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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

清閑亭

2011年11月12日 05時46分23秒 | 箱根・小田原周辺
「小田原は明治に入ると、全国でも有数の保養地として注目されるようになりました。
まず明治20年代には、海岸保養施設が数多く作られたほか、時の首相伊藤博文などの有力者が西海子などの海辺に別荘をかまえるようになります。
ついで明治30年代になると、元の小田原城が御用邸として整備(明治34年(1901)されたのをはじめ、皇族の重鎮閑院宮家、元首相、陸軍元帥の山縣有朋(古稀庵)、三井財閥を支えた益田孝(掃雲台)が小田原に別邸を設けたため、これらの人々とゆかりの深い要人たちが次々と別邸、別荘をかまえました。そのうちの一人、山下汽船(現商船三井)創業者、山下亀三郎の別邸では、「坂の上の雲」の主人公として知られる秋山真之がその生涯を終えています。
この時期の別邸、別荘は海辺だけでなく「天神山」や「板橋」といった箱根からつづく尾根の斜面に広がったのが特徴です。山縣や益田のもとには、日本を代表する茶人たちも集い、四季の移ろいや旬の味をめでる席が設けられ、小田原は茶の湯の一大中心地となってゆきました。
さらに、戦後の小田原の庭園を代表するのが、電力業界の礎を築いた松永安左エ門の別邸、老欅荘です。松永は戦前、益田孝から茶の手ほどきを受け、益田が亡くなった後も、長く小田原で過ごしました。益田と松永は近代日本三茶人の一人とされ、三茶比とのうち二人までが小田原を拠点としていたのです。」以上、清閑亭のパンフレットより抜粋。
これを読むと、小田原の明治の邸宅巡りしたいよね~。
前出の文中の伊藤博文の別荘滄浪閣(1902年9月の小田原大海嘯で流出)や閑院宮家の御別邸。山下亀三郎の別邸対潮閣。益田孝の掃雲台などは既に現存してません。また、山縣有朋の別邸古稀庵は、流水庭園のみ有料公開で、建物は移転されてます。現存してるのが少ないのは残念ですが、跡地なりとも見てみたい~~。
また明治&大正と贅を尽くして建てられたこれらの建物にとって致命的だったのは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災の影響です。
関東大震災の震源は、相模湾の北東部でした。小田原や鎌倉、横浜は震源に近くて壊滅的な被害を被りました。今鎌倉が世界遺産への登録を目指しているらしいですが、関東大震災で鎌倉の寺院や町家は大被害を受けてます。鎌倉、室町、江戸の歴史ある建物も被害を受けて運のいい建物しか現存してません。
最近震災で消失した物件、をありし日の姿に復元するのが流行りのようでいくつか復元されてますけど、どうだろうなあ~。よほどプレゼンをうまくやらないと難しいと思うんだよねえ。
うまく…。そうだなあ。谷戸と寺と信仰(やぐらを含む)とか昔の道(切り通しや7口)の古の往来を偲ぶといった方向押し!はどうだろう~。
寺で押してもかつての境内を想像出来る程残ってる寺は数える程しかないもんな。鐘楼と鼓楼が揃ってる寺ってあったっけ??伽藍のある寺もほぼない…江ノ島の滝口寺くらいか?庫裏と本堂と講堂と…。や、私もあんまり寺の主要パーツに詳しくないんであれですが…。鎌倉を訪れた観光客がまず思うのって「寺がショボい」だと思うんだよね~。あ。いかんいかん。鎌倉を小田原の記事で語っている場合ではない。清閑亭ですよ。
ではさくさく画像を公開します~~。
 
気分は盛り上がって参上したのですが、当日は邸内で絵の個展が行われており、絵の撮影が禁止されていたんです。室内に展示してあったので、清閑亭の内部の撮影が出来た場所も少なく、また、かつての食堂の部屋を利用して、なにかのカルチャー教室をやっていて、そっちも近づけず…。

かつて居間だったところは、ティールームになっていたんで、ぜひとも居間から見える小田原の海を望みながら室内の設えを堪能したかったのですが、先客がいたんでそれも無理~~という有様。
小田原文学館で1時間半も過ごさずに先に清閑亭をめざすべきでした。
唯一静かだったのはお二階の書の間でした。

画像奥にかつては山下亀三郎の対潮閣がありました。…ということは、秋山真之が人生の最後に見た風景もこんな感じだったのかも。現在は建物が海を大分遮ってしまっていますが…。
客間の床の間。天上板は屋久杉を使用。
あれ?
これって…。「旅順」って書いてある~?な~ぜ~に~~!?
説明文発見!「渓水金子堅太郎詠、筆…日露戦捷ノ詩
金子堅太郎は伊藤博文に仕え、明治憲法や民法などの原案を作り上げた人物。
日露戦争では、アメリカで直接ルーズベルト大統領と折衝にあたり和平の成立に尽力しました。金子が大統領と折衝できたのは、若い頃、出身の福岡藩飼田家の援助でアメリカに留学、大統領とハーバード大学の同窓生だったからです。金子はまた黒田長成侯爵のケンブリッジ大学留学を助け、飼田家の財政顧問をつとめるなど、黒田侯爵とも深い親交で結ばれていました。
この軸は、金子が滞米時、旅順陥落の報を聞き、立役者、乃木希典に捧げた自作の詩。」だそうです。
へえ~へえ~へえ~。
明治の人にとって、日露戦争はやはり大きな出来事だったんですねえ。あちこちの場所で名残を見かけるものな。
ちなみにWIKIで検索かけたら、金子堅太郎はNHKの「坂の上の雲(第8回)」でも登場してました。演じたのは緒形幹太(父:緒形拳、弟:緒形直人)さん。金子は「伊藤博文の懐刀」とも呼ばれた人でした。
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瓜生外吉の胸像

