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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

天神さまの秋祭り

2023年11月12日 06時32分06秒 | 香川県三豊市観音寺市
時は10月7日に遡る。(先月は忙しすぎて、ブログを書く時間が取れないという言い訳の元、投稿したいあれこれを溜め込みました)
私は令和3年夏に相模原市から香川県の西讃地方の田舎に引っ越しました。当時はコロナ禍の最中だったのであれもこれも中止され、今年になりようやく「コロナは終結した」と見做され、人々の暮らしも以前に戻った訳で。そうなると、お花見に夏祭りに秋祭りと一気に騒がしさがましてきまして。田舎のここも夏の暑さが和らぎ出した頃、どこともなく太鼓の音が聞こえるようになりました。
太鼓の音源は二つ。
私が暮らす西讃地方では、祭りには獅子舞を各戸を回って披露したり、地域で「ちょうさ」と称す太鼓台を引いて地区内を曳き回すので、夜ともなるとあちこちの公民館で練習してるのです。コロナで中止があったので、それ以前に戻すべく、どこの地区も熱心に練習してます。
さて、10月7日のこと。昼間にも関わらず自宅に太鼓の音が聞こえてきた。
どうもどこかで太鼓を叩いてる模様。練習にしてはおかしいのでダンナに聞けば「多分天神さんの祭りと違うかな?」と。
明治の神仏混合や分離令で、村々にいくつもあった神社は統合されたけど、田舎はまだまだ神社が多い。そして祭りは神社ごとに開催日が違うのである。
音に惹かれて自転車を走らせて、どこかのお宅で獅子舞を披露してるのを見つけた。この辺りが天神さんの氏子が住まう区画らしい。
ともあれ、獅子舞は短い時間で次々に移動していくので、まずは天神さんへ向かうことに。
天神さんに近い駐車場に着いたハズ。けど駐車場は空っぽです。本当にここで今日、お祭りをやってるのだろうか?
疑いつつも駐車場にあったマップを眺めた。ともかく隣の道を道なりに進めばよさそうだと歩き出して気づいた。
ゼーハーゼーハー。撮影する携帯画像も手ブレする。急坂過ぎて〜。そりゃあ誰も登りたくない訳だ。
坂が急なので、坂道の高低差も激しい。上の画像は道の隣の駐車場です。私が自転車を止めた先にも駐車場はあって、天神さんに来た人は車をこちら停めてる模様。高低差があるので、駐車場の始まりと終わりで坂道はだいぶん高さが違う。上の画像は駐車場の終わりへんで私は立ったまま地面にどんぐりを置いて撮影してます。
で、どんぐりは急坂を登ってたら頭の上から降ってきたので拾ってみた。
ようやく天神さんが見えてきた。
今日がお祭りのハズだけど。屋台もないし。世話人さんが忙しくそうに動いてるだけ。
なぜだ?田舎の祭りってこれが普通なのか??
しかし来てしまったならば、参拝はせねばならぬ。
とりあえず、手を合わせようと奥に見える建物に向かったのですが、世話人さん達が提灯を掲げようと奮闘してたので、結局離れたところから神様にご挨拶してそそくさと離れた。
あ。こちらは奥の建物の右手にあった土俵です。後日ダンナに聞いたら、ダンナが子供の頃、ここで相撲したことがあると言っていた。
説明板発見。
天満神社:北山麓「岩神社」より、中世になってこの山頂に分遷社されたのが天満神社である。
祭神は菅原道真公であるが、八また比古命・八また比売命の二柱を合祀してある。
菅公は、平安初期(845−903)の大政治家・大文芸家としてあまりにも
有名であり学神として広く国民の崇敬の的となっている。
この地は、菅公が巡行された所であると言われ、慶長11年(1606)山下盛久氏が天満宮を再営し、元和年間(1610ごろ)に生駒壱岐守が社殿を再建した。
恒例の祭典には近郷の馬が集まって競馬で賑わった。今も長い馬場がある」
振り向いてみれば、奥へ不自然に続く真っ直ぐな道を見つける。
もしや?と思い、忙しそうな世話人さんに尋ねればやはりこれが競馬をしてた馬場ということらしい。
少し歩いてみたい。(続く)
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三豊と皇室、献穀の歴史

2023年10月04日 13時30分01秒 | 香川県三豊市観音寺市
香川の西に住んでます。田舎です。ここでは朝6時15分と夕方7時に毎日有線放送が流れます。
放送で「今年は文書館の近くに献穀田が設置されてます〜(中略)〜文書館では『三豊と皇室、献穀の歴史』を10月1日まで展示中です」と毎日朝夕に聞こえてきました。
会期が8月5日(土曜)からだったので、実に150回以上同じことを放送されるとさすがに気になるじゃん!
で、献穀田ってどこにあるの?とダンナに尋ねたのは9月上旬でした。
その時はダンナも所在地がわからず。わからないならしょうがないな〜?と諦めていたのですが、ダンナは諦めずに調べてました。
で、案外近くだ。自転車で行ける!と知り出かけたのですが。
献穀田はあった!
けど既に稲刈りは終わっていた。
ダンナは「ハセがけがある」と言ったけども、訪問した9月28日には既に撤去されていた。
柵の外から眺めると、田んぼに刈り取り跡がまばらになってる部分がある。おそらくあそこにハゼがけがあったのだろう。
気落ちして帰宅。数日後、明日には展覧会が終わってしまうので!と午後に文書館へ出かけた。
資料発見。曰く「令和5年(2023)度は新嘗祭献穀田は三豊市文書館近隣の山本町辻宇田井に設置されました。11年前の平成24年、三豊市に新嘗祭献穀田が設置された際にも、文書館では企画展『三豊と皇室〜主基斎田と新嘗祭献穀田」を開催しています。(中略)
三豊市地域には、新嘗祭献穀田が頻繁に設置されており、昭和以降でも今回で19回目の設置となり、各旧町から米や粟が献納されています。(後略)」
展示物には大正天皇即位大嘗祭に筵を献納しており、その見本だか本物だかを展示してありました。
他はこれ。
わかります?献穀田の歴史です。今は市町村合併で全部三豊市になります。
令和3年8月に神奈川県相模原市から三豊市山本町に引っ越し、日々家庭菜園を楽しんでる私です。気になるのは「品種」です。献穀田で作られたお米の品種は何かしら?と。
資料発見:令和5年新嘗祭献穀田概要
献納穀物:米 品種:秋さかり 献納量:1、8リットル(1升)
献穀田式典日程: 播種式:5月10日 田植式:6月10日 抜穂式:9月18日
献穀田の面積:1,243平方メートル(うち穀物圃場約300平方メートル)

大事に大事に育てるのですね。実際見た目に小さな田んぼだな。と思った私の感想は正しかった。献納量が1升ポッチならばあの小さな田んぼでも大きい程です。献納するまでお米ひとつひとつ調べて合格した米粒のみ使うのだろうなあ。
令和3年に田舎に引っ越してまず感じだのは荒れた田畑が多い。でした。不便な場所だけでなく、道路側だったり、便利な田んぼも草ボーボーでたまげました。テレビのニュースでは「今年も減反」だとか「米を食べなくなった日本人」だの流れて知ってはいたものの、実際お米を作らなくなった田んぼがどうなるか?を目撃すると衝撃です。農家さんのやり甲斐を返して!気軽に減反しておいて、食物自給率が〜とかニュースにするってどないやねん!空いた田んぼを使わない選択を農家さんに強いるな!と。
ま。実際、米を作ってた人はそれなりの「補償」を受け取ってるのでしょうが。知らんけど。
今時、献穀田の式典に参加するのはお偉いさんばかりらしい。昔の献穀田で撮影された資料は大勢が関わっている。スーツ姿の人の方が多いのはどない〜?
ま。稲作文化の伝承は大事。伝統は続けてなんぼですものね。関係ないけど私は文書館へ行った当日は、山本町辻地区のお祭りでした。
コロナで中止になったこともある。一昨年、我が家の枯れ井戸を埋める儀式をやったのですが、その時に地区の神主さんを招いたのですよ。で「獅子舞を今年も中止したら大変なことになる」とおっしゃっていました。あれもな。太鼓や舞は小さな地区とはいえ伝承出来ないと途絶えかねんからな。日本の歴史、もしかしたらあちこちで「途絶え」かけてるのやもしれん。なんだかな〜?悲しいな〜?
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天空の花畑 後編

2023年04月15日 06時30分26秒 | 香川県三豊市観音寺市
2023.4.10訪問。香川県志々島の天空の花畑が素晴らしく、記事を2つに分けちゃいました。画像増量で紹介します。
急坂にある花畑。ところ処にベンチが置いてあります。上のブランコに座って花畑と海のコラボを楽しむのも素敵です。資材は花畑を作ってる方が人力であげたのだとか。凄いです。
こちらは花募金。上にあった募金の返礼のワッペンとはまた違う模様。
毎年花畑見物してる方は「今年の芝桜はあんまり咲いてない」と残念顔。どうも既に何度もぼやいてるイノシシの犯行なんだって!掘り返されたところは新しい芝桜を移植した手の模様です。だから!はよ捕まえないと!どうも犯人のイノシシは最近になって海を渡ってきちゃったんだって。
花畑の急坂を降りつつ振り返る。鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでた。こちらからだと順光なのね。ってか!あそこ!藤が咲きつつあるではないか!き、気づかなかった〜。藤越しの芝桜と瀬戸内の海という構図で撮影したかった〜。見逃し撮り逃しが多くて泣く!

