玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*九州への旅②

2009年08月05日 | 捨て猫の独り言

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 阿蘇カルデラの内牧(うちのまき)のホテルで目覚めると分厚い雲が低く垂れこめています。始発のバスで阿蘇山上(中岳火口)を目指しました。乗客は私一人です。登るにつれて霧のため視界は狭まり50m前方の道路だけが見えていました。運転手さんのアドバイスもあり、手前で下車し火山博物館を見学しながら雲の晴れるのを待つことにしました。館内の一角では学芸員が太陽観察グラスを用意して日食観察を呼びかけています。あいにく阿蘇山上の雲は厚く、欠けた太陽をほんの一瞬だけ見ることができたということです。

 阿蘇を代表する風景の草千里ケ浜は博物館の目の前にあります。かつては火口だった直径1㎞ほどの草原です。午後になるとそれが見渡せるようになりました。そこで再びバスで移動し、さらに中岳火口に登ります。火口に近づくにつれてこの風景は以前に見たという思いが強くなりました。よみがえったのは中学の修学旅行すなわち50年前の記憶に違いありません。

 つぎに山を下りて阿蘇神社を訪ねました。神社には珍しい二層屋根の楼門があり、あたりは凛とした空気に満ちています。3月には神々の結婚を祝う 「火振り神事」 、7月28日は豊作を祈る白衣の宇奈利行列の 「おんだ祭り」 、9月25日は新穀を感謝して流鏑馬(やぶさめ)が行われる 「田実祭」 があります。 

 カルデラには5万人が暮らしています。2泊したことでカルデラをより多く感受できた気がします。旅の最終日は開通100年を迎えた肥薩線でした。まず明治36年に鹿児島~吉松間が、明治41年に八代~人吉間(球磨川沿いを走る川線)が開業しました。そして最大の難所である人吉~吉松間をループやスイッチバックの技術を使って開通させ明治42年(1909年)の全線開業に至ったのです。この人吉~吉松間を現在は観光列車いさぶろう・しんぺい号が運行されています。指定席は500円で自由席もわずかながら設けられています。(完)

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*九州への旅①

2009年08月03日 | 捨て猫の独り言
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 電車のホームをそのつど尋ねながら大阪駅から別府行きのフェリー乗り場まで無駄なく辿りつくことができました。シルバー割引があって運賃が20%引きだったのはうれしい誤算でした。関西汽船のさんふらわあ号は黄昏ゆく神戸の町を右手にみながら航行して、1時間後には明石大橋の真下を通過して行きました。

 雨がぱらつく朝の別府港に定刻の6:40に到着すると、バスで駅近くにある昔から名高い竹瓦温泉に直行しました。入浴料はたったの100円です。42度の温度表示は偽りでお湯はかなりの高温です。入浴中の地元の人にアドバイスを受けながら高温のお湯に対処することができました。予定を変更して別府を早めに切り上げることにしました。そして噴き出す汗のまま豊後竹田行きの列車に飛び乗りました。

 竹田ではつぎの列車の出発まで3時間あります。史跡岡城跡を目指して歩き始めました。岡城は東西に延びる台地上に展開する山城です。ところが大手門の手前で雨は本降りになってきました。とにかく本丸跡までは登らねばなりません。しかし雨はいよいよ激しくあたりは暗さを増して人影は全くありません。本丸跡からは断崖絶壁が見下ろすことができました。心細くなりながらも城内の坂道を下ると、雨水が山側の溝にみごとに集められ、しぶきをあげながら駆け下っていきます。晴れの日にはまず気付くことはないであろう先人の土木技術です。

 駅に戻って一息つくと、リュックの中の手帳や衣類などがたっぷり雨水を含んでいることに気付きました。雨は断続的に降り続いていましたがとりあえず宮地行きは定刻に出発しました。ところが2駅めの肥後荻駅で列車はストップします。この駅で高校生数人が下車して、取り残されたのは私を含めた若くはない男3人でした。運転手はタクシーでの代替輸送を本部に申請中と私達を宥めます。私は濡れた衣服に体温を奪われていることに気付きながら、列車はその後3時間も動くことはありませんでした。閉じ込められた乗客の一人は青森からの人でした。もと中学の英語教師で日本全国100の城巡りを目標にしています。MLBのRソックス贔屓でヤンキース戦のエルズベリーのホームスチールの話題などで2人は盛り上がりました。衆議院が解散になり、山口県では5人死亡8人不明の大雨被害が出た日です。

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