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玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

娘の離婚事情ーその1

2012年06月28日 | アトランタ便り

 6月7日付けで正式な離婚が成立した。後になって元夫から手渡された文書は分厚く、双方の弁護士同士が当事者の話し合いに基づいて作成したものだ。そこには子供の養育権や財産の分与、その他の懸案事項が仔細に記載されている。契約社会の国だから尚更の事。米国では離婚そのものは困難ではないが、そこに至る迄の、弁護士とのコンサルタント料や書類作成料が高額で長引く程高額になるらしい。チケットを予約していたとはいえ、当初私はそんな微妙な時期に訪米したくなかった。日本流に言えばどの顔して彼に会えばいいのとの思いが強かったのだ。「気遣いは全く不要。普通にしてればいいの。当事者以外は関係ない事だから」と娘はいともアッサリ言う。 

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 私と孫娘との対面は到着3日目だった。元夫が夏休み入りした子供達を実家(車で6時間)に連れ帰っていたからだ。その日私と娘はさる用があって出かけ帰りが遅くなってしまった。孫達は自宅(夫が残る)に連れ帰って寝せてあり、どの顔して会おうと思案する私に、彼も運転で疲れて寝ているからいいと言い置き、寝入っている2人を娘は2階のベッドから事も無げに抱っこして車に移した。孫達はなされるままに目覚めもせずアパートのベッドに移された。事の始終を見ながら私の心中は言い様もなかったことは察していただけよう。

 当然のこと乍私は離婚騒動の顛末を日々聞かされた。娘が万全でないことは承知の上でも、ここに至らざるを得なかったことは容易に予測できたし、むしろ私はより積極的に賛成してもいた。その話に引き戻されると終わった事はこれ以上モウ聞きたくない。今後に活かそうと私は遮った。久々に独身に戻り、大変な反面気楽になった娘は元来の楽天ぶりを発揮している。どちらかと言えばカナリ厳しい母親の前で見せるその姿を、私は半眼で見ることにしてキバレ(頑張れ)!と応援している

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娘の怒り心頭に達する

2012年06月27日 | アトランタ便り

 11時前にバス停に立った。前回待呆中に犬を散歩させてるご婦人に会い、挨拶とバス便についてもどかしながらの会話をした。バスは通るけれど行き先は知らないと気の毒そうな顔をされた方で再度出会った。「前回はやっとバスが来て何とかなりました。日に2回お散歩なさるんですね」と挨拶すると「老犬で退屈するので3回することもあるわ。今日は時間は大丈夫?」等々やりとりをした。娘にも「今日は上手く行けそう、逆向きのバス停にいるから」と、2ケ月レンタルの携帯で告げた。前回は都合のいい同行者を得たけれど、ランチも水すらも切らし、日照りの中を歩いたことを知っていたので、今日はLenoxに行った方がいいと教えてくれた。更に詳しく、一番前に乗り’降りるとすぐのエスカレーターを上がる。目前のホテルに入るとモールに繋がっていると。

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 30分近く待ってバスに乗った。次々乗客は降り私一人残された所で老婦人が乗って来てバスは止まった。不安になった私は黒人ドライバーに「駅に行きたいのだが」と聞くとウンと頷き、その老婦人が差し入れたクッキーを2人で頬張りながらお喋りをした後出発した。どうやらそのバスはUターンをしたようで、回り回って私が乗った場所を再度通り、マタマタ次なる駅に私を運んでくれた。モールは客で賑わい、四方を各種のファーストフードに囲まれ席で9弗の寿司(中国人経営)を求めた。ネタは酢でしめられ、袋入りは醤油かと思いきや塩だった。

