公民館講座の市バス使用による多摩湖見学は11月6日だった。残念ながら私は都合によりそれを欠席した。11月28日の午前中の鈴木さんの玉川上水ミニ観察会「フユシャクと紅葉」から帰宅した直後に、午後は自転車で多摩湖に出かけることになった。家人の突然の提案だったが私はバス見学を断念したばかりだったので喜んで応じた。多摩湖あたりは久しく行っていない。以前は年に一度は自転車で出かけていた。以前というのは5~6年前のことである。多摩湖の紅葉もきっと素晴らしいに違いない。
「秋の夕日に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数ある中に 松をいろどる 楓や蔦は 山のふもとの 裾模様」 は文部省唱歌の紅葉(もみじ)である。この唱歌にある通り「もみじ」は「色づいた葉」のことであった。それが「イロハモミジおよびその近縁のカエデ類の別名」となった。そしてとうとう「イロハモミジはイロハカエデなどとも呼ばれる」となってしまったのである。人が使う言葉だから、人に生き死にがあれば言葉に生き死にがあるのは当然かもしれない。ウィキウィキ(WiKi WiKi)はハワイ語で「速い速い」を意味している。ホノルル国際空港内を走るWiKiWiKiシャトルバスから思いついたものだ。「ペディア」はもともとはギリシャ語のpaidea(教育)の短縮形だという。「ウィキペディア」についてウィキペディアで知ることになった。私の足が多摩湖から遠のいた原因の一つは球場名の命名権ビジネスで西武ドームをインボイスやらグッドウィルなどに短期間であれ変更したことだ。私は西武ライオンズ球団ひいては日本のプロ野球に興味を失うことになった。
多摩湖自転車道は以前のままであったが、多摩湖の堤防付近は整備されて見違えるようになっていた。山口貯水池(狭山湖)の堤体強化工事に引き続いて、6年もかけた村山下貯水池(多摩湖)の工事が終了したのが昨年の3月末だと知った。堤防下流には民家が密集しているから万が一にも堤防が決壊したら大惨事となる。工事は1995年の阪神淡路大震災が契機になったという。堤防は盛り土で造られている。以前よりも圧倒的な盛り土で堤防は強化された。かつて堤防の上には戦争中の爆撃から堤体を守るためコンクリートで覆われた耐弾層があった。そしてそこは遊歩道でもあった。工事はその耐弾層を除去することから始まった。私が初めて渡る新しくできた長い遊歩道には随所にベンチも設置されていた。
湖畔の緑は水道用地として立ち入り禁止になっているので、生き物にとっては安全な環境である。冬には冬鳥の飛来地になりカモなどの楽園になる。2車線の自転車道は水道用地を囲いこむ高いフェンスに沿って作られている。この日初めて多摩湖をぐるり一周してみた。近いうちに隣りにある狭山湖も一周しようと思う。かつて湖畔は中学高校などの遠足やマラソンのコースでもあった。10年にわたる堤体強化工事のために各学校ではコースを他に求めたはずである。工事が終了した現在これらの学校行事は再び湖畔に戻ってくるだろうか。西武鉄道では1951年に貯水池を観光地としてふさわしい名称にするため毎日新聞と提携し改名署名運動を展開している。村山・山口貯水池の最寄り駅はそれぞれ多摩湖・狭山湖駅と改称され、思惑通り多摩湖や狭山湖の呼び名が広く流布することになった。駅名も戦略的に変更される。例えば狭山公園前駅は多摩湖駅になりさらに西武遊園地駅となった。