アメリカに住んでいる娘が2年ぶりに2才と4才の女の子を連れて一時帰国するという。男親の転職のため、最近この家族は州をまたいでの引っ越しを敢行したという。その機会をとらえての帰国である。遠く離れて暮らしていると、こちらに勝手に心配の気持ちが働いて帰国の計画を要求通り受け入れた。なんだかんだで我が家に滞在する期間は3カ月半となった。この3カ月半という期間の重大さを軽く見たのはなんとも軽率だった。
孫は来てよし帰ってよしという場合の期間はせいぜい2、3日が相場ではないか。それが3カ月以上も続くのは特異なことだろう。一時帰国による仮の生活には不安定さもつきまとう。今年からは毎日静かな暮らしが始まると思っていた矢先に見舞われた思わぬ生活の変化である。この間は静寂の中の生活は絶望である。離れようとしても押し寄せてくる。係累を断ち切れない自己の凡庸さを思い知る。
独居老人の死というものがマスコミでは悲観的に取り上げられるが果してそうだろうか。おひとりさまの状態こそ静寂の生活には絶好の環境ではないか。自然の変化とともに生きるには十分に孤独であることが望ましい。独居であればこそ、人は自分が自然の一部として生きていることを感得する機会に恵まれるはずだ。
自らの甘い判断により招いた現在の生活状況はなかなか苛酷である。人が人になる前のヒトに翻弄される日々が続く。これを乗り切るには覚悟が必要である。あるがままを受け入れるためにいつもよりおのれを寛大に保つ必要がある。大げさにいえばおのれを無にするということだ。そして三度三度の食事は重要である。これではまるで禅寺における修行のようなものではないか。禅寺に修行に入ったことはないがそんな気分で生活しないとこの難局を切り抜けられそうもない。