玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*親父逝く

2010年08月06日 | 捨て猫の独り言

 7月25日に脳幹出血で倒れ南州神社の近く鹿児島市下竜尾町の今給黎病院の集中治療室で3日間の治療を受けた後に親父は逝った。8月5日の誕生日が来れば93歳であった。自宅で倒れた時から昏睡状態であったから苦痛もほとんどなかったようだ。「生死」は人の計り知れぬ出来事だが親父はこの時期に幕引きしたかったのではないかと、なんだか親父の意思が働いたかのような錯覚に落ち入ったものだ。

 両親は鹿児島市内で50年近く住み慣れた家からつい一月半ほど前の6月中旬に通院に便利なマンションに引っ越したばかりであった。古い家は坂の中腹にあり、敷地内の階段も急であったから一大決心をして転居に踏み切ったのだった。東京の私は5月中旬に娘が2才と4才の女の子を連れてアメリカから一時帰国していて子守に追われていた。私は7月20日に親父とひ孫の対面を実現すべく4泊5日の日程で鹿児島を訪れた。無事に対面を終えて東京に帰った翌日に親父倒るの知らせが入る。

 マンションでの生活を「なんだかホテルに来たみたいだね」と昔から耳の不自由な親父が感想を漏らしたそうだ。マンションの最上階のベランダからは桜島がよく見える。今年の正月に比べて親父は少し表情が乏しくなったという印象を私は抱いた。目の離せない曾孫たちも次第に親父に馴染んだ。親父はいつもそうするように朝食の人数分のヨーグルトやコーヒーの世話をする。私達は出かけていたが、高校野球の鹿児島の決勝戦にも大いなる興味を示し最後までテレビ観戦していたという。

 私は7月26日の一番の飛行機で再び鹿児島に飛んだ。親父がここまで考えて幕引きしたわけではなかろうが、私はちょうど今年から65歳以上のシルバー割引運賃の恩恵を受ける身である。家族葬という形の可能な限り簡素な葬儀をお願いしたが、私達の予想以上の会葬者があった。親父は日中戦争・太平洋戦争の15年戦争のうち、17歳で昭和9年陸軍士官学校予科に入学、29歳で昭和21年和歌山県田辺港に上陸復員するまで苛酷な時代を12年間軍人として生きた。自分の子供にもこんな詳しい軍歴を話したことがないという書き出しの、親父が私の娘に出した手紙がある。葬儀の最後に私はその手紙の一端を紹介して、遺族代表として会葬者に対してお礼の挨拶を申し述べた。

コメント (5)
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