2011年11月11日 05時48分46秒 | 箱根・小田原周辺
秋山真之終焉の地であった対潮閣跡地より、西へ約100メートルの所に山角天神社があります。
そこの急階段を上がっていると、階段の左手に胸像があります。瓜生外吉の像です。
wikiで調べましたら、この人物は加賀藩(石川県)出身で6年間のアメリカ留学経験があり、海軍で艦長を歴任。日露戦争当時海軍に所属し、第4戦隊司令官を務めていた人で、仁川沖海戦で勝利。1907年(明治40)には男爵を授けられておりました。
1914年(大正3)にはパナマ運河開通記念博覧会に日本代表として参列。1927年(昭和2)の退役。
山角天神社の近所に邸宅があったので、「瓜生坂」の名前がついた坂も残っている。


次の目的地は黒田長成侯爵の別荘だった「清閑亭」です。
でもさ~、もしやせんでも坂を上らないとダメなのね…。
う~む。小田原明治の邸宅を巡るお散歩コースの訪問地の順番設定を間違えたか…。つーか、まさかここにこんなにキツい坂があるなんて~。ぼやいてもダメなので、気合いを入れて進むほかありません。

根性入れて上る結構な角度の坂を上がると、学校が見えた。でもコレ、廃校?使ってる形跡がないような??

そんなこんなで到着した清閑亭です。立派な石の門構えの入り口を抜けていくと、風格ある日本家屋が見えてきました。
清閑亭は平成17年(2005)、建物が国の有形文化財に登録され、翌年には敷地が国の史跡に指定されたのち、平成20年(2008)小田原市の所有となりました。
開館時間:午前11時ー午後4時(毎週火曜休館)
入館料;無料

ここ数日雨が降りそうで降らないという状態が続いてて、自転車で出るのは不安がある。そんなこんなで昨日はフォトチャンネルを作ってました。
そもそもは先行記事を作成していたんですよ。それが、またもレトロ建築物巡りだったのです。んで、ふと思ったのね。
私、レトロ建築物ってもう相当数見たよね?どんくらい見てるんじゃろ~と。
んで、ついつい画像フォルダを遡ってしまいましたっ!どんどん出て来ました。それでうっかり「レトロ建築」で新たなフォトチャンネルを作成してしまいました~。
ところがところが…。フォトチャンネルに登録出来る画像ってMAX100枚ぽっきりだったんです。しかも既にいくつもチャンネルを作ってて、ブログの左の柱にも載ってない~。んでテンプレート編集にまで手を出してしまった~。ついでに言えば、登録出来るのが100枚ぽっきりだったので、レトロ建築の所在を東京&神奈川&川越に限って抽出。それでも昔の画像は100枚を超えて登録出来なかった~~っ!!
1カ所1枚の抽出ならば、建物の外観優先で、画像登録なかった建物のみ内部画像も~というセレクトで作ってしまいましたっ!
よかったら見てやって下さい。このフォトチャンネルに掲載してる画像は、画像フォルダを利用して作成したので、気になった画像はブログの右肩にある検索欄を使ってみて下さい。キーワード設定によっては該当記事がヒットしないこともあるのですが、建物名でキーワードがヒットしなかった場合に備え、画像毎に撮影地を記載してあります。
東京神奈川川越レトロ建築

こちらが作成したフォトチャンネル。昨日の午後いっぱいをかけてしまいましたまさかそんなに時間がかかるなんて…。集中して作成したせいか、半日で口の中に口内炎が出来たっ!!あ~り~え~な~い~~っ!!
レトロ建築の画像は100枚以上あったので、そのうち「レトロ建築Part2」を作りたいですね。   人気ブログランキングへ


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「坂の上の雲」秋山真之終焉の地

2011年11月10日 05時25分23秒 | 箱根・小田原周辺
小田原文学館を出たのは11時30分を回ってました。ハイ、私ここに1時間半もいたんです。どんだけ気に入ったんじゃ~~。
あ。そうだ!レトロ建築巡りのポイントの一つにトイレチェックがあります。
レトロ建築公開といっても、外観のみ公開してることが多い。
内部公開の場合、トイレなどの水回りは使用禁止の場所も多い。中にはトイレはかつての場所に。でも今使えるのは別に増築してます。みたいなのもあります。でもまれ~に、かつてトイレがあった場所を改修して現在の水洗便所を作りました!というのがあるんです。これ、要チェック!なんですよ。配管の場所はかつてのままなので、近くにバスルームや台所がある場合もあったりして…。わかりやすいチェック方法は、大便用の空間の狭さです。日本人は最近大きくなりましたからね。明治時代の人は栄養状態が悪かったのか、あんまり体格のいい人少ないので、トイレ空間が小さいんですよ。これ、私的におすすめです。この小田原文学館を訪れたら、ぜひトイレに寄ってみて下さい。結構感動ものです。