 今日も駅で拾われる約束だったが、何ともバスが変で、フリー切符だから失敗してもトライを繰り返そうと4時前には帰ることにした。駅につ着くと4台のバスが並んでいた。どのバスのドライバーに尋ねてもそこには行かないと言う。確かにここで降ろされた事はないのだ。そう思い直し又電車に乗ってもう一つ前の駅に引き返し、再度停車中のドライバーに尋ねる。列の途中で長問答はどうかとの思いもあって、何度か時間をづらしなが試みたけれど、NOを繰り返されるのみ。困りに困って娘に電話すると、正確に調べてあって「132番なら間違いなく通る。通じなかったら、ドライバーと私が話すから変わって」と言う。これで解決とばかり安心して見ていたら、ドライバーは頭を振っている。変わった私に「話にならない!悪いけど元の駅に戻って!私が拾うから」と言う。そして子供の迎えた足で私を拾い。。。「本当に困った国!困った人達!悪いけどとりわけ黒人の人達は先ず先にNOを言うの!ここに来る途中その132番のバスとすれ違ったわよ!!馬鹿が威張って馬鹿を通シテンダカラ!英語を喋れているだけじゃないか!それがそんなに偉いのか!!」とプリプリに怒りまくっていた。確かに私の知る限り、空港や交通機関では圧倒的に黒人が多く、接客での日米差は大で否めない。(写真はモール街から市街地を望む)

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初めて一人で街に出る

2012年06月25日 | アトランタ便り

 アパートの近くにバス停があると前もって聞かされていた。今回初めてアトランタ空港から地下鉄を利用したが、未だかって一人でバス等を使い移動した経験はなかった。訪米4回目になる今回「初めて交通機関を使い一人で街に出てみたい」と念願していた。滞米20目。やっと保育から解放され勇を決して街へ出た。それも一悶着があって後実現したのだった。

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 サテその一悶着とは。ある日車中から「停留所はあそこよ」と娘が言う。夜になって交わした会話はこうだ。「何というバス停?」「知らないわ乗ったことがないケド、駅に向かうバスに乗ればいいの」「その駅がどちらかが解らないわ」「小学校の前から乗り、運転手に聞けばいい。2、5弗らしいよ」「本当に現金でいいの?コインの見分けもつかないのに」「そう これが2、5弗」と手渡された。耐え続けていた私は娘を詰った。「自分で乗ったこともないバスに、言葉も通じない私を乗せるなんて無謀じゃない?私は必死の思いでやって来て、当初から大事な手帳を既に失っているの。本来なら自分の経験のためにも私を連れて手本を示すべきじゃない?」と言って初めて娘は私の困窮に気づいたか。翌日駅迄私を車に乗せプリペイド式のカードを求め、こうするんだとケロリという。当日になって言われたとおり何とか迷いつつも出かけたが、着いた先はもう一つ先の駅でマタマタそこで私はウロツイタ。事の顛末を臨時の携帯で報告すると、帰りは最寄の駅でピックアップしてくれその日は無事終了した。

 肝腎の街に繰り出す記はここから展開したのでもあった。兎も角駅に辿り着き、上記の報告を勤務先の娘にしおいた。それが黒人の女子学生の耳に届いていた様で、車内で日本語ですねと話しかけて来た。「私は大学で2年日本語を学びました。日本語を話せるハーフの友達が卒業して話せなくなりました。私はこれから街に行きます」と英語、日本語半々で話し掛けて来たので、私もその更に半々でどうやら問答して幸運にも同行相成ったのだった。目のキラキラと輝いた女子学生と広ーい公園(前回一回来たことがあっ)を大股で歩いた。今日本語に加えて韓国語も学んでいる。韓国語の方が難しいと言っていた。朝、孫の食べ残しのオレンジを3切れ食べだけで、ランチ処ではなかった私は喉は乾いたが、ろくに聞き取れない英語で聞いた上で、今度は日本語で話してと言う風にヤリトリして時間一杯過ごしたのだった。チケットは一週間有効で最終日が今日である。幸いに今日はベビーシッター役を免れたので、もう一回出かけてみようか。今日こそランチにありつけるといいケレド。

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車のドアガラスが壊れた

2012年06月23日 | アトランタ便り

 今恐らく夏時間のせいで、夕方暗くなるのが遅く8時半頃までは明るい。先日何故だったかはもう忘れてしまったけれど、夕刻の未だ明るい内に娘が子供達を寝かしつけようとして一向に成功しなかった。其れもその筈。未だ明るいんだもの。寝付けたものではない。小時間たってヤット暗くなりスッタモンダの末に寝入ったのだった。その分朝は6時ごろ明るんで来る。私がフリーな時間を獲得出来る迄、この早朝の小一時間は貴重な時間だった。

