囲碁は勝率の高い打ち方をこれまで中国流や小林流と呼びならわして、それらを中心に研究がなされていた。それらはあくまでも人間が考え出したものであったが、ここにきてAIの登場で今やAI流の研究が中心になっている。かつては大悪手と言われていたものをAIが多用するという事態などが起きている。
AIの最大の強みは判断力という、結城聡九段の解説は分かりやすい。「人間では見極めることのできないわずかなリードでも判断することができる。AIは疲れることもなく、動揺することもなく終局まで打つことができる。しかしAIはその着手を導き出すための考え方やその後の狙いなどを示してくれることはない」
「人間が考えるにはどうしても理屈が必要で、AIの研究とはAIの着手の理由を考えることになる。自分なりに着手の理由を考えることが碁の楽しさです」と結城九段は続ける。その一方で趙治勲九段のように「どの棋士も師匠がAIになって碁の内容もAIみたいになっている。そんな世界で碁を打つことに自分自身の存在価値を認められなくなってきている」と複雑な胸中を明かす棋士もいる。(小金井公園にて)
AIは囲碁ばかりでない。近代女性歌人を主な学習テキストとする短歌AI「恋するAI歌人」なるものが制作されているという。「合コンに心はたのしむ春に泣くみどり児抱きて見する紅梅」これは実際にAIの作った短歌だという。そのうち人間の作った短歌とAIの作った短歌の読みくらべが行なわれるかもしれない。情報(AI)がどこまで人間の心を取り込めるのだろうか。
ですが、私は判断に至る考え方や思考のプロセス(経過報告)について、AIは既に表記できるように思います。機械が握った回転寿司を食するに抵抗はありません。AIが描いた抽象絵画、短歌などの文芸、余白余韻の美、はまだゲテモノの違和感があります。会いたかった二人が空港で再会、走り寄ってハグする、相手の背にまわした手の強さ、をAIで代替できるのでしょうか。