さて、西海子小路を西へ。100メートルほどいくと、「静山荘」があります。
説明板発見。
「静山荘は、明治25年に建築された民家を長年財界で活躍した望月軍四郎(1879-1940)が昭和14年に上府中村から現在地に移築した別荘です。
この建物は日本農家を別荘にした珍しい建物で、書院作りの屋敷と、民家風の広間が良く調和しており、材料的にも技術的にも高い価値があります。屋根は日本瓦葺きで、落ち着きと優雅さを見せています。棟瓦についている九翟の紋は、所有者である望月家の家紋です。欅材の大梁、柱、神棚は大きく、太く、がっしりとしていて重量感があり、手入れが非常に行き届き、欄間は概ね建築時の組子欄間で細工が見事です。
庭は、小田原では珍しい苔庭で、広く味わいの深いものになっています。手入れの行き届いた老樹、石灯籠、九重の石塔は落ち着いた雰囲気を醸し、重厚な建物の奥行きを引き立てており、外の世界を遮断した一つの独立した空間を醸し出しています。
望月軍四郎(実業家)
明治12年静岡県に生まれる。明治26年に上京し、明治43年には望月証券株式会社を開設した。大正7年に業界を代表して米国に派遣さて、ニューヨークの株式会社を実情ちょうさして帰国した。教育界にも関心を示し、大正8年成城学園に中国人留学生の寄宿舎建設費を寄付したのを始め、大学や学術研究機関に多額の寄付を継続した。大正13年には田口銀行頭取に就任し、以後、帝国商業銀行専務、日清生命保険社長を歴任した。昭和5年には京浜、湘南鉄道の取締役会長となり、京浜電鉄と連帯運輸を開始し、昭和8年には京浜線の品川駅乗り入れを実現し、品川、浦賀間を結ぶ京浜急行の基礎を築いた。昭和15年死去。享年61歳」
な~るほど!そんなに立派な人が落ち着いた日本家屋の静山荘に暮らしていたのか~。でも心から残念なのですが、現在非公開なんですよ。未だこちらで暮らしてる方がいらっしゃるんですかねえ~。

静山荘そばの小道を北へ。
この辺りに三好達治の旧居址があるハズなんですが…。
ありました。これです。
でも、面影は全くありません。
すぐに国道1号線に着きました。毎年正月に箱根駅伝をやってる場所です。たしか、たすきリレーをしてるチェックポイントもこのあたりなんだよね。

さ~て!
お次は、一番行きたかった場所です。
MHKのドラマ「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)の主人公、もっくん演じる秋山真之(1868-1918)の終焉の地です。

でもねえ~。実存してないんだよね。

この玄関へ続く石組みは名残ですかねえ?…わかりません。

道路から見ると、少し小高くなっていて、樹が見える辺りに秋山真之が没した「山下亀三郎の旧邸」がありました。もしかしtsら、上の画像の下部の石組みはかつての名残やもしれない…。
山下亀三郎(1867-1944)は、山下汽船(現商船三井)の創業者で、秋山真之とは郷里が同じ伊予(愛媛県)で友人です。

上の画像にあるように、秋山真之は、こちら山下亀三郎の別邸である対潮閣から箱根板橋にある山形有朋の別邸「古稀庵」を散歩を兼ねて訪ね、国防論について議論を交わしていたんですって。
対潮閣は山下亀三郎がこの地の別荘を譲り受け、山県有朋に庭園づくりを依頼、「対潮閣」の名前も山県有朋が名付けたんだそうですよ。

wikiによりますと、秋山真之の死因は盲腸。相模灘の朝日をのぞみながら亡くなったそうです。
腹膜炎ですかねえ~。今では盲腸といえば、日帰り手術なんじゃないの?でも彼が死亡した1918年(大正7)2月4日未明…。その時代には命に関わる病気だったんですね。JIN先生に盲腸の手術してもらった西郷隆盛…という具合にはいかなかったんですね。ドラマでは第2部で秋山真之は日露戦争の始まる直前に若いお嬢さんを嫁にもらってましたが、え~と、日露戦争は1906年頃のことだから、結婚生活は10年ちょっとしか続かなかったのね。
とか、ついついおばちゃんは計算しちゃったよ~。
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北原白秋童謡館

2011年11月09日 05時06分50秒 | 箱根・小田原周辺
田中光顕の洋館は小田原文学館になってます。同じ敷地内にある和館(大正13年)は北原白秋の童謡館として使用されています。
あれ??今年の1月下旬に城ヶ島を訪問した時に、橋の下に北原白秋の記念館があったような…。なぜに小田原にもあるんじゃろ??
 
