この夏の終わりにある先輩から単行本を一冊もらった。東野圭吾の 「容疑者Xの献身」 であった。しばらくそのままにしていたがいつまでも放置できない。作者は大阪生まれの直木賞のミステリー作家である。エンジニアでもある。主人公が高校数学教師であることから私が貰うことになったということが判明した。自分のぶらり旅であれ何らかの因果をもたせて楽しむ癖のある先輩らしい。
その乗りでこの師走に二つの 「半落ち」 を夜遅くまで見ることになった。一つは渡瀬恒彦が主演のテレビドラマであり、一つは04年映画の再放送で寺尾聡の主演である。容疑者Xの献身も半落ちもいずれも献身的な殺人が発生する。なぜ人を殺してはいけないのか。作品の出来はこのテーマをどこまで追求できるかにかかっている。
私は 「はぐれ刑事純情派」 を良く見る。藤田まことの安浦刑事は亡き妻の連れ子の二人娘と生活している。血の繋がらない親子が同じ屋根の下で暮らす。ドラマの最初や最後にこの三人が登場する。この設定が安浦刑事への共感に繋がっているのではないか。
この春に友人から読んでみたらと五木寛之の 「大河の一滴」 を渡された。私は人生を地球上の水の循環に例えたと読んだ。これに関連した別人の文章に最近出会った。「人はただ生きているただそれだけで値打ちがあると思うのです」 とタクシーの窓にステッカーが貼ってあります。五木寛之さんの 「大河の一滴」 の広告なんですけど、ただ生きている、それだけで値打ちがあるというセンテンスはこれだけでは論理的におかしいですね。存在と価値。考えるほどおもしろい。つまりわからない。絶対不可解、言語道断の存在において人生が存在するわけです。この剛毅な文章の主はこの二月に死去した池田晶子さんである。
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