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天候は東京より暑い方だろう。緯度的には福岡と同じだ。朝方雨が降り午後になって天気が回復した日が2日あった。日中いい天気だったのにいきなり天気が崩れ、出先で雨になった日もあった。車中で雨にあった時の恐怖をお伝えしよう。そう、私には本当に身に迫る恐怖と感じられた。夕食後、おいしいパンの店があるから連れて行くねと気軽に出かけた。韓国経営者が営む店とかで、喫茶室もある店内は、若い人達であふれカップルだったり、多くはpcを開いて見入っている学生風だった。数十種類のパンは味見用に一部はかなり大きなピースで解放されていた。カプチーノを飲み終え外へ出るとにわか雨。止む気配もなく車に乗り込んだ。そう遠くもない距離(すぐ着く筈)。いよいよ雨は激しさを増し雷鳴さえ加わった、ウインカーを目一杯回しても追つかない程になりスピードをダウンさせた。其れでも私の感覚ではかなりのスピードで私はフロンドガラスに目を凝らし、身を硬くするばかりだった。後席にいたチビッコらも静かになり、「マーマ。ガンバレッ!」とアパートに着く迄声を合わせて唱和し続けていた。アパートの地下駐車場に入るため、セキュリティのカード差し込むのもヤットだった。車が駐車場に滑り込んで暫し後私の体は和らいだ。車のライトに照らされて濡れて歩行している数人を見かけたが、こんな際は傘も畳まなければいけないのだと言う。 

 その数日後、車の運転席横のガラスが壊れ、見積もりしてもらった所想定外の額だったという。其れを聞いた知人が自分の知り合いの所に連れてゆくからと約束してくれたらしい。以来2日間ガラスははずされたまま土曜日迄トランクの中に仕舞われている。日本でも良くあることだが、外国人とか女性にとってどうやら辺の事情は同様らしい。

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スピードに付いていけない

2012年06月21日 | アトランタ便り

 わからない。分らない。今まで私は何をやってきていたのだろう?。この解らなさは何だ?。断続的ながら、細々ながら何年も私は「英語(会話を含め)学習をやって来た筈の積り」であった。日本では発語には困難を覚えたけれど、聞く方は何とか聞ける筈であった。。。のにそれがこの始末。孫達が家庭内で交わす2人間の会話(娘が言ってた通り、ほぼ全部英語)すらたまにヤット耳に留まる程度なのだ。自ら選び取った道とはいえ困難な状況にある娘が、私の思う程私の困窮をおもんばかれれないのは、私の英語能力に対する過信があるに違いない。

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  これまでも訪米の度に異なる空港に着陸する必要があり、しかもそこには必ず彼女らが待ち構えおり、以後私は従っていれば良かった。それが今回は今までと違う。彼女はシングルマザーという立場なのだ。自分のことで余計な負担を掛けてはいけないという私の覚悟もあった。だから駅から地下鉄直行で最終駅に着けば、会社から迎えに行くという彼女の言に従ったのだ。聞き返されながらの問い掛けに言葉を返されても私の耳には止まらず通過するのみ。スピードが早過ぎ、私の耳は置いてけぼりを食う。重量オーバーのタグを貼られた重いケースと共に移動が始まったばかりの私のアトランタ生活は、ショッパナで頼みとする手帳をチケット売り場の片隅に置き忘れて始まった。それでも空港職員に「空港に着いた。これから地下鉄に乗る」旨の電話を娘に入れてもらっていた後で良かった。パスポートでなくて良かったと胸をなでおろした。

 地下鉄の最終駅に降りた私は20分待って娘に拾われた。ヤットの思いで着いた私の胸中はそれはないだろうだった。そこでこそ私は待ち構えられていると勝手にアテにしていたのだから。それから15ー6分。アパートに着いた。引っ越したばかりとは聞かされていたけれど、食卓といくらかの食器類、子供の衣類以外はダンボールの中であった。今までと違い飛行機疲れは少なくホットしていた私は、これから娘とこれらの荷解きが始まるとその積りになっていた。すると娘曰く「これから会社へ戻るわ!休んどいて!」だった。一瞬ポカンとしながらそう!と言い、ダンボールを除けて寝る気も起こらず、ボツボツと一人でソチラの荷解きを始めた。帰宅した娘曰く「日本人の上司に貴女も凄いけれど、お母さんも凄いのねと言われたわ」と必死の私と、楽天家だからこそこの国でやっていける娘とのしばしの道行きが始まった。 