「福岡県柳川市に生まれた北原白秋は、大正7年から同15年までの8年ほどの間を小田原ですごし、この間に全童謡作品の半数近くを創作しています。これを記念して、童謡集や童謡原稿など、白秋の童謡創作に関わる資料を展示しています。」以上、小田原文学館のパンフレットより抜粋。
実は10時過ぎに和館の方を訪れた時、まだ係の人が来てなかったのね。んで、資料を見てましたら係の人が到着しまして、ようやく入館料を支払うことが出来たんですが、あ。この北原白秋童謡館と小田原文学館と尾崎一雄邸書斎は、全て同一の旧田中光顕の屋敷の敷地内にありまして、観覧料は250円の同一料金で見る事が出来ます。
昨日の記事と矛盾してるのは、実は先に和館の方へおじゃましたからです。入館する時に、正面から入らず、駐車場から入ったので、道なりに進んだら、文学館の建物の庭へ出てしまい、更に道なりに進んだら、和館に到着したんだよね。
チケット代を支払っていると、係の人が2階で「童謡のふるさと小田原ー白秋が愛したまち」などのビデオ放映があります」と声かけていただいたので、早速あがりますと、これがいいんです。訪問したのは9月でしたが、台風が近づいているせいか真夏日!でした。30度超えっ!!
畳の座敷に机と掘りごたつ式の腰掛けて座れて、いい風が通るんです。かつては窓から海も望めたんですかねえ~。今では庭木が大きくなってしまい、海側の視界は遮られてしまいましたが、入ってくる風がとても気持ちいいんですよ。白秋の人生と童謡のビデオを2本見たら、30分ほどかかったんですけど、もう~~このままお昼寝しちゃいた~~~いっ!!という誘惑にかられてしまい、振り切るのが残念な程でした。
受付で礼を述べ次ぎに向かったのは同じ敷地内にある尾崎一雄邸書斎です。

家はこんな感じの見取りです。

尾崎一雄は昭和58年3月、惜しまれつつ死去した小説家。小田原の下曽我にあった書斎を平成17年に移築。
可能な限りもとのお部材を活かしており、室内の調度品類もすべて尾崎家から寄贈されたものです。
なんかねえ、私の最近のマイブームがレトロ建築巡りなので、古い建物は結構な数拝見してますが、建物だけ。せいぜい大きな家具がいくつか置いてあるだけという建物が多いんです。というか、本とか服とか食器といった生活用品が置いてある場所はまれです。こちらば全てまるごと展示してあるんです。
たまに●●先生のアトリエを再現しました。というのはあるんですが。例えば青山の岡本太郎の私邸を美術館として公開してる岡本太郎美術館とか、上井草のイラストレーターのいわさきちひろさんの自宅跡に建っているちひろ美術館とかとかとか。
でもこの尾崎邸はローカの奥から尾崎一雄がひょいと出てきそうな雰囲気があります。机に座って先生が今にも執筆に取りかかれる雰囲気ばっちり!

今朝のワイドショーで、年賀状の文面について話題にしていました。
曰く「来年の年賀状に『あけましておめでとう』とは書けない」という事らしい…。
そ、そうだよねっ。ちっとも考えてなかったですが、大震災&原発爆発と放射線漏れ。さ~ら~に~台風による風害&水害と、今年は散々だったし、来年に至っても生活のあれこれが大変な状況が想像される折り、『あけましておめでとう』はナイかもな。
どっしょっかな~?
実は今年の9月に私のMACがぶっ壊れてしまい、新しいMac Book Airがやって来たんですが、ソ、ソフトがな~いっ。
以前使っていたMacはなんの前触れもなく突然壊れて、中のソフトのあれこれもふっとんだのね。今までは年賀状の作成はイラストレイターで作成してたんだよね。や。今までの年賀状の文面はプリントアウトしてるから、最悪年号の2012年だけ書いて、添付する写真だけ変えて使い回してしまえっ!と姑息な手で乗り切るつもりだったのですが(おいおいおい)、『あけましておめでとう』が使えないとなると事情が変わる。ここは一つ、何かソフトを購入すべきか?購入するならどんなソフトがいいのか??思案のしどころだわ~。   人気ブログランキングへ

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龍馬暗殺現場に駆けつけた?

2011年11月08日 05時39分43秒 | 箱根・小田原周辺
道が大蓮寺に突き当たったので、そこから北東(海と反対側)に進んだら、何やら趣きのある道へ出た。
トップ画像がそれです。
さっきの伊藤博文の屋敷跡の前の道と比べると、全然広いんですけど~。映画とかに出てきそうなんですけど~。
調べたらこちらは「西海子小路」という道でした。両側に植えてある並木は桜の木です。桜の季節にはさぞ童話に出て来そうな感じになるんでしょうねえ。
道なりに進んで到着したのは、小田原文学館です。

こちらはかつて龍馬暗殺現場に駆けつけた幕末の志士で田中光顕(1843-1939)の別邸でした。
昭和12年建築の当時流行した南欧風の洋館です。
田中光顕は土佐藩の郷士で、幕末に奇兵隊の客分や、陸援隊の隊士として名をはせた。明治維新後は、初代内閣書記官長(現官房長官)や警視総監、宮内大臣などを歴任した伯爵です。伊藤博文や山県有朋の側近でした。