実は急坂なので、脳梗塞罹患者の私は何かと足元が不安。撮影の時はちゃんとしゃがんでカメラを構えるのが普通なのですが。立ったままで。どうせガラパゴス携帯よ。ならば、携帯を上下逆にして適当に数枚撮影した後、ブログ投稿前にソフトで画像をチョチョイと水平に修正します。
キンセンカの中に変わりネモフィラを見つけた。
ずっと前を進んでた方より「ここからの景色も素晴らしいですよ?」と展望台から声をかけられた。
それが今日のトップ画像です。
おや?観光的には「天空の花畑」ですが、「孝子さんの花畑」と書いてある。元々、ここは息子さんがお母さんの孝子さんのために芝桜を200株植えたことから始まってるのだ。
あれ?前方からなんか雰囲気ある方がやってきた。義姉が挨拶してる。
「いや〜、年に一度は来ないとね。ようやく来れました」と朗らかな男性。
あれ?もしや!
そう、先日選挙が終わって一安心の三豊市長さんでした。ならば、案内してる方がここを作ってる男性と奥さんか。
市長の後ろに市の広報の女性が2人ついてきてた。
でもさ。私が気になったのは、満員で到着した船です。市長達はどうやって志々島に来たのだろう?
海上タクシーを利用したのだろうか?あの超満員で積み残しが発生した船を見て欲しかったな。観光シーズンは臨時便が必要だ!と判断が欲しいねえ。ま、乗れた私達は70名で満員になる船を利用したので、志々島観光は観光客がそこそこしかいないのは嬉しいのだけれどね。


撮影してて気づいたのですが、天空の花畑は急斜面です。画像を見ると足元から頭の上までお花が咲いてるのだ。なかなか頭の上までお花というのはないよな。
さて、またも土の細い急坂を降ります。人里まで細い土道ではありますが、足元は雑草や落ち葉を取り除いてあります。ボランティアさんもいるのかな?義姉は志々島の草刈りなどのボランティア作業をやったことがあると言ってたし。
降りてきました。上は波止場からすぐのモニュメント、名前もあるらしいが、聞いたけど忘れてしまった。
所々に置いてある漁具を使ったアート。
波止場に到着したのは10時40分。船の出港が11時半なので時間がたっぷり余ってしまった。あ!トンビが2羽追いかけっこをしてる。
電信柱かな?てっぺんに1羽が停まった。のんびり〜。
ピ〜ヒョロ聞きながら島を眺めてると?あれ?天空の花畑で見た鯉のぼりが見えるような?上の画像の島の端の中央あたりにあります。
あそこにあったのね。

波止場のベンチ裏。ワカメがひらひらと。よくよく目を凝らすと、小さなクラゲが群れて波に合わせて揺れていた。
おおっ!でっかい魚が!あれはボラ?いや、この大きさはトドですね。
ダンナが「とど?」と不審顔で聞くので、「ボラは出世魚だから、サイズで名前は変わるのよ。ボラは60?いや、70センチくらいのやつよ」などと。雑談してると観光客が徐々に集まってきた。みんな同じ船なのだ。
船が来た。まずは団体客から。続いて島民。その後一般の客の順に乗り込みます。
宮下港に到着。帰りに義姉宅に寄って、季節の味覚のたけのこをいただいてしまった。とっても嬉しいです。
そして腹が減ったので「うどんを食べてこ」という話になった。
うちの近所のふる里さんの天ぷらうどんです。
エビの天ぷらは注文してから揚げてくれるので、提供された時は油のジュウジュウという音がまだ聞こえてます。
麺は細麺で固め。ツルツルシコシコ。確か600円だったかな?美味しゅうございました。
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天空の花畑

2023年04月14日 06時48分11秒 | 香川県三豊市観音寺市
樹齢1200年の大楠から徒歩15分天空の花畑に到着しました。ヘタレの私は、大楠の坂を上がった5叉路で休憩したので、普通ならもっと早く移動できます。
5叉路から細い土道をしばらく。竹林に出ます。土の細い急坂につき、両側の竹を持って伝いながら進みました。途中、イノシシが掘り返した犯行跡があって早いこと駆除しないと大変だと思いました。
視界が一気に開けたらもう別世界。
マーガレットは咲き出したばかり。
その奥に見えるのはナデシコか?
あれ?これ見覚えあるゾ?
多分ここ。今月香川県の世帯に配られた「みんなの県政THEかがわ」です。実は特集記事のページを散策に持参してきました。
おそらくTHEかがわの表紙は上の画像のベンチから撮影したと予想する。
あそこに座ってみたいのだけれど?
土の急坂はお花畑の中もそうでして。楽なルートを探して迂回する。
あちこちに花畑があるものだから。目移りしちゃいまして。うっかり、THEかがわを撮影したと思われるベンチに寄るのを忘れてしまいました〜。やらかした〜。
眼下に港が見えてたところからしばらく下ったら、もっと広い花畑が見えた!
あそこが雲辺山か。海越しに見るとこうなるのか〜。みなさん楽しそうに見物してます。
おや?建物がある。何やら展示しているなあ。
残念な落書きが。誰がこういうことをするのか!と近寄ってみれば。
市長さんでした。「参上」ってヤンキーか!呆れたものの、隣にある落書きは、テレビのアナウンサーのもの。もしかしたら請われて書いたのやもしれんけども。落書きってさ、誰かが書けば増えるものなのよね。市長さんや取材ならば、前もって連絡があったハズ。これは色紙を用意しておけば良かったのでは?
ま。僻地の田舎ですから。一級観光地の対策は必要ないやもしれんけども。樹齢1200年の大楠&天空の花畑&青く輝く瀬戸内の海の展望と、観光の目玉が3つも揃ってるのだから。事前対策は必要だと思う。
ちなみに、一級観光地に負けない3つの目玉ですが、見物にお金はかかりません。全部無料となってます。太っ腹!
天空の花畑は島で最後の花き農家だった方が亡くなり、気を落とした奥さんのために息子さん夫婦が母を元気付けるために芝桜を植えたことが始まりです。そこから少しづつ増やして現在の花畑まで育てた!凄いわ〜。ここさ、島なの。細い急坂だから車や重機は持ち込めないの。人力で全部持ち上げんとダメなのよ。
ってなことで、私にしては珍しく奮発してお花募金を入れといた。気持ちばかりですが。おや?
お花募金をするとワッペンがいただけるらしい。けどこういうのって帰宅したら思い出箱にしまうのがせいぜいなので、ここは画像撮影で満足しておこう。
撮影スポット発見。おそらく竹箒のある台か手前に人を配すれば額縁付きでいい感じになる模様。
では降りつつ花畑を見ていこう。
あ。ちなみにこっちはうっかり寄らなかった部分です。帰りの船の時間が気になってたのもあるのですが。船着場に着いたらたっぷり時間があったので、もうちょっとのんびりすれば良かったよ。
撮影画像が増えたので、天空の花畑の記事は2つに分けます。後編をお楽しみに。
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志々島を歩く

2023年04月12日 11時05分44秒 | 香川県三豊市観音寺市
巨木大好きな私。香川に戻ったらぜひ見物したい巨木があった。その木は島に立っている。義姉より「ウバゆりの季節が最高」と聞き、去年ウバゆりの開花情報が三豊市観光交流局のWebサイトに載るのをチェックしてたらば、「ウバゆりは見頃を過ぎました」と投稿された。なぜに見頃に投稿しなかったんだ〜!と愚痴っていたのを義姉は覚えていたようで、義父の法事の時に誘われた。それが4月10日でした。
目的地が島なので、まずは船の出発時刻を確認。8時30分発宮下港とあった。ちなみに、目的地の志々島へは須田港発粟島経由志々島行きという別の航路もある。出発の港が別なので注意なのだ。
ところで、近頃香川県は瀬戸の島々推しのようで、今月4月号の「みんなの県政THEかがわ」には志々島が表紙&冒頭特集だった。みんな綺麗なものが見たいと思う。船が混むのではないか?と事前に義姉に訴えておいたのが功を奏した。というのも、待ち合わせが宮下港だったのだけど、向かってる途中で先に到着した義姉より「お客さんが一杯で残り二人しか乗れないって」と電話が来た。幸い義姉は既に現場にいるので、私たちの乗船を取ってくれたので無事に乗れたけども。気候のいい時期に志々島に行こう!と思う人は、早めに到着するのをお勧めします。ちなみに、臨時駐車場が周辺にいくつもあるので、車が停められないという事態は幸いない。
8時過ぎに宮下港に到着。なるほど乗船希望の客が多い。どうも団体がいるらしい。ちなみに、粟島汽船の最大乗員は70名ほど。まあ、志々島は本来の住民はわずか10名ほどなので、70名でも過剰なんだろうけどね。船は積み残し客が出た模様。義姉のおかげで無事に乗船出来てよかったよ。
乗船時間15分適度で志々島に到着。では早速〜と行きたいところだけども。トイレに行きたい。なぜって、観光客が使えるトイレは港の近くの1箇所にしかないのだ。
島の古い街並み。ここは営業してるのだろうか?
なんかあった。休憩処くすくすという施設前に並ぶカカシと漁具で作られた何か?アンパンマンが描いてある。
トイレは1箇所だけども。1個しかない。わかり易く言えば、女性用は和式便器が1個だけ。並ぶ。本当は乗船前にトイレに行けるハズだったんだ。港に隣接するマリンウェーブで借りるつもりだったんだ。無理だったんだ〜。
お待たせ!ではスタートです。
おおう!すぐに急な石段が。頭の上にはまだ桜が咲いていた。今年の桜は近所の公園でちらっと見ただけなので、とても嬉しい。義姉が浮かれてる私を撮影してくれた。
うん、急坂。こんなことだろうと、3月26日にギックリ腰を発症したばかりなので、念のために杖を持参して大正解だった。ちなみに、杖を持ってない人は、登り坂に差し掛かる前にレンタルの杖があるので借りるのをお勧めします。上の画像からしばらくはまだ石段でしたが。その後は土の上り坂になりますよ。
石段は右に90度曲がる。
そこで見つけた可憐な野花。これはタツナミソウではなかろうか?相模原時代、相模原中央緑地(別名:木漏れ日の森)で初めて見た。その時はもう盛りが過ぎており、綺麗なタツナミソウを見たいなと思い叶わなかったんだよねえ。まさか志々島で見えるとは!感動するな。
ところで、タツナミソウは坂道の左に生えてます。しゃがんでないの。斜面が急なので、左は目線。右は崖という状態です。
ゼーハーと息が上がる私に義姉が休憩を取ってくれた。ちなみに急坂にベンチが置いてあり、ありがたく使わせていただいだ。眺めは最高。
ところで、上の画像左下あたりに墓石がありますよね?実は島民方のお墓なのですが。
船着場近くに珍しいものが並んでた。
埋め墓です。志々島の人は、昔から人々を埋葬する墓とお参りする墓の2つを持つらしい。まあ、分かる。お墓があるのは急坂の上の危険な場所なので、そうそうお参りに行けないものね。ならば、前立て的なものが必要でしょう?
急な坂道をしばらく。5叉路に出た。右へ行くと天空のお花畑。まっすぐ降ると樹齢1200年の大楠。左へ行くと楠の倉展望台。ちょっと左後ろに細い上り坂があって、これを登ると横尾の辻という見晴らしスポットだそうで。
どれから行く?と聞かれても〜。「展望台から大楠は見えますか?」と義姉に尋ねれば。「見えない。けど瀬戸大橋は見える」とのこと。ならば!展望台から。
展望台に向かう途中で視界が開けていて。十分綺麗。
ちなみにこの辺りはもうすぐすると紫陽花が綺麗なとこらしい。訪問した4月10日は既に見頃過ぎの水仙が並んでた。
あ。白花たんぽぽ。坂が急だと足元にあるはずの野草が見やすいなあ。
展望台に到着。うまくやれば、窓が額縁で写せそう。
上の画像は明度を調節してあります。だって、裸眼では見えた瀬戸大橋が画像では写ってても見えづらかったのだもの。水平線あたりにうっすら瀬戸大橋がかかってるのだけれど分かります〜?あ。ちなみに、手前にちらほら咲いてるのはマーガレットです。見頃までもう少し。
さて出発。実は5叉路まで戻らずとも、展望台の裏には大楠に降りれる細い道があるのです。けどここは急坂です。困る人向けにロープが貼ってあるで、伝い歩きで降りましょう。私は右手に持つ杖を使いノロノロ歩きで降りました。こんなこともあろうか?と。足指は液バンで固めてギックリ腰からまもない腰から太ももにかけて温湿布を貼り付けてきたのですよ。備えあれば憂いなし!というの。違う気もするけども。やり過ぎか?と足指にカットバンを巻いてこなかったのを後悔する程の土の坂道です。
そして!元から手作りの坂道と思われる道の両側はイノシシが掘り返した跡と思われる荒地になってた。どうも最近海を泳いできた個体が志々島を荒らしてるらしい。はよ捕まえなきゃ!被害が拡大するわ。
坂道をぼやきつつ慎重に降りる。足元にキランソウらしき群落が広がってるのだけれど。危なくてしゃがめん!泣く泣く撮影を見送る。
あ!ようやく!念願の〜!!!!