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アトランタでお手伝い

2012年06月21日 | アトランタ便り

ある事情があってしばらく掲載を休止していた。未だ迷いはあるものの、自分の為に再開を試みようという心境にもなっている。私の訪米は昨年は多用でならず、一昨年は娘たちが帰日したから3年ぶりになる。今回の私の訪米は予定されていた事ではあったが、在米中の娘の状況の方は激変し「ほぼ離婚が成立する」という状況の只中にあった。従って私の役割も結果的に多様性が必要とされている。子供の夏休み入りと重なり、「母さんが来てくれなければどうなっていたか」なんて娘は言い一応の謝意は表明している。しかし言語は当然として、車無きアメリカ不自由生活の私の身を何処まで理解できているの?と思える事も多々あるが、寛容第一にと自分を諭すことにしている。

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「ここアトランタに到着してから20日経った。娘が新しく買い換えおいた新しいPCを一週間待ってヤット業者がやって来て昨日つないでくれた。引っ越してきたばかりの新しいアパート。娘は仕事に出て不在のまま彼女と電話でうちあわせた作業内容でするのだという。しかも午前午後と違う作業員がやってきて夫々が違う作業をやって行った。2LDKの部屋を眺め回し、回線が限定されているようで、取り合えずと食卓の上にTVとPCを乗せたままコンセントとあれこれ接続して10本ものワイヤー(日本でも私が一番煩く思えていた)が巡らされた。回路がやっとつながり、その後自分でヤットコサットコの操作を経てこの編集画面に辿り着いたばかりだ。印字だけでも大ごとで、画面が拡大したり、消失したりの上、マウス操作ではなくキーボード画面での操作なので、この上なく時間を要してしまう。写真のアップなど、今の段階ではとても出来ない。

引越し荷物の中に置いてけぼりを食わされて始まった今回の凡そ「2ケ月に及ぶの私のアメリカ滞在記」。次々と話の種は尽きそうにもないけれど、これまた何処迄レポートすべきか、今回はその辺の按配もせねばならない。PCの新機種は東芝で日本製ならと信じている私だが、たったこれだけ書くのに活字がとんでもない所にチン入したりして、修正にも同時間かかったと言えば少々オーバーだろうか?次回の発信までにPCがもう少し安定してくれることを願っている。

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如何・米国流近所付合い

2012年01月12日 | アトランタ便り

 新年を迎え半月たとうとしている。年末年始や連休が重なって10日余の休暇に恵まれた。特別の用件もなかった日々は穏やか過ぎて、終いには退屈をかこった程だ。かって出産準備の娘を抱えハラハラの正月もあった。生まれた末孫も4才になって、今やSkypeで上手に日本語を喋る。

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 昨年は訪米出来なかった。新しい街に移り、新たな仕事を得、家や車を買ったというのに。私はこの3年半の内に3回訪れているが、今まではアパート住まいでその度に違う物件だったし、近所付き合いは丸でなかった。家を買うのは一大事だからと吟味に時間をかけたようで、いい所と娘は気に入っており、この夏訪ねることにしている。

 春になったらすぐにも行きたいのだが、夫君が職務上の功績で7月初旬にメキシコ旅行を付与されているという。家族旅行をと念願したのだが、治安上子供同伴は不安らしく、どうせならとベビーシッターをと頼まれたのだ。孫達の日本語が劇的に上達したのは、一昨年夏2・5ケ月我家に滞在し、近所の子供達と遊んだおかげだった。次女の保育園は日本語だが、現地の小学校に通う長女は英語オンリーになる為、これを機に日本での夏休みも考慮したが、米国籍の父親にとって放射能問題は大きいらしい。娘の仕事も繁忙を極めているようで里帰りも見送りとなった。半年後には、2年振りに聞き分けの出来つつある孫達に会い、米国流近所付き合いも目近に見ることになる。「初めての出会う漢字」という、絵(形)~文字が生まれる過程が分かり易い頃合いの本が目にとまり求めた。

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目に見えた温暖化現象

2008年06月30日 | アトランタ便り

 彼らが3年住んでいた日本の宿舎は、米国式で生活様式も米国式だった。宿舎外は全て車での移動。日米と離れて暮らしたこの2ヶ月間。PCでのヤリトリは求職活動の顛末。子供が発する言葉の伝達。飽きつつある米国式食事事情であったが・・。アレコレ日本はメンドクサイだけだった?