7月だっけ?NHKの「美の壷」という番組の中で登場していました。3階のベランダに出ると、
 
なるほど、南欧テイストです。色のついた瓦がそれっぽい。
「美の壷」の中で、草刈正雄さんが、丸いベランタのかべにつけてある鉄の輪に、テントを張っていましたが、なる程船の帆に見立てる場所です。潮風だって吹いてくるでしょうし。
足を洗う場所ですかね?昭和の初めにベランダにこんなものを備え付けてるのがおしゃれ~。
こちら文学館入り口です。入り口の屋根にある煙突にコケがついていて、なにげにメルヒェン。
中に小田原ゆかりの文学者のあれこれが展示してあります。1階には小田原出身の文学者、北村透谷、尾崎一雄、川崎長太郎、北原武夫らの小説家のもの。2階には谷崎潤一郎、三好達治、坂口安吾らのもの。でもねえ~、も。全部忘れてしまいました!
なぜって、文学館の一角にミンキー=モモのアニメの台本や、ポケットモンスターのミュー2復讐するは我にありの映画の台本。更には私が若かりし頃大好きだったゴーショーグンのアニメに出て来たヒロインのセル画なんかが展示してあったからです。
首藤剛志さんの作品のあれこれですね。こちらに寄贈されていたんですね。
ってゴーショーグンって知ってる?ブンドル様とかケルナグールという…。いわゆるロボットアニメなんですが、敵方のブンドル様が好きでした。懐かしいなあ。音楽も好きだったんだよねえ。再放送してくれないかしら?
さて、文学館の庭の片隅に、かつて小田原城においてあった北村透谷のでっかい石碑が鎮座してあります。

この石碑は去年の12月まで小田原城にありましたが、馬屋曲輪整備事業に伴い移設されたそうです。
碑に刻まれた字は、透谷を尊敬していた友人の島崎藤村の筆によるものです。北村透谷は明治の初め、近代浪漫主義文学の先駆者として大きな功績をあげましたが、27歳の若さでなくなりました。
田中光顕の別邸の敷地には洋館だけでなく和館もあるのです。和館も素敵~。
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伊藤博文別邸跡

2011年11月07日 05時32分48秒 | 箱根・小田原周辺
御幸浜を西へ。
見えて来たのは正恩寺の鐘楼門です。
『正恩寺…正恩寺は、法性山妙賢寺と号し、真宗大谷派東本願寺の末寺です。平重好入道了願が、尾張国(愛知県)海東郡富田庄に創建したもので、後に、専信の時、三河国(愛知県)額田郡土呂に移されました。天正18年(1590)、大久保七郎右衛門忠世が遠州(静岡県)二俣より転封されて小田原城主となった際、その子忠麟の室妙賢院(石川日向守家成の女)は、日頃より帰依する正恩寺の僧信賢を小田原に招き、文禄2年(1593)には三河の寺をここに移し菩提寺としました。よって信賢を中興開山とし、妙賢院を中興開基としています。このようなことから、当時から尾三相州転遷之道場と呼ばれています。
寺内本堂脇には、中興開基妙賢院(妙賢院円空禅尼、寛永元年9月29日卒)の墓所と、その傍らに、忠臣杉浦惣衛門政吉の墓があります。近年、作家故吉川英治の先祖(小田原藩士)の墓が寺内墓地から発見されました。
入り口の鐘楼門は、平成4年11月2日、市指定文化財に指定されています」
地図によりますと、この辺りに伊藤博文の屋敷跡があるハズなんですが…。どこだろう?
というか、この細い道で合ってるのか??
だって、この道は細すぎて車が入って来れないよね?
あれ?
伊藤博文っていつ頃暗殺されたんだっけ?確かNHKの「坂の上の雲」で加藤剛さんが演じていた人が伊藤博文だったから、日露戦争の時の人だよね。
調べました!
伊藤博文は1841年ー1909年が生存年です。
あ!これっぽいぞ。
滄浪閣!これだっ!!
こちらは民法発祥の地とも呼ばれてるようです。
でもね、今は…。なんか、どこかの誰かの家の敷地っぽいです。
トップ画像の胸像と入り口の石組のみに名残を止めているようです。
あの時代ってまだ自動車って一般的じゃなかったっけ?
伊藤博文はしばしば小田原の海岸の旅館などに滞在していたが、1890年、別邸滄浪閣をかまえ、日清戦争への対応や民法の起草などの重要課題にあたった。その後、大磯に同名の別邸を建て転居。小田原にあった建物は、1902年(明治35)9月28日に発生した小田原大海嘯で流失してしまいました。残ってる写真を見ると、2階建ての洋館なんだけどねえ。
ーーって小田原大海嘯って何?
調べました。いつものwikiで。それによりますと、折しも襲来した台風の波にやられたそうです。6メートルの波が2時間に渡り神奈川の海岸を襲ったようで、根府川から小田原。大磯と大被害を受けたようです。
へえ~へえ~へえ~っ。

道なりに西へ。細い道の突き当たりに、大蓮寺がありました。この辺り、お寺さんが多いようです。
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御幸浜の由来

2011年11月06日 05時55分09秒 | 箱根・小田原周辺
小さなトンネルをくぐるといきなり海岸でした
トップ画像は西。伊豆方面。
こちらは東の鎌倉方面。
時刻はまだ午前9時27分。いい風です。波がちょっと荒いのは、遠くこの海の南で台風が停滞してるからやもしれません。大きな石を組んであるのは、波消しの為なのでしょうか?でも大きな石の上で身体を焼いてる人がいまして、とっても気持ち良さそうなんだよねえ~。私もこの近くに住んでたら、つばの広い麦わら帽子をかぶって、文庫本と枕持参で石の上に寝転んでいたいですねえ~。

う~む。時節柄、ついついこの手の看板はマジ読みしちゃうなあ~。
せっかくなので、海岸の波打ち際に沿って西へ進んでみます。
あ。登り口の階段を発見!

