安田屋旅館は静岡県沼津市内浦三津(みと)にある温泉旅館である。沼津市は伊豆半島の付け根に位置する港町だ。駿河湾の奥まったところに、付け根をえぐるように入り江ができて沼津市街とほぼ正対する位置に三津がある。安田屋は後ろには山が迫り道路一つ挟んで目の前は三津浜という場所にある。沼津駅からバスで35分かかる。
安田屋は大正7年に現在の場所で営業を始め、現存する木造の建物は国の登録有形文化財に登録されている。太宰治がこの旅館に昭和22年の2月から約半月滞在し、小説「斜陽」の第一と第二章を書いたという。その部屋が「月見草」の間として残っている。太宰は翌年の6月に自殺した。館内には資料室兼記念館の「伊豆文庫」が設けられている。
月曜日とあってどうやら太宰が滞在した部屋に宿泊客はいないようだ。あたりに人影もない。カーブのある急な階段を登って月見草の部屋の扉を引いて中に入った。カーテンを引くとガラス戸越しに淡島が見えた。無断侵入なので角部屋のもう一つのカーテンは引かずに早々に立ち去った。もっと大胆でもよかった。
翌日の朝、漁港の辺りを散策して戻ると玄関わきの応接間のテーブル火鉢には炭が熾きている。そこ置かれた雑誌に安田屋の若女将のつぎのような談話が掲載されていた。「太宰はとてもお酒が好きでした。当時はお酒は貴重でなかなか手に入らないこともあり、店主は近くの漁師と物々交換してお酒を調達したと聞いています。太宰が亡くなった後、報道陣がたくさんいらっしゃったということです」