明日は大楠を紹介します。これが見たかったのだ。
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キジが土手でバトルしてた!

2023年02月17日 10時10分52秒 | 香川県三豊市観音寺市
昨日はじゃがいもを植え付けてました。じゃがいもを畝に置いて上から黒マルチを張ろうとしたら、途中で切れてしまいまして、急いでコメリに買いに財田川の土手を自転車で走らせてたらば。前方に黒い影がみえたのです。
何かしら〜?鳩?いやカラスかな?
遠目で鳥が2羽戦ってるのは分かったのですが。ちょうど建物の影の中でして、はっきりしません。取りあえす面白そうなので携帯を取り出し撮影する。
あ。トップ画像は上の画像から鳥をトリミングして切り出しました。トップ画像から鳥の正体は鳩でもカラスでもないのはわかりますね。けども、切り出してようやく分かったのです。現場では何か尻尾が長いような??
でした。
ともかく、手持ちは古いガラパゴス携帯しかない。望遠撮影できるスマフォは家に置いて来ちゃった。では片手に携帯をスタンバイ。自転車を漕いで対象に近づきながら撮影開始。
ふあっ!
もしやキジではなかろうか?しかもオス!しかもしかも2羽も!?
幸運ですね。
けども不用意に自転車で近づいちゃったので、キジに気づかれた。1羽はすぐに飛んで川の藪に消えた。
残った1羽もすぐに川の藪へ飛んでちゃったよ〜。
一生に一度出会えるかどうかの野生のキジのオスの争いを目撃できて儲けた!いや〜、たまたまじゃがいもを植え付ける前に撮影してたから、たまたま携帯をウエストポーチに突っ込んであったのでした。何が幸いするかわからんね。
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大坊市へ行ってきた

2022年11月30日 07時15分06秒 | 香川県三豊市観音寺市
四国のJR予讃線にはかつて「さぬきだいぼう」という駅があった。独身時代、毎日JRで高松まで通っていた私です。結婚して神奈川在住になってから帰省すると「さぬきだいぼう」駅は「みの」駅に名前が変わっていた。すんごく不思議だったのですが、みの駅から徒歩1分の場所にある寺で4日間に渡り「大坊市」が3年ぶりに開催されると三豊観光交流局のWEBページのインスタグラムで紹介されてまして。ならば23日の祝日に行く気満々だったのですが、あいにく23日は1日雨降り。結局翌日の24日に大坊市へ出かけたので紹介しますね。
駐車場は数カ所あったのですが、混むと嫌だからと一番遠くの駐車場へ。
と?側の川が秋模様で素敵。トップ画像です。
駐車場から一旦坂、堤を上り川を眺めてから参道を見下ろす。
あれ?あそこに出店があるから多分あそこで合ってると思うのだけど、人がまばらだねえ?
と、取りあえず行ってみようか?
参道の両側に塔頭が数か寺。しかも何気に立派そうな木だなあ?
見物してみた。
道路側に山門があった。
あ、縁起発見:本門寺縁起
当山は日蓮正宗高永山(本山)本門寺と称し、宗祖は日蓮大聖人で、駿河国の大日蓮華山富士大石寺が総本山である。
正中2年(1325)法嫡第二祖白蓮阿闍梨日興上人の本弟子の内上蓮坊(百貫坊)日仙上人によって開削された。開基大壇那は当讃岐高瀬郷の地頭秋山孫次郎源の泰忠(本源院殿日高)である。
秋山氏は甲斐源氏の一族であり、弘安年申に高瀬郷の領主として大聖人の仏法を弘道した。泰忠は祖父秋山光季(阿願入道)より当領地を相続し、元亨元年甲斐の国に於いて日興上人より大御本尊を拝受し、甲斐の同族小笠原氏出身の日仙承認を招請して来讃の準備を整えた。
元亨三年泰忠は高瀬郷に入り強盛なる法華経信仰の総領として地域を治め、安国土実現の為法華折伏破権門理を実践したのである。
日仙上人は泰忠の絶大な外護を得て弟子の養成を計り、翌正中元年西国三十三カ国最初の法華経弘通の頭領寺院為る可く本門寺の工を起こした翌正中二年に完成して以来、末寺三箇寺、塔頭八箇坊を擁する屈指の大法城を誇る名刹本山本門寺万代の礎がここに築かれたのである。
説明板発見:町指定文化財 本門寺開山堂
創建:元禄10年(1697)
本尊:十界互具一念三千の御本尊 日仙上人像
開山堂は高永山本門寺を開基した日仙承認をまつった御堂である。日仙上人は宗祖日蓮聖人直弟子日興上人門下の高弟で、師の命により来讃し、正中2年(1325)本門寺を建立し日蓮聖人弘通の基を築いた。
開山堂建立時の棟札が現存し「奉造立元祖上人御影堂元禄丁丑暦上棟六月十五日也」と記されている。本門寺山門から真正面に大楠に覆われた御堂は荘厳優美でよく均整が取れ、自然と宗教心がそそがれる。正に十七世紀の仏堂を代表する優れた建物である。
案内図によりますと。
こちらが客殿な模様。で、あれが大楠か。
(続く)
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一日はお墓と仏壇にお花を供えなくては

2022年02月06日 06時36分34秒 | 香川県三豊市観音寺市
信心深い母は毎月1日に家の仏壇とお墓へ花を供えていました。けど現在入院中につき私がピンチヒッターです。私に生花の心得はありませんが、そこは目をつむって取り敢えずはやってみよう。
思い立ったのは1月30日。朝一に三豊市の市議の選挙投票に出かけ。帰りに出来上がった近所への「建物取り壊しと騒音のお知らせ」の挨拶。その後朝食を作りまして。
ふと?「神田のふれあい市場って営業日は土日だったよね?」と思い当たりまして。ダンナを誘って出かけました。
が。なんと、ふれあい市場神田では目的の小菊が全て売り切れてました。時刻はまだ10時前。みんな出足が早過ぎる。と思うのは、去年の8月下旬まで神奈川在住だった私たちの常識であって香川の常識ではないのです。困った〜。スーパーの花は高いのですよ。花瓶にして11個も必要なのです。いや、最大は13個だけども。2個はたまにしか義母が花をあげないので今回は11個用意するつもりです。最初は多いと思いましたが。ダンナの家は歴史だけはあるので何かにつけて数が多いのね。
それはさておき。花です。思案してたからだの里へ行くことにした。あそこならあるかもしれん。
ありました!トップ画像の花。画像に写ってる花の中で、ピンクの寒菊と緑の葉っぱは家の家庭菜園に咲いてるやつ。これでマシマシ作戦です。
ところで!たまげたのですが、トップ画像に写ってる大きな白菊2本と白の中菊とユリの4本セットの花束がまさかの税込220円でした。これを3束購入。
激安です。このセットを3つとユリが2本に増したものを1束の計4つ。他に黄色のオンシジュームと白いスプレーマム2本とデコチャだっけ?南国風の花の洋花セット200円を2束とスプレーマム抜きのものを1束追加。スプレーマム2本抜きだと120円でした。(つまりスプレーマム1本40円換算)という。合計で7束1430円(税込)。
激安っ!!こんなに安くていいのか。
ダメだろう。おそらくコロナで人が集まる機会が制限されてて、花の出番もなくなってしまい、図らずも売り先がなくて盛りの花を破棄するよりマシと捨て値で売ってるのではなかろうか。お花農家さんも大変です。
皆さん、お花を買ってあげてください。買い手としてはいいお花が激安で買えるしね。
たからだの里はいわゆる道の駅でして。花は物産館で売られてました。ついでに新鮮野菜も購入。到着したのは10時ごろ。お客さんでいっぱい。たくさんの種類の花束も次々と売れてましたが。
さて帰宅。まずはお墓の掃除に行かなくては!
行って驚き。大量の笹がお墓周りにたくさん落ちてました。ついでに一族の石碑周りもお掃除して花瓶の水を新しくする。落ち葉を集めたらば、スーパーの袋に一杯になったよ。お墓周りに竹林があるので、そこから飛んできてるのね。ふう。
帰宅してお昼ご飯を作る。午後より花束作りです。まずは畑から寒菊を大量に刈ってくる。そして賑やかしの緑の葉蘭だったっけな。花瓶の数だけ集めて花束作りです。
花束の数をケチって全部で7束。これを11個分に分けねばならん。ちなみに、自分ちの墓と仏壇と軍人墓地の2つ分は左右セットに組まねばならん。とても初心者が初めてやる作業ではない。
時間がかかっちゃったよ。日曜日が終わる。
開けて朝一番でお墓へ花を上げにいく。義母がお花は朝あげなくてはならんと毎回行ってるので、そもそも昨日のうちにお墓へお供えには行けなかったんだけども。
手には線香と蝋燭とお花を持っていく。
まずは自分ちのお墓へ。強風で蝋燭の火がすぐに消えてしまう。