あ。ここは海水浴場なんですね。でもこんなに波が強いのに、子供が泳いで大丈夫なのか??
ここ、普段からそこそこ打ち寄せる波の力が強いんじゃないの?だって砂浜ないよ。海岸に砂が溜まらないってこちは、波が強いからじゃないのか??それとも砂浜がないのは、もしかして3月の東日本大震災で、もともとあった砂浜が削られてしまったのか??
………。
や。今日は小田原の明治の邸宅散歩が目的なので、そこんとこは詮索しない方向で。

海水浴の注意の看板の向こうに、木の柱を見つけました。その前に説明板がありました。
「御幸の浜由来…明治6年、明治天皇は、皇后宮とおそろいで箱根宮の下に避暑に赴かれたが、その際当地にお立ち寄りになり、8月3日清水本陣にご宿泊になった。
翌4日は、天気晴朗、宿をお立ちになった陛下は当海浜において漁夫の地引き網をご覧になった。
以来、この浜は明治天皇の行幸を記念して「御幸の浜」と称せられている。」だそうです。
御幸浜って変わった名前だと思ったけど、そういう由来だったのね。
へえ~へえ~へえ~!!人気ブログランキングへ

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小田原宿なりわい交流館と本陣跡

2011年11月05日 05時18分02秒 | 箱根・小田原周辺
松原神社の正面側の階段を降りたところで、参道らしき道の奥に時代がかった建物が見えた。
今回は明治の邸宅を巡るのが目的なので、時代を帯びた建物には興味がある。
いそいそ依って行くと、トップ画像の建物がありました。
あ。立て看板発見。
「小田原宿なりわい交流館…この施設は、昭和7年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の皆様の『憩いの場』として、平成13年9月に開館しました。誰でも立ち寄れる『お休み処』や市民活動の発表の場として、気軽にご利用いただけます。 
開館時間…4月-10月 10:00-19:00 11月-3月 10:00-18:00
休館日…年中無今休
入館料…無料」
そうなのか。いいなあ。
え~と?今、何時だっけ?
………午前9時16分!!
まだ~開いてない~~。
建物は出桁造りです。
出桁造りとは、柱の上に載せた太い桁を店の前面に何本も突き出し、そこに軒や屋根を載せた江戸時代から続く伝統的な商家の建築方法。
閉まってるので、内部の様子はわかりません。
こちらは建物の後ろ側ですが、午前の太陽の光に照らされて木の風合いがよく観察出来ました。

さて、次は~?
あれ?地図によるとこの近所に『明治天皇宮ノ前行在所跡』というのがある。どこだろう~?

ありました!説明の立て看板もありました。『明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。正碑は高さ2、73メートルの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑には由来が刻まれています。
清水金左衛門本陣は、小田原宿に4軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行っていました。本陣の敷地面積は、およし240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられました。
明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)10月8日の御東行の際を初めとして5回を数えます。明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和15年に整備工事を着手し、昭和15年10月に落成しました。」だそうです。
小田原宿なりわい交流館の裏手を撮影し、ふと見るとそこは昭和レトロな細い道でした。
ウキウキとそぞろ歩く。

普通の民家のようなのですが、こんなに素敵な建物がっ!!
ああっ!!
あれに見えるのはもしやして~~っ!!!

海ですっ!!
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小田原明治の邸宅散歩

2011年11月04日 05時59分16秒 | 箱根・小田原周辺
今年の5月頃のこと。もうすぐあじさいと菖蒲の季節だから、今年こそ小田原城のお堀のあじさいと花菖蒲の奇麗な季節に訪れたい。次いでの司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公、秋山真之終焉の地へ行きたい~。と思い立ち調べました。すると、小田原には明治時代に保養地や著名人の別荘として栄えた歴史が見えてきた。
これは~。ぜひとも現存する明治時代の邸宅やお庭を拝見しに行かねばっ。でも私に知識が乏しいのは遺憾ともしがたい。
頼ったのは小田原市の観光協会です。川越や姫路城の観光の折りにも観光協会のホームページはとても役立ったので、ダメもとで「『坂の上の雲』ゆかりの地の巡りたいので、資料や地図があったら見繕って送って下さい」との旨をお願いしたら、どんピシャリのチラシと地図が送られて来ました。
ところがその後、夏コミに当選しておでかけどころでなくなってしまい、アジサイと花菖蒲を諦めちゃったんですよ。でもおでかけ資料はもう揃えてあったんです。7月8月と体調不良で、おでかけが出来なかったのもあって、9月に体調が戻ったら、リハビリしたい。場所は~?と考えることもなく向かった先は小田原!
てなことで、今日よりしばらく、小田原の明治の歴史散歩の記事の連載を始めます。
ついでに、「小田原」カテゴリーを新設しました。小田原には何度も足を運んでるのに、今までカテゴリーを独立させずに歴史散歩&花散歩&お城のカテゴリーに分散させてあるんですよ。検索するにも不便なんで、ここらでカテゴリーを独立させようと思います。でも『小田原城』関連の記事は、お城のカテゴリーのままにしてあります。
好きなんです。お城。だから、私的に「小田原」で検索するより、「お城」で検索かける方が頻度が高いと思うので。
これに伴い、「旗」のカテゴリーを「看板&ポスター」のカテゴリーに吸収させました。gooのカテゴリーはMAX30個なんです。ぼちぼち限界。なんであんまり検索のなさそうな「旗」のカテゴリーは廃止しちゃいました。
では、9月18日の小田原散歩の開始~~

