玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*歌の心

2011年09月19日 | 捨て猫の独り言

 「日本の歌は多数人が歌を作っているところに、日本の歌が存在するのだから、多数国民が作らないなら、西洋の詩と同じになり、歌そのものはよくなっても、国民的教養としての和歌がなくなるんだ」これは長谷川如是閑の発言である。現在NHK教育テレビには毎日曜の早朝に短歌と俳句のそれぞれ25分の番組がある。「題」が設定され一人の選者による入選作品が紹介される。また全国各地で発行されるどの新聞にも歌壇・俳壇の欄があり、毎週複数の選者により選ばれたかなりの数の投稿作品が紹介される。

 日本には和歌や俳句を純粋に愛するしろうとというものがある。生活の一部として楽しんでおる人が無数にある。これは驚くべきことではなかろうか。あらためてそう思う。なにごとにも飽きっぽい私はひと頃の「前登志夫の鑑賞」も途絶え、ときたま思い出したように歌に興味を寄せるぐらいしかできない。今回歌に目が向いたのは「河野裕子さんの歌で幸せ育児」という37歳の主婦の新聞への投稿記事だった。『家事・育児で心に余裕がなくなり感情的になったりすることはよくある。そんな時、私はある歌を声に出す。「朝に見て昼に呼びて夜は触れ確かめをらねば子は消ゆるもの」という故河野裕子さんの短歌だ』というものである。

 投稿者の声に出すという行為がまた素適だ。柳田国男は「歌は唱和するものであり、口によって詠み、耳で味わうのが本来である」と考えていた。いい歌というものは声に出してみると心地よいというのは間違いないところだろう。ところで9月5日の朝日新聞の歌壇・俳壇の作品の中から私がそれぞれ一つ取り上げてみる。「寝たきりになってしまったきみだけど母さんと呼んでる呼べる呼ばせて(長野市・関龍夫)」選者は妻の河野裕子を亡くした夫君の永田和宏だ。「たとえ寝たきりになっても、妻はこれまでと同じ、やはり母さんと呼びかける存在だ。そう呼べる幸せを思い、呼べなくなるかもしれぬ不安を思う。切ない」と選評にはあった。

 「打水をして生涯を終わらんと(胎内市・今村克治)」の選者は長谷川櫂だ。「死は間髪を入れず。身辺を片付ける間もない。美しい夢としてこの句を掲げておく」と簡潔な選評である。おびただしい日本人が歌をよむという行為の中にはどんな切実な心情があるのか。歌は天才の事業であるか、はたまた凡人の常のわざであるか。小林秀雄はいう。「芭蕉という人は俳句と生活とが全く一致していた人です。むしろ俳句は生活の断片的結果だったでしょう。これはそれ以来大変重要な日本文学の伝統的精神となりました」 いまの私は、これに倣って「囲碁は私の生活の一部でなく全部だ」と言えるぐらいになりたいと夢想している。

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