 
そして昔の一族の花瓶。これが3つ。こちらにも線香を。
一旦帰宅。次は軍人墓地です。
第二次世界大戦の折、地域の部隊は南方に送られて、ほぼ全滅したらしい。で、小さな部落だというのに、軍人墓地はとても大きく。しかも皆さん毎月熱心にお花を供えてらっしゃるのですよ。
帰宅。そして仏壇。
終わった〜。
ちなみに、今回お墓の撮影をしたのは、入院中の義母に画像を見せるためです。病院では毎週月・木の午前中に入浴するので、午後に洗濯物の入れ替えに病院へ行ってまして。その時にお手紙を渡してます。パソコン打ちなので画像添付するのでついでにね。
ってことで。気付いたのですが、お花は小さい方が花瓶に入れやすい。大きな花は頭が重いので花瓶が倒れそうで。倒れないようにだいぶん切り詰めてしまいました。
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もしかして脳梗塞なんじゃ!?

2022年01月06日 12時05分14秒 | 香川県三豊市観音寺市
前の記事の続きです。
1月3日、晩御飯を作って「まだねてるかな?」と思いつつ恐る恐る義母の部屋へ持っていく。
と?義母が激怒していた。
「これをはよ敷いてくれ!息子を呼べ。早よこんと!!おしっこを我慢しとるんじゃ!!」まとめてみた・義母はまたしても大ピンチだった。すぐさまダンナを呼ぶ。
そしてまたしても繰り返される大騒ぎ。幸い前日急いで買ってきた大人おむつを履いててくれたので、敷布団は今回はセーフでした。それだけでも安心だ。なんたってこの日の昼頃に一式洗って干して。コインランドリーで乾燥しての大騒ぎだったのだ。
けど下着はもう着替えるしかない。義母の足を左右持ち上げて下着を一枚づつ抜く。
うん。萎えてるなあ〜。こんなに急激に萎えるものなのか。老人介護は初めてなので比べられん。
大騒ぎが一段落すると「お腹が減った」というので晩御飯を部屋に持ってきた。
自力で体を起こせられないというので、ダンナが後ろで座布団を二つ折りにして重ねて。さらに大人おむつの袋を背もたれにして。義母の体が倒れないように補助。で。私が前で「お茶が飲みたい」という義母に湯呑みを手渡す。介助で。手に力が入らんというので水物のお茶をこぼしかねないというので。
続いて義母はおじやが食べたいと。普段はお箸を使って食べるのですが、使いづらいとこぼしてたのでスプーンを用意した。
スプーンでおじやをすくう義母。それを口に運ぶのに苦労している。
ハッとした!
この仕草。老人になったから使いづらいのではない。麻痺してるのではなかろうか??
何度もぼやいてますが、私は既往歴脳梗塞の経験者なのです。
背筋がゾッと。けどそれまでも手は使いづらそうだった。気のせいかもしれんと思い直す。
続いて毎食消化剤代わりだとみかんを食べてる母が。「布団で汁の出るみかんを食べとうない」と言ったので、ポンジュースで寒天を作ってみた。それをスプーンですくい口に運ぼうとしてこぼす義母。
やめて!それもみたことあるんじゃ!脳梗塞で一月入院した私は。大部屋に入ったのであれこれ見てます。
食事を終え「寝る」という義母。「また様子を見に来てな」という義母。
生返事の私。ヤバい。これはもうやばさが!!すぐさま義姉に電話です。
「お母さんを明日病院へ連れてって欲しいです」
実は私が連日不審なメールを送るものだから義姉は心配して私達が実家へ年始の挨拶に出かけてる間に義母の様子を見に来たらしい。そのメモが残されていた。けども義母っては実の娘にさえええ格好したのだ。
「調子がようなったら起きて自分でご飯を食べるから今は寝ておるんじゃ」と。
馬鹿野郎!!義母はそういうとこがあるんだよ!病院へ行っても先生の前で「悪いとこない」だの。介護監査師さんが先月訪問した時も「毎日散歩してます。仏間へも毎日きて。ご飯も3度3度自分で動けてます」と。その上歩いてみせた。もう呆れ返る。私は後ろで手を横に振り続けたさ。
そんな呑気なメモだったので「現状との開きが大きいです。明日9時に開院すると今日確認してきたので連れてって欲しい。実はお母さんの里に挨拶に行くように言われて明日の10時に約束してるから。私らが連れていくと午後になるんです」と頼み込む。
ダンナ曰く。「今のお母さんを軽トラに乗せたら死んでしまう」と。
で。朝9時から9時半にはきてくれてかかりつけ医に見せに行くと義姉に了承してもらった。
疲れ果て就寝。
翌朝。1月4日が始まる。
いつものように朝ごはんを作る私。義母の朝のルーティーンの仏壇へ熱いお茶を上げるだのあれこれあれこれを代わりにこなし。まだ早いかな?と思いつつも義姉が来る前に義母に朝食を食べてもらわないといかんので、8時半ごろかな?朝ごはんを持ってそ〜っと義母の部屋を覗くと。義母がまたしても大ピンチでした。いやもう事後。
「なんで見に来てくれんのや!いっぱい出てしまった」と。
ええ〜〜〜!??長時間使える大人のおしめを購入してきたんだ。4回までOKのやつ。
けどもうやっちったものはしょうがない。ダンナをよぶ。で、義母をお願いして私は衣服の洗濯です。もちろん予洗いしないと洗濯機に突っ込めない。何回分のおしっこをしたのか匂いが前日よりきつかった。そこへ早めに義姉が到着。彼女は初めて母の現状を目の当たりにした。
昨日見にきてくれた時にええかっこしなければよかったのに!
で。なんと!義母が「疲れたからご飯を食べたら寝たい」「自分で運動して直す」とか言っている。アホか〜〜〜!!!
説得です。全く信用のない嫁の言葉は義母に届かない。ここは絶対娘である義姉に母を説得してもらい病院に行ってもらわんとならんのじゃ!
がんばれ義姉さん。がんばれ!
けど時間がどんどんなくなっていく。先日義母の希望で義母の里に10時に二人で年始の挨拶に伺う約束を取り付けてしまってるのだ。後を義姉に任せまずは身繕いする私とダンナ。排泄物の匂いをさせて人様の家にいけんのじゃ!
で。義姉に義母を頼んで家を飛び出す。もう約束の時間にギリギリギリギリ。
(中略)
義母の里を辞しての帰り道、スマフォが鳴った。
「お医者さんがいうには『右手に軽い麻痺が見える』と。脳神経外科の●●病院の紹介状をもらったから今から連れてく」と。
ヤバさがどんどん増していく。けどすぐにそっちに合流できない事情が私にはこの日の朝に出来てしまった。
お風呂で着替えてたら突然眼鏡のレンズがポトリと落ちた。
なんで今〜〜〜〜〜!!
替えのメガネがない。私のブログを長らく閲覧してる方はご存知のように、神奈川から引っ越す際に溜まったメガネは全て寄付してしまったのだ。今頃は途上国の誰かが私のメガネを使ってると思う。
もうね。裸眼が0、1もない私。義母の里へ訪問の際は、パソコン用メガネで行きました。ってな訳で。どないもならんのでまずは眼鏡屋に駆け込んでから病院へ。
到着。
義母はMRI撮影中でした。
これはもう脳梗塞確定コースの検査ではなかろうか?
私の経験がこんな時にも「頭の撮影だけ。最初だから単純撮影なので20分程度です」と。予想通りの時間で出てきた義母。続いてCT検査室に向かう義母。私たちは待合室へ移動。
で。先生に呼ばれて義母のMRI画像を見せられた。
そこにはポツンと1個だけ白い小さな●が写っていた。
やはり脳梗塞を起こしてたか〜。
けどさ。待って!小さいのが1個だけ??星空みたいに散らばってた私の状態より随分マシなんじゃないの?
聞けば、運動を司る場所に1個だけ。サイズは?と聞いたけど、脳梗塞の場合サイズはあまり重要ではないらしい。けどもこれなら治療は手術でなく点滴です。それを10日から2週間24時間ぶっ続けでやるアレではなかろうか?
その通りだった。つまり私と同じ治療が始まるのだ。
お母さん!ラッキーじゃ!一発死亡する場所でないよ。それこそ毎朝毎晩神様仏様義父さんにお祈りしてるのが通じたのかもよ?と。
更に運が良ければこの梗塞部分がなんとかなれば。なんとかならんでも義母さんががんばれば結構元通りの体に戻る可能性が出てきたわ。
入院確定したのであとは手続きです。
けども私の時との大きな違いが家族であってもコロナ予防で面会謝絶です。
入院病室に向かう義母に声をかけれた。
「今から2週間点滴を24時間します。その後リハビリを頑張るんだ。運もあるけどがんばれば私みたいにほとんど元通りになるからね」
更に「年は関係ないから!脳みそは梗塞した周りの普段は眠って使ってない細胞を叩き起こせれたら勝ちじゃ!義母さんがんばれ」と。
更に追い込む嫁「義母さん、返事は!」
「はい」と答えて病棟の奥に消えてく義母。それを見送る義姉と私。ちなみにダンナは義母の日々のお薬を取りに家に戻ってた。
それから多量の書類に目を通しサインサインサイン。
合間に血液検査の結果を見る。
うを!ヘモグロビン値が7しかない!やばい。こりゃ動けないハズだ。(ちなみに13くらい値がないと貧血です)
聞けば、「もう少しヘモグロビン値が減ると輸血をするので了承のサインしてください」と。
ええ!?私も7以下に落ちたことあるけどさ。鉄剤であげたんだけどな〜。鉄剤は使えないのかな?と思ったけども。先生の方針には従うしかないのかも?「義母には説明をちゃんとしてください。輸血したことないんで」とは言っておいた。
で更にあれこれ義姉と私と。到着したダンナの3人がかりで書類を埋めていく。
最後に用意する入院グッズの受け持ちを手分けして病院で義姉と別れた。
お腹がすいた。既に午後4時近く。お昼を食べてないの。
「夢タウンに行こう」うどんを食べてグッズを買い揃えないと!!そんなこんなで日が暮れる。
一応ね。義姉が義母の里には連絡してくれると言ってくれたのですが。朝挨拶に行って夕方に義母の入院の知らせを受ける義母の実弟様ことを思いますと。私からも一報入れねばならん。
その後、後始末。ダンナ曰く「母の部屋の匂いをなんとかしたい」と。消臭剤を大量に振り撒き出した。私はともかく晩御飯を作る。で、1月4日が終わった。
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弱る時は急激というけれども。もしかして?