小田原駅に到着したのは午前8時半前。小田原は町の中にど~んとお城が残ってるので、どのルートから行こうか悩んだんですが、とりあえず南下して海を目指すことにしました。
トップ画像は栄町松坂屋さん。菓子どころ小田原工芸菓子展示館となっています。
こちらは大正初期の創業。城下町小田原を代表する菓子職人が、四季折々の歳時に合わせて作った菓子を展示•販売をしています。また、48種類もの四季の和菓子の展示も行っております。
購入しようかどうか迷ったんですけどね、この日は9月中旬だと言うのに、まだまだ暑かったんです。それこそ30度超えの炎天下でした。とてもとても和菓子を持ち歩いて無事だとは思えず、ショーウィンドウから展示された和菓子を覗いて終了。
続いて目指したのはだるま料理店本店。
 
こちら、以前小田原城の総構えの遺構を巡って散歩した時、幸田口門跡の遺構を歩いた後、大手門跡へ向かいましてその折りに道路の反対側から望んだことがありました。小田原城大手門跡(2010年5月2日)の記事
あの時も随分立派な建物だなあ~。と感じたのですが、違わず素晴らしい玄関の装飾でした。唐破風入母屋造の建物で、国の登録有形文化財なんですってよ!
美しく朝の清掃を終えた建物の前を堪能し次へ。
ここで9時を回りました。

小田原の観光協会に送っていただいた地図を片手に目指したのは小田原総鎮守松原神社さん。

あれ?これ~??総鎮守と言う位だから、それ相応の歴史を持ってる神社だと思うんだけど…。なぜに都会のビルの間に窮屈そうに残っている神社のような作りなのか??
と、とりあえず上の画像の左に階段を見つけたので上ってみる。

正面から見た松原神社は普通に歴史を感じさせる神社でした。
あ。説明板発見。え~と??
「松原神社社誌…祭神 日本武尊、相殿、素戔嗚尊、字迦之御魂神、
由緒 縁由及び創祀の記録は灰燼に帰して詳かではないが古老の口碑に依れば近衛天皇久安年間の勧請なりと云われている。後醍醐天皇の頃当所に真鶴が棲み、故に鶴の森明神と称したと云う。
後奈良天皇天文年間に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、その託宣に依り当社の本地仏として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。
明応4年北条氏の小田原を治めるに当たり当社への尊崇すごぶる厚く鎮守として社領1万石を寄せ氏綱、氏康等大事毎に必ず祈願した。
天正18年北条氏廃滅後、後水尾天皇寛永9年稲葉氏の領となっても亦、鎮守として崇祀し社費はことごとく藩財を以て之に当てた。
霊元天皇貞享3年旧領主大久保氏が封を再びこの地に受けた事に依り猶先規に従い鎮守として崇敬前代に劣らず代々小田原の宿19町の総鎮守とした。
明治2年松原神社と改称し、明治6年1月旧足柄懸に於いて懸社と定められ、明治40年4月2日神饌幣帛料供進神社に指定された」
なるほど。歴史は古いですねえ。由緒の最初に出てくる「近衛天皇の久安年間」というと、1145年から1150年までの期間です。
吉兆の大亀
「天文14年(1545)3月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、小田原北条3代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。
果たして翌天文15年、関東管領上杉軍8万の兵を、わずか8000の兵で見事に破り【川越夜戦】、念願の関八州の平定に成功した。
この石像亀はその話に由来して作られた(制作年不明•頭部欠損)ものと思われ、現在でも大亀の甲羅をなでると、社運隆昌•心願成就•開運•勝利(転じて試験合格)にご利益があるとされております。
また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を10円納めると10日。100円納めると100日、1000円納めると1000日寿命が延びると云われております」とありました。
…これ、突っ込みどころ満載ですよね
まづ1つ。小田原の海岸に漂着したならば、それはウミガメだろう。それを神社の池に入れたらダメなんじゃないのか?
北条氏康が河越夜戦で関東管領上杉軍を破ったのって奇襲…や。この戦いは謎が多いから突っ込むのはやめておこう。
最後の10円お賽銭すると10日寿命が伸びる~とか云うのは、神社側の陰謀の気が…。これを云われたら、庶民は張り切ってお賽銭するもんなあ。しかもっ!首の取れた石像にご利益があるものか…。
説明板にツッコミを入れつつも、大亀の背中をなでてしまう庶民な私。でもってお賽銭は確かいつもの5円ポッキリだったような…。や。もうひと月以上も前の事なので記憶は定かじゃないんだけどね。
さて、更に南下。
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ガラスのうさぎって知ってる?