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 夫君は子供2人と妻も働いていたので、家事や育児を手伝っていたが、食材の多くははるばる運ばれてきた半調理済みを、チン!と仕上げれば良かった。生の野菜や果物は料理しても、最後はデスポーザブルにかけ、食洗機に入れればそれで済んだ。本国に戻った夫君は妻をどうサポートをするのだろう。双方を知る私は杞憂していたが案の定モメているらしい。

 外気温は真夏並で、室温のコントロールの為終日電気音がしていた。折角のプールもプールサイドの熱で蔭らないと踏込めない。地球全体の温暖化は誰が見ても明らか。一括回収に慣れた国民にゴミの分別収集は難しい。移動距離の長い国土に車は必須とはいえ大人一人に一台は多くないか。近く開かれる山頂会議はどう舵をきる?(アパート居住人用のプールで子供は上機嫌)

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台所に現れた消費社会

2008年06月28日 | アトランタ便り

 彼の国の消費社会は万人の知るところ。然りであった。日本では幼子2人を持つ娘の家にしばしば出かけ、婿殿が家事を手伝っている様子が冷蔵庫の中から窺い知れ、それはそれで”マアいいか”と感じてもいたのだが、家族中で・・・となれば話は全く別である。

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 娘曰く、「メニュー通りに材料を一から買う人達ナノ。ひどい時にはそれ用の鍋までネッ!」 という習性を聞いていた私は、彼らが夫々に食材、調味料を調達し使用した結果を、その一家の台所に見たのだった。

 そんな状況下で、”余計な物は買わない主義”を通そうと念じていた娘は、日本から船便で届く家財道具の到着が、引越しの一週間後とあってアレもコレも買わずにいた。同じ思いの私も少ない道具にガマンし、ナイナイ尽くしのフライパンで、昼、日本から届いていたラーメンを作り”栄養”を考えて卵を落とした。「賞味期限なんか考えてないから、よ~く火を通してッ」 と娘は当然の注文をした。「底の浅いフライパンでどうすれば完熟が出来る?」 睡眠不足でヘトヘトになっていた私は終に「目的は達成したから帰るッ!自分でやってみれば判るわッ!自分デッ!」 となったのでした。

 

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「1年分台所にいた」?

2008年06月26日 | アトランタ便り

 ディスプレイが鮮やかな家の、燦然と輝くキッチンに立ち包丁まな板を探す。 コレッ?と探し当てたのはシステムキッチンには不似合いの薄いまな板と、ノコギリ刃のついた包丁。しかも小~大10本と鋏1本がセット仕様になっており、これもディスプレイ?と惑う程キレが悪い。

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 慣れない器具、丈の高い流し台、私には区別のつかない多種の調味料、食洗機向きの皿への盛り付けと全てが不慣れ。聞こうにも言葉が半分も通じず、ウンウンやってる内に人参を切っていたノコギリ刃が爪に食い込み出血した。カットバンで引っ付けるべく強く巻いて、以後は小指まで使えず更に不自由した。

 食品庫にはシリアル、缶詰、瓶詰め、パスタとはみ出さんばかり。スーパーには野菜・果物が山をなし、包丁不要の「カット野菜」の陳列も。メニューはカレー、ライスグラタン、焼き飯、具沢山のスープ、各種サラダと日本では全てが当然の手作りや残り物の再利用だが、彼らは小1時間も台所にいる私に驚き、その家の主婦が「貴方は私の・・」と表題のセリフを言った。(Partyの日父親がステーキを焼いて振舞った。肉焼きは男の仕事)

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