2022年01月05日 07時16分26秒 | 香川県三豊市観音寺市
1月3日朝、朝ごはんを持って義母の部屋にそぉ〜っと持っていくと?というのも、歳をとってすっかり自由人の義母は、起きた時が朝。食べたい時にご飯を食べる生活です。
昨年の8月末に私たちが神奈川から香川に戻ってきて、それまでは週1回訪問してくれるヘルパーさんと、嫁に行った娘(義姉)が時折来てくれて手伝ってくれたというものの、ほぼ全てを頑張って頑張って自分でやっていた義母。そこへ息子夫婦が戻ったからには、あれもこれもやりたかった事をガンガン消化して息子夫婦。つまり私達がヒ〜こらしつつ一つ一つやり遂げていくに比例して、義母は弱りつつあった。ちなみに、最近ぼやいていた
折れたアスベスト煙突&空の見える古い下屋。
そんで持って傾いてる奥の納屋。義母が想定してなかった緊急事態が次々と発覚。で、義母のやりたいリストの消化は停止。突然の納屋の部屋を早急に片付けるミッションがスタートしました。極寒の12月に。
歳を取った義母に「ここを片付けて置いて」と言われ、母屋のあれこれを必死で片付ける息子夫婦。けど数日後に「あれはどこにやったんや!」「あんたほおったんか!」とクレームが入って。探す日々。これが繰り返され私達は学習した。片付けるにはまず義母に捨てるかどうかの選択をさせてから!私達は義母が取捨選択を済ませたものをどう処分するか仕分けする。のが正解。
つまり残すもの・燃えるゴミ・燃えないゴミ・プラゴミ・金属ゴミ・汚れたプラスチック(不燃ごみ)と仕分けるのですよ。それが取り壊す(建物が倒れかけてるので、義母とダンナが残そうとしてもできない事実で彼らは納屋を処分することにしました)と決まったからにはなかの荷物も仕分けなくてはならんのです!すでに業者さんから見積もりが届いたからには早急にです!!
義母は頑張った。実は納屋というのは現在の呼び名であって、かつて義母が嫁入りした時に最初に入った部屋なのです。なので、義母の思い出がいっぱいに詰まってる場所。で、片付けると決めて取り掛かったものの。
田舎の一軒家って広いのね。「取っておく」と決めたものを置ける場所があるのですよ。もうね。神奈川の50㎡しかないととって置けないの。引越しの際には荷物を減らしまくったからね。
納屋にあった義母の嫁入りタンスに取り掛かった時。義母のかつての宝物。娘時代の成績表や卒業証書が出てきた時にはめまいがした。処分せずに嫁ぎ先に持ってきたんかいっ!と。普通女性は嫁に行く時にあれこれ処分して家をでるのですよ。
で〜。出るわ出るわ大量のゴミが。その辺は投稿済み記事でもぼやいてますが。
でで!2021年の12月の暮れは寒かった。強力な寒波がやってきたのだ。四国香川も影響を受けまして、連日最高気温が10度に届かず。そんな中、連日日が暮れるまで頑張ったら熱がでた。私が。先に。
となると作業はストップです。あ、ダンナは私と義母が頑張ってる納屋の部屋の続きの倉庫の整理。いや片付けです。もうね。去年92歳で亡くなった義父が幼き頃に描いた拙い名前付きのものやら。去年定年のダンナが幼い頃に亡くなった祖父のものやらがごっそりと詰まってたのですよ。あ。農家の古い道具類も沢山ね〜。
で、寝込んで起きて年末年始のあれこれに忙殺される私。その間、義母は元気でした。そして12月31日。数年ぶりに来るお客様たち。そりゃそうだ。2021年4月に急死した義父のお葬式は、日本全国にコロナの第何波かが襲来しておりとても通常の葬式はできなかった。家族葬でやったので、ご近所様達でさえ義父の死を知らないという有様。となると、なんとしても数年ぶりに帰省できたからには仏壇にお参りしたいと思う人も多かった訳で。
義母は大興奮しました。
もうね。腰が曲がり耳が遠くなり、日々体が弱っていく。日々ご近所の親しい友人と顔を合わせるのでさえ嫌がっていた人と同じ人と思えない喜び具合でした。
で私達と義母の2021年が終わりました。まさかの!紅白で見たのはぽっかり目が覚めた時の最終局のミーシャさんでしたっけ?彼女の曲だけという有様。ライジンも見えなかった〜〜!!!
で。運命の1月1日。
当日午後、東京から数年ぶりに孫一家が「今から仏壇にお参りに行きたいのだけれど?」と連絡がありまして。聞けば明日(1月2日)午後には彼の嫁さんの家に移動するので、これを逃すと次はいつになるかわからないらしい。彼はコロナがなけれなとっくに海外赴任してたハズ。娘もだいぶん大きくなってるから一家で海外に引っ越すかもしれん。となると、これを逃すともう義母はひ孫に会えないやもしれん。と。了解しまして。
で。その時の義母は、遅いお昼ご飯を食べてました。
前日大興奮したので疲れていた模様。正月の朝ごはんも起こしに行ったものの疲れて起き上がれず。朝ごはんは私とダンナの二人だけで食べたのだ。で、私はそのまま家庭菜園に出かけ。その間に一人で朝ごはんを食べた義母。
で、遅めのお昼ご飯も一人で食べてた。で言っちゃったのだ。私。
「今から東京の孫一家が来たいというのでOKした。早めに食べてね」と。
で?ダンナは??と見れば、まさかの!!彼の日々のルーテーンの夕方のお散歩に出かけていないと来たもんだ!
私は一人で用意しましたよ。その間、義母は放置です。
で。だ。
義母がやってきた東京の孫一家に会うべく、台所から仏間に移動する時にむちゃくちゃ時間がかかった。思えばこの時すでにヤバい状態だったのかも?
けども嫁は忙しかったのです。お茶やらお茶請けやら出す合間に補助して。なんとか仏間に移動した義母。で、その折だけは義母は久々に。数年ぶりにあったひ孫に会えて再びの大興奮です。そして東京の孫一家が帰った後、義母は疲れて立ち上がれなくて。ほうほうのていで台所に戻る義母。そんな時、ダンナが散歩からようやく戻ってきた。いつもの時間です。もう外は暗い。となるとね。私は晩御飯の準備だ。再び義母を放置。
食後かなあ?もう記憶が朧かもしれん。
義母が台所から自分の部屋に戻るとき、まず自力で歩けなかったのです。二人掛かりで介助してようやく自室に移動したのだ。で、1月1日が終わりました。
で、1月2日、投稿済みの記事の事態です。
さすがに急激に動けなくなって義母本人も驚いただろうけども。私達だって驚いた。
ともかく、夜中にもよおしても動けずお布団の中でおしっこをしちゃった義母。もう大惨事。お布団を干してシーツを剥がして。汚れた衣服を脱がして〜〜!!となりまして。大騒ぎですわ。詳しくは1月3日の記事をご覧ください。
で。3日目朝、おそるおそる朝ごはんを持って義母の部屋に顔を出したところ。
「今日は台所で食べるので朝ごはんをそっちへ戻せ」と。
一安心です。続けて義母が「布団の中で運動してから移動する」というので、私達は普通に朝ごはんを食べて家庭菜園へ移動。
まずは温室。育苗中の苗に水やり。植えたばかりの種は芽が出るまで乾燥させてはダメなのに、忙しすぎて見に行けてなかったのだ。
それから私の実家へ1月3日の午後に新年の挨拶に伺うと伝えてあるので、家庭菜園で私が作った野菜も持参したい。人参・ひやっか(香川の郷土野菜)・不織布でトンネルした春菊・日本ほうれん草・青ネギ次々と収穫して洗って用意したらもう11時半。やばい。お昼ご飯を用意しなくては!!
で、台所に戻りましたらば。まさかの義母の朝ごはんは手付かずだったのですよ。
ええ〜〜〜〜〜!!やな予感がする。
義母の部屋に駆けつけてびっくり。義母がまたも大惨事です。
「ちょっとダンナ!!!」
で。大騒ぎの私たち。前日の悪夢再びです。
汚れ物はそのままでは洗濯機に入れられず。まずは予洗いせねばならん。急な介護生活スタートに何が必要かもわかってない私たち。
ともかく汚れ物をなんとかせねばっ!
「毛布は●●さんとこのコインランドリーで洗ってこい。おしっこで濡れた布団は熱湯で拭いて干せ」と義母は体は動かないというのに指示だけはどんどん飛ばしてくる。
新しい下着と服に着替え義母は「お腹が空いたから」と。しかも「台所で食べる」という。「部屋で寝ながら食べてたらいかん」と。
それから私たち二人で義母を介助して移動させる。
10分かかった。
義母が無事に食事を取り始めたので。私たちは義母の後始末です。
洗濯物を干し〜の。うんことおしっこの匂いのする義母の部屋をなんとかなんとか消臭して。合間のコインランドリーに追加。シーツが!!ご飯を食べたら義母が「寝る」というので、お布団をなんとかせねばならんのですよ。再びコインランドリーに走るダンナ。どないもならんシーツだけは私がタライに漂白剤と一緒にお湯にぶっ込んだ。
つ、疲れた。ともかく実家に「遅れる。午後4時ごろになる」と連絡する。
でだ。食べ終えた義母が「お昼ご飯はどうするかなあ」と呟く。ええ〜〜〜!!!時計をみろ!すでに午後2時だ。まだお昼ご飯を食べる気なのか!
「今から私たちは非常用に冷蔵庫の冷凍パンを解凍してお昼ご飯を食べるけど、お母さんも食べる?」と差し出せば。
「今朝ごはんを食べたばかりやからそんなん食べれん。炭酸せんべいでええ」ときたものだ。で。「最近はあられも砂糖やら醤油より素焼きがええね」というので。こんなこともあろうかと。年末に実家に注文してあったあられ一箱詰め合わせより素焼きのあられを探して差し出せば。「開けれんから開けてくれ」と。で。食べ始めた。
時刻はどんどん過ぎていく。布団がまだしけてないので部屋に戻れない母。暇こいたので「私(義母)の実家にこれから年始の挨拶に行け」と言い始めた。
無理だ。私の実家へこれから挨拶に行くというのに。2軒掛け持ちはできないのだ。
「で。お母さんの実家への手土産を用意してない」と言えば。
「スーパーで贈答用のみかんを買ってこい」という。
「嫌だ」と私。「なんでや!」と怒る義母。「あられを持っていく」と私。「そんなん!」と義母。「注文した。ちゃんと箱入りで持っていくから」と私。義母は贈り物は箱入りが大切なのだ。
で。耳が遠い義母なのでマスク越しだと何を言ってるか聞き取れないだろうと。急いで実家に連絡。私の実家はあられ屋なので電話口に出た母に「ごめん今からあられ一箱作って欲しい。午後4時には行けると思うから」と急いで頼む。声が弾む母に要件だけ伝えて切る娘です。ごめんね〜。そこへ義母が「あんたの実家へはもう何度も行ってるからいつでもええんじゃ。私の実家を優先しろ」とゴネ始めた。耳が遠くて何を言ってるから聞き取れなかったものの。雰囲気から電話先を察した模様。
「私はな。何度も行ってるけど。ダンナ(義母の息子)はこっちに戻ってから一回も顔を出していない。それはどう思うの?」と私。そうなのですよ。自分が最優先の義母はいつまで経っても私の実家へ挨拶に行って来いと言わなかったので、痺れを切らした私が合間を縫って短時間だけ実家へ自転車を走らせていたのです。
が。そこまで言っても納得しない義母に。「お母さんの実家への手土産を私の実家へ注文してるの。先に私の実家へ行かないとお母さんの実家へ行けんやろ?」と言われようやく納得した義母は。「私の実家へ電話しろ」と。訪問の約束を取り付けろというので、翌朝、1月4日の午前10時に二人で挨拶に行く約束を取り付けた。忙し過ぎてそちらへ引っ越しして戻った挨拶もできてないのです。礼儀をかきっぱなしなのですよ。
で。クリーニングしてようやくコインランドリーから毛布と追加のシーツを抱えて戻ったダンナです。急いで義母の布団を用意しないと義母が寝られない。それもあっての無茶振りしてた模様。
旦那が干してた布団と取り込み。私がシーツをかけて。
卯ヲヲヲヲをおおおお〜〜!!!
しゃかりきに作業を進めて。義母をまたまたまた二人で介助して部屋に戻す。
で。気づく。
義母の足は萎えてるのではなかろうか?
や。でもな〜〜??
なんとか義母が布団に入ったので、時計を見ればすでに3時をとっくに回っている。
早く用意せねば。私はともかく。がっつり義母の体を支えていたダンナは義母の漏らしたおしっこ臭くてまずはシャワーを浴びねばどないもならん。
待ち時間を利用して義姉にメール。内容はもちろん「やばいやばいやばい」。しかも中断。メールを最後まで打ち終える前にだんなの用意が整った。なら早く行かねばならん。新年から連日の予定変更と遅刻は不味すぎなのだ。
で。実家の仏壇へまずはお参り。
で。挨拶も早々に「義母がマズい。お布団に敷く尿漏れ防止シーツってどこで買えるの?」と。
娘夫婦の訪問が遅れた理由を察した母はすぐに「聞いてくるから」といなくなった。
で、待つ間に。仏壇に帰省しないハズの妹の旦那の名前の祝儀袋があったのを疑問に思いメールを打つ。
と?なんと!奈良に住む妹一家は奈良から日帰りで顔を出し。すでに香川を離れていた。もうね。妹に最後に会ったのっていつだっけ?コロナ前なのですよ。
母が戻ってきた。「これ使って!」と大荷物。防水シーツの売り場を聞いてきただけでなく。父が生前使っていた大人おむつが残ってたので持ってきたと。
「サイズが違うんじゃ?」と聞けば「はきやすいから。こういうのは大きい方がいいのだと」。ってなことで、発注したあられのために弟の嫁が急ぎで作ってくれた一箱を受け取り、早々に実家を後にして。その足で教えてもらったホームセンターの介護コーナーで目的の品をゲット。ダンナがそっと差し出したポータブルトイレの消臭剤。切実だよな〜。ホームセンターでの買い物を終え、帰りに母行きつけの病院の正月明けの診療日時を確認した。念の為。
で。帰宅。急いで義母の布団に介護の防水シーツを敷こうとして「お母さんちょっと体をよけて」と言えば。「それができるくらいならあんたらに頼まん!息子を呼べ」と御立腹。本当に義母は突然にやばくなった。
ダンナに介護の防水シーツを敷く用に伝えて私は晩御飯を作る。
義母が機嫌が悪いのは、何があろうと、どんな時間になろうと日々3食食べる義母はお昼ご飯を食べれなかったことも大きいと思うのだ。
あれ?ダンナが戻ってきた。早くない??
聞けば「お母さんが寝てたから戻ってきた」と。
へえ〜?そうなの?と。それから私は晩御飯を作ったわけで。その間に義母が何度目かのピンチになってたのに気づいたのは、晩御飯を部屋に持っていってからです。(続く)すでに7時16分です。朝ごはんを作らねば。
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GPSが失われました