2011年02月05日 04時32分05秒 | 箱根・小田原周辺
二宮駅南口に「ガラスのうさぎ像」があります。
ガラスのうさぎの名前に聞き覚えがあった。随分前にその本の名前をかつて読んだことがある。
こんな本です。知ってますか?

立て看板に履歴が書かれていた。
「太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機関の機銃掃射を受け幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。
この時目の前で父を失った12歳の少女がその悲しみを乗り越えけなげに生き抜く姿を戦争体験記「ガラスのうさぎ」は国民の心に深い感動を呼び起こし戦争の悲惨さを強く印象づけました。
この像は私達二宮町民が平和の尊さを幾世に伝えるために、また少女を優しく励ました人達の友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき、建てたものです。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです
ここに平和と友情よ永遠に
昭和56年8月5日  『ガラスのうさぎ』像を二宮駅に建てる」
おお。「ガラスのうさぎ」の話は実話に基づいていたのですね。

近くの和菓子屋さんを覗くと、「ガラスのうさぎ最中」があったので購入。3色あって画像のピンクはこしあん。ブラウンはつぶあん。あと白いうさぎがありました。こちらは白あん入り。
和菓子屋さんに「ガラスのうさぎ」の黄色い本がディスプレイされていました。やっぱり昔読んだ本でした。
ちなみに和菓子屋さんは国道1号線にあります。ここ、お正月の箱根駅伝で走っていた沿線ですよね。

うちの隣に公民館があって、小さな図書館が併設されています。あるかも~?と探してみれば、オリジナルは置いてなかったのですが、アニメ板の本がありました。
『ガラスのうさぎ』は、NHK銀河テレビ小説でドラマ化。また実写映画化。また英語、中国語、スペイン語、ハンガリー語など世界各国で翻訳されているそうです。
12歳の少女が、機銃掃射で失った父を火葬する為に役場で父親の死亡診断書を出して埋葬許可書、火葬許可書をもらってきて、更に火葬に必要な薪を集めて、父の遺体と共に荷車で二宮町から小田原へ運んでゆく。そんな実話が日本であったことは忘れてはいけないと。読み継がれていくべき本ですね。
と。久々に本を読んでしまいました。図書館で立ち読みしてうっかり涙がこぼれそうになり、寸前で本を借りて来ました。
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富士を見に西へ

2011年02月03日 04時05分05秒 | 箱根・小田原周辺
散歩日は1月17日。
朝起きたら、視界がスカっと澄んでいて、空には雲一つないっ!こんな日を私は1月になってずっと待ってましたっ!早速副作用の強い薬をとっとと飲んで朝ご飯つくり。や。副作用は薬を飲んで1時間半から3時間の間が一番辛いんです。その時間を耐えたら大概どうってことないのですが、この時間には私は80歳の老人より動けない人になってしまいます。ってなことで、おでかけする時は交通機関で移動してる間に副作用の強い時間帯が終るように自分で調整します。患者ももう3年。大概コツも掴めてます。
ってなことでいそいそとでかけたのですが…。この日は電車のダイヤが乱れていたようで、あり得ない「準急伊勢原行き」に乗り、その上あり得ない電車はあり得ないことに、伊勢原から「急行小田原行き」に変身。…大概トラブルのありそな出だしです。
で、到着したのがトップ画像の小田急線の新松田駅。ここから富士山が見える。
つーか、ここでこれだけ見えたら、目的地からも絶対富士山が綺麗に見えるハズ。うきうきとJR御殿場線へ向かうと、松田駅ではPASMOが使えませんでしたっ!
マジか~。おまけに乗継ぎ電車は発車した直後。なんと待ち時間が40分もあります。
や。乗換えに御殿場線を選択した私の敗因です。YAHOO!の路線乗換えは厚木から相模線乗換え、茅ヶ崎経由の東海道線を利用するように表示されていたのですが、御殿場線経由にした方が20円安かったんだもん…。
20円ケチったばっかりに、午前中の澄み渡った青空の下撮影出来る富士山を40分も無駄にするハメに。アホか~~っ!!

JR御殿場線の松田駅のホームにはぬくぬくのホームはありませんが、(40分も吹きさらしのホームで待ちました!)富士山が見えるんですよ。あ。画像の左に見える古いホームは既に使用されてない昔のホームの残骸のようです。
松田駅のホームには時刻表がない。
なので駅員さんに「次の電車は何分発ですか?」と尋ねたら「どこ行きに乗られますか?」と尋ね返されたので、自信満々に「くにふつですっ」と言ったら「こうづ行きですね。9時57分発です」って返された。
国府津って書いてなんでこうづやねんっ!恥かいた~~。
JR御殿場線で南の終点国府津行きに乗車。
JR御殿場線からは富士山がよく見えます。ついつい目が富士を追いかけてしまう~。
あ。
以前紹介した「曽我梅林」曽我梅林と白富士(2009.2.17)の記事は御殿場線の下曽我駅が最寄り駅です。国府津駅への途中で通過します。私が散歩したのは1月17日でしたが、車窓からは既に3分咲き程の白梅の畑が見えました!今頃はもう見頃になってるんじゃないかな~?
さて。JR御殿場線の終着駅は国府津駅。到着直前に、真っ青な太平洋