳下の芙美子はよく「花の命はみじかくて苦しきことのみ多かりき」と色紙に書いたそうですが、書斎の額の中の詩は最後の4行が「花の命はみじかくて苦しきことのみ多かれど風も吹くなり雲も光るなり」とポジティブなものでした。その大森の自宅に残る花子の書斎が「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」として月に2回定員10名の予約制でオープンされています。孫の村岡美枝と村岡恵里が運営しています。受け付けはファックスかHPからのメールですが、申し込みが多く断ることが多いといいます。また日加修好80周年記念映画「アンを探して」が有楽町のシネカノンで上映中であることが紹介されました。この日図書館の一角ではいろいろな作家による「赤毛のアン」の翻訳本の展示がありました。

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