2022年01月03日 06時47分16秒 | 香川県三豊市観音寺市
2022年も三日目が始まってしまった。今年はどうやら去年以上に大変やもしれない気配がひしひしと!!
昨日の朝、ブログを書いていたらダンナが部屋に来て「お母さんが呼んでる」と言う。
んん?ヤナ予感。と義母の様子を伺いにいくと?
「起きれんのじゃ。ムスコを呼んでくれ」と。
はっ!?まさか、昨日から回復してないんかい!!!
「夜、起きれなくてオシッコを『もうええい!』と布団の中でした」と。
まママママ、マジでぇ〜〜〜!??
びっくりである。
「トイレに行きたいんじゃ!」と。すぐさまダンナを呼ぶ。昨日もぼやいてたように「既往歴脳梗塞」のある私では、義母を支えて起こして部屋のポータブルトイレにちゃんと移動させてあげられんのじゃ!や。時間をかければ出来るかもしれんが、1秒でも早くトイレを済ませたい義母の希望には合わんのです。
で。
それから大騒ぎ。ダンナは義母の介助。私は汚れ物のお洗濯。そして義母は母屋に移動できずに夜ごはんを食べはぐった模様で、台所には義母に用意した夜ご飯が手付かずでした。
「お腹すいてる?」と聞けば。
「食べたい。味噌汁とご飯と玉ねぎのみじん切りでいいから」と。
実はダンナの実家では毎朝味噌汁を飲む。この時点でまだ7時にもなってなかったので、朝ごはんは作ってない。とはいえ、まずは義母の身なりを整えなくては!確か義父が病院で亡くなった時に〜〜!!!
義父は病院で急死しました。
3月20日に緊急事態宣言が解除となりすぐに帰省してみれば入院していたのです。や、体調が悪いのは知っていたのです。けど「会いに戻りたい」と連絡した時には義父は家で体調が悪いながらも普通に暮らしてました。それが帰省の前日の夕方に自分で車を運転して「行きつけの病院に行ったら、大きな病院を受診するように言われた」と。
で、そのまま入院。やや。どこまで詳しく書けばいいのかわからんけども。面会に行った時には義父自身も自分の状態が良くないと自覚があったものの、医者と退院した後の話もしてたのですよ。それも近々に。が。お見舞いした足で神奈川に戻り、1週間かそこらで義父は誤嚥性肺炎で亡くなりました。まさに急死。
行きつけの病院に義父が運転して乗りつけた車を義姉が取りに行ってくれまして。ダンナの実家に入れておいて。それを私たちが8月下旬に戻ってからあれこれ整理して。その中に義父の車もありました。車は車検が迫っていたので廃車にすることにして。車の中を掃除したら、義父の荷物が残ってまして。その中に大人のオムツが在庫で数枚見つかりまして。他の荷物と一緒に保存してあったのだ。まさかの大人のオムツの出番です。幸い男女兼用の前後なしの病院御用達の大人のオムツは、それを使ったことのない義母にもとっかかり安かったようで、すんなり使ってくれました。
で。急いで私は朝ごはんを作る。ダンナは義母の汚物洗いです。普段の義母は部屋にポータブルトイレを置いてあるものの、夜のおしっこにだけ利用していたようです。もちろんそれも自分で洗ってた。けど限界ギリギリだったのでポータブルトイレでうんちをしたらしい。となると匂いだ。で、ダンナがゴシゴシゴシと。私は柔らかく、暖かく、けど毎朝義母が食べてるメニューも絶対!とばかりに頑張りまして。時刻はあっちゅー間に過ぎてしまった。
マズい。
実は前日、正月1日に義姉の息子一家がコロナが下火になりようやく3年ぶり東京から戻ったので、義母に会いに来ました。もちろん8月に神奈川から香川に引っ越した私たちにも会いにです。ところがダンナは日課の散歩に出てて会えなかったのだ。まあ、会いに行けるかどうかスケジュール的にわからないという話で。「今から行ってもいい?」と1日の午後電話が来た時に義母はお昼ご飯を食べてるところで。ダンナは既に散歩に出てて。で。ダンナは会えなかったので。翌日の10時に私達2人で義姉の家に年始の挨拶に行く約束をしてました。
やばい!9時近い。義母の様子を伺いに行く。
「お母さん、ご飯できてるけど。こっちに持ってくる?」と聞けば。「眠い。寝る」と。更に「ご飯は?」ともいちど聞けば。「部屋には持ってこんでええ」と。「用意は台所のいつものお母さんの席に並べてるけんな。私達は義姉さんのとこに挨拶に行かなならんからね」
で。まずはダンナがシャワー。続いて私も。とても人様のお家に挨拶にうかがえる状態ではない私達。そして手土産。祝儀袋に表面なんも書いてない!あ〜〜ピン札の5千円!!と超特急。なんとか間に合え!とばかりに9時半には車に飛び乗ってスタートです。
実は、ダンナの運転で義姉の家に行くの20年以上ぶりなんだよね。前回訪問した時は義父の運転する車で一緒に行ったから。
大丈夫!今はGPSがある。スマフォで道案内じゃ!
しか〜し!大きな落とし穴が。
GPSが失われました」
なんですと??
義姉の家の近くまでは例えGPS案内がなくともなんとなく私も旦那もわかるのですが。最後の道の入り口が〜〜!!!
で。迷った。
もう小一時間迷った。
原因は「GPSが失われました」とアナウンスがあるのに、ダンナが車を止めず直進を繰り返したからです。私が自力で到着するのを諦めて、スーパーかコメリまで迎えに来てもらおうと言っても。何に拘ってるのか自力で行こうとするダンナ。もうね。約束の10時を30分も過ぎてようやく義姉に電話することにしたダンナ。だってさ、息子さんは午後にはお嫁さんの実家がある岡山に移動せねばならんのじゃ。ダンナのプライドなんかゴミだよね。
平謝りで義姉の家に到着。まずは仏壇へ。それからご挨拶。で話題は家庭菜園。義姉の家は定年後プロ農家にジョブチェンジしているので聞きたいことがいっぱい。
「2月にジャガイモを植えようと思うんですが、どんな品種がオススメですか?」と。すっかりリアル農業プレイゲームにハマってる私。
ひとしきり農業のあれこれを伺った後。正月から暗い話題もどうか?と思ったのですが、義母の娘である義姉に義母の現状を切り出して。早々に失礼した。けど実はどうやって帰ればいいのか迷い過ぎて道がわからない。申し訳ないことに義兄にわかりやすい場所まで道案内してもらいまして、帰宅すれば。
義母は案の定ご飯を台所で食べれてなかった。なんで自分の現状を見ないのか?出来ることとできないことの把握は患者さんの基礎ですよ。脳梗塞を発症し、1ヶ月入院した経験のある私。できなくなったことは多いのだ。
で。義母に聞けば「ご飯を部屋に持ってきて欲しい」と。
温め直してもっていった。お盆に3回に分けて。
と?手をつけてない義母。お腹は減ってるハズなのにおかしい??
と?「起きれない。寝たまま食べる」との返事。
アホか!喉に詰まるわ。と。ダンナに使ってない低いテーブルを持ってきてもらう。けど「そんなもんいらん。持って帰れ」と頑なな義母。で、宣言通りに寝たまま食べ始めました。もうね。呆れるよね。その上「入れ歯がない。持ってきてくれ」だの「薬がない持ってきて」と。で、これが指示された場所にないんでやんの。
ウヲヲヲヲヲヲ!!!
私たちが走り回ってる間に、ようやく食べ終えた義母は「寝る」というので。自分らのご飯を作らないと!!そして義姉にも連絡〜。済んだらもう午後3時だった。疲れた。
あ!ヤバい。義母のらくれん牛乳と大人おむつを買ってこなくては!こだわりが強い義母は、銘柄にとてもこだわる。いやもうそれでないとダメなのですよ。
ってな感じでヘロヘロ。昨日は家庭菜園に行けませんでした〜。ね。ヤバい予感しかしない2022年でしょ?どうなることか。時刻はすでに午前6時45分。三日目が始まる。
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古い煙突が折れた!

2021年12月31日 12時29分14秒 | 香川県三豊市観音寺市
年も押し迫り今日は2021年最後の日となりました。
8月22日より神奈川から香川に引っ越しまして、私の日常は大変化。神奈川では日々ブログを更新していたのですが。香川ではなかなか時間が取れず。ネタはあるのに残念無念。たまの更新しかできなくなった私のブログですが、閲覧くださる方には感謝しかありません。
本来なら12月ともなればもう少し時間が取れるハズだったのですが。
トップ画像をご覧ください。
おかしいですよね?
ある日、洗濯物を干しててふと空を見上げて気づいた。
ヤバいかも??
すぐさまダンナを呼び煙突を指差していたら義母が私たちが騒いでるのに気づきまして。状況を把握。近所の建設会社に連絡しまして「煙突が折れたんじゃ!すぐに来てくれ」と。
見てもらった結果。
この煙突は既に機能してないやつなので、取り除くことにした。
「下ろすだけなら実費でいけるんですが。撤去となるとアスベストの煙突なので、撤去料として33000円必要です。と。
た、高い。
この煙突かかつてはお風呂の焚き付け用の煙突でした。今はボイラーに変化してるので、本来ならば使わなくなった段階で撤去すべきでしたが。お金もかかるからと放置してた結果。現在ではアスベストは発がん性のある〜となって撤去費用も高くなった模様です。
実はこの煙突は既に撤去済みなのですが。他にも問題箇所が見つかりましてね。

これ、おかしい箇所があるのですがわかりますよね?
そう屋根なのに太陽が見えてるんだ。
実は洗濯物を干す時に、雨よけに古い下屋の軒下を利用してます。が、そこが雨漏りするのですよ。おかしいでしょ?
で、わかりにくいのですが。上の画像の中央奥から左手前に伸びる木のところに木材が何本も乗せてありまして。それを一部退けてみたらば、折れてた!
上の画像でわかるか微妙なのですが。日の光が見えてる箇所の木が数本折れてます。
ヤバいやないかい〜〜。
ってな訳で、再びアスベスト煙突を降ろしてくれた建設会社に再度連絡。
と?
物干しの下屋の軒部分だけ撤去する。
下屋の奥の納屋も合わせて撤去する。
で2択の見積もりをお願いしました。その折に建設会社の人に、「納屋が奥に向かって倒れてる」と言われまして。
まさか!と思ったらば。柱が斜めってる。
嫁としては倒れかけの古い建物は危ないので壊せばいい!なのですが。ダンナと義母にはとても思いれのある建物でして、簡単には決められない〜とか何とか。
しかも!義母はどうせ家に手を入れるのならばと追加した。
曰く、自分の部屋のある建物の屋根瓦を吹き替えたい。
曰く、古い井戸を埋めたい。
となりまして、見積もりも追加〜。
で。このところ、納屋にぎっしり詰め込まれた義母と亡くなった義父の荷物を仕分けしてました。
熱出た。
一昨日かな?寝込んでしまった〜。
私の身体はやわかった。
とはいえ、冬になればしたいあれこれは納屋の荷物を片付ける作業に忙殺されてしまった。
けど、面白いこともわかる。
例えば、よくテレビで古い着物を買い取ります!的なCMがあるでしょ?
義母はええとこの長女だったので、嫁入りの時にタンスいっぱいに親に着物を持たせてくれたのですよ。何枚もしつけ糸がついたままの着物が出てきまして。
で、引き取り業者曰く「古い着物はいっぱい出てくる。値段が着くのは明治の着物。テレビ見て業者を呼んだら、売れるどころかこっちが金を払って処分してもらうことになる」と言われた。
あと、趣味が生花だった義母は花器を一杯持ってまして。それも処分したのですが。新品でも買い取ってもらえず。処分代を支払いました。
で、引き取り業者曰く「新品でも生花の花器は売れない。少し前まではベトナムに輸出してたこともあったけど」と言われた。
なんてこっタァ〜〜!!!でしたよ。
でも面白いあれこれも出てきたので、そのうち記事にしますね。ご期待ください。

今年はブログの傾向が私が引っ越して生活が変わりまして随分変わってしまいました。けどまだまだブログをやめる気はありません。のんびりペースですが、来年もよろしくお願いします。
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ナラ枯れが香川に来ちゃった!

2021年12月21日 18時48分28秒 | 香川県三豊市観音寺市
トップ画像は数日前の四国新聞のトップ画面を飾った記事です。
来ちゃったよ!!
私は今年の8月下旬まで神奈川に住んでいたのですが、近くの公園や雑木林ではナラ枯れで夏だというのに雑木林は紅葉してるようなレンガ色。
公園では手変え品変えで対策をこうじてましたが。効果はないままでした。
香川県三豊市山本町に越してきて、里山は自然の緑だったのに。まさかの!!
カシノナガキクイムシを撃退する妙案は見つかってません。香川も神奈川みたいに季節外れの雑木林の紅葉を見ることになるのか!!暗いニュースです。あ〜あ。
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植物は強い!

2021年12月18日 15時32分55秒 | 香川県三豊市観音寺市
義父が4月に亡くなり、私は8月22日に香川に越してきました。
神奈川の小さなマンションの荷物を田舎の一軒家へ。けども一軒家とはいえ義母は暮らしてるし、義父のあれこれもそのままでして、引越し荷物を入れるにはまず義父の荷物を片付けて。私たちが年末だけ暮らしていた田舎の部屋の荷物も移動させて。これを8月21日午後にやりました。
で。8月22日。引っ越しの時に神奈川で育てていた植物を温室に突っ込んだり。温室の周りに置いてしまいました。
いわゆる放置です。
これらの植物を思い出したのは数日後の夜。
ぽかっと思い出した後、冷や汗が。だって8月ですよ?温室の中は何度になってたのか!!
翌朝、明るくなるのを待って温室へ。そこには変わり果てたテーブルやしの姿がありました。
元々神奈川のマンションの天井に届くほど大きなテーブルやしでした。それは流石に〜と思い、高い部分を切り詰めてマンションの窓の高さにしたのが1年前。
この度引越しが決まりまして。引越し屋さんに植物の話をしたら、水やりを控えて〜的な話がありまして。この段階で、コンテナに植えてた球根は全部振り上げた。観葉植物、アロエ達は元々サボテン的なので、しばらく水を切っても大丈夫。けども真夏の温室に、水やりもせず数日放置されたテーブルやしは葉っぱがほとんど茶色に変色してました。
あ〜〜枯れちゃったぁ〜〜!!!!!
このテーブルやしは、結婚した時に友人から結婚祝いで頂いたやつ。大切に育てて来たのに〜〜〜〜〜〜!!
けども。私は諦めが悪いんです。
テーブルやしの干からびた部分をチョッキンと切り落とし、日陰がちな場所に起いて、諦め悪く水やりだけ続けましたらば。なんと!数日後には気づけば幹の途中から小さな芽が出てたのですよ。
もしかしたら!!
と。期待して復活!!
トップ画像です。
地面に置いた白い鉢植えのが復活したテーブルやしです。
ちなみに、奥のテーブルの上に並んでるのが神奈川から連れてきたアロエ達。
これさ。今年は株分け出来る位に育ってたのですが、引越しするから株分けせずに待ってたのですよ。
で。確か9月に入ってからかな?こちらの環境にアロエがなれたかな?と思う頃に株分けしました。サボテンが趣味の義父が大量の植木鉢を残してくれたのでありがたく使わせてもらいました。
ところで、ここ実は温室なのです。義父の趣味がサボテン育成でした。それはもう達人で、先日義母が義父が受賞したトロフィーや盾を捨てるというので手伝ったらば、県知事賞などがたくさんありました。で、温室も3棟も持ってたのね。けど体調を壊した時に義父は自分でサボテン仲間にあれこれ譲って2棟を処分。1棟のみ温室を私用に残してくれたのですよ(葬式の時に確認したら温室の中は残骸しか残ってなかった)
で、です。義父は4月に亡くなり。誰も温室に入ってなかったのですがね。8月末に私が温室の掃除をしようとして魂消ました。まさかの生き残っていたサボテンがあったのですよ。とはいえ、枯れたコンテナに所々緑色のサボテンらしき葉っぱが残ってたの。
もしかして!?
慌てて鉢を温室の外に出す。で、緑色のものを拾って鉢に植える。
一番下の棚の奴。上の段の真ん中の奴。全部温室で生き残ったやつです。
こちらの手前の2鉢も生き残りです。拾って取り敢えず鉢に植えて鉢の表面が乾いたら水やりをする程度でしたが。生き残った。背後のやつなんかまさかの花が咲きました。多分これカランコエじゃないかなあ?
ちなみに、鉢植えにしたけど結局枯れてしまったやつもある。おそらく私が適当に鉢の土を作り、合わなかったと予想。
とりあえず生き残ったものは小さい株なので、しばらくはこのまま放置です。品種名もわからないところが辛い。株分けとか。植え替えとか。まだ先延ばしです。
ちなみに、義父にもらった温室は現在義母が「壊す」と思い出したようにいうので、役立つアピールをすべく、花の苗を育ててます。
うまくいけば3月のお彼岸。もしくは義父の法事の時には花を咲かせたい。
ちなみに、上の植物は春菊。どんな花が咲くか?とコンテナに間引きした苗をダメもとで植えたらラッキーにも根付いた。
食べごろだと思う。花が咲くのを待つのもいいけど美味そう〜。
おまけ:
左の鉢はピーマン。
ピーマンは霜に当たると枯れると聞き、枝葉と根っこを剪定して鉢に植えた。うまくいけば来年もピーマンが食べれる。ピーマンてさ、実は多年草なのでうまくいけばいけば!!頑張れ〜!!植物の生命力を信じてみよう。
コメント (2)
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辰巳の正月

2021年12月15日 22時15分52秒 | 香川県三豊市観音寺市
しばらく更新できてない〜。
今年4月に義父が亡くなりまして。となるとですね。私が暮らす場所では新仏のお正月に親戚が集まりお参りする風習があるのです。
辰巳の正月は12月最初の巳の日。今年は12月11日でした。辰巳の正月は正確には辰、巳、午の日にかけてあれこれします。らしいです。
ちなみに、宗教ではなく民間の風習らしい。かつては辰の日の深夜にお墓に出向き、そこで餅を焼いて食べたとかなんとか巳の日の参りに集まった親戚に聞きましたよ。マジで!?ですよねえ。行事が人々の楽しみだった時代ではともかく、イマドキは年寄りが12月の深夜にやる行事じゃないよね。ってなことで、どんどん簡略されてる行事らしい。けど、自分ちでやるとなると結構大変です。
義母もね。年だけは取ってるのですが、自分ちで辰巳の正月の行事を自分でやったのは義祖母が亡くなった20年まえだとか。記憶が曖昧な箇所が。ちなみにその頃は神奈川県在住だった私は義祖母の辰巳の正月に出てません。今回が初めて。
で、トップ画像ですよ。謎のお豆腐。それに箸を立てるというのでお豆腐を買ってきて割り箸をぶっ刺しました。
で、亡くなった人のお正月なので、お餅も用意。
ちなみに、かつてはお餅は自分ちでついてたと親戚のおばさんに聞きましたが。イマドキは実家へ発注しました。そうなのね。私のペンネームが「あられ」なのは、実家があられ屋だからです。で、あられ屋は12月ともなるとお正月用の餅を作るのです。
それはともかく。トップ画像です。不祝儀袋がありますね。そこに「豆腐料」と書いてあります。巳の日に参りするとお豆腐料を持ってくるのですよ。ちなみに。香川県では直近で一月コロナ患者が発生してません。けども。年配者の親戚を一同に集めるのはよくないので、近しい親戚だけに連絡して「皆さんの都合に良い好きな時間にお参りください」と案内しました。
ちなみに、お参り下さると、お豆腐料のお返しに、お餅6個入りのパックを渡します。
今回はお茶とお茶請けに三笠を用意。本当は心ゆくまでお話ししたいけども。コロナが怖いので、皆さん早々に帰られました。お参りも一家に一人のみで来る心遣い。頑張って用意したので短い滞在はだいぶん残念です。
ちなみに、一家に何人お参りに来るか?どこの家が来るか?予想したけど当日にならんとわからんので、最大値でお餅も三笠も用意しました。〜〜だいぶん余った!だいぶん悔しい。
ちなみに巳の日参りの翌日は午の日で本当はこの日にお祝いするそうです。今回は簡略とコロナ予防いうことで午の日の祝宴は取りやめました。けど丁寧な親戚は午の日の祝いが祝儀袋に入れてあった。香川は日本一狭い県ですが、場所によって風習に違いがあります。義姉が嫁入りした土地では、巳の日のお参りに来てくださった方にお餅でなくお菓子を渡すそうです。
さてと。12月11日の巳の日参りが終わったら次です。
まだまだ雑草抜きが続いてます。理由はこれ。

12月だというのに!!家庭菜園の雑草に花が咲きました〜〜。
雑草はね。花が咲いたら負けなんだ。花が咲いたら種が出来るんじゃ!!
12月になったら枯れるだろうと。雑草を放置した私が悪いんだぁ〜〜!!!
連日雑草と闘ってます。種がつくまでのタイム戦。まさかの!どこまで農業育成ゲームなんじゃ!泣くぞ。

一方12月なので、夜は冷える。霜が降りたら枯れる野菜もあるのですよ。
ちなみに霜は最低気温が3度を下回ると降ります。けども天気予報の気温は地面で測らない。野菜が植わってる地面近くでは天気予報の最低気温が5度でもアウト。なので、サニーレタスの苗と春菊にはトンネルをかけてます。が、私がビニールでなく不織布を買ってきたので、何とか霜だけは降りてないけどサニーレタスの苗はちっとも育ってない。もやってられん!家庭菜園にかかる時間がぁ〜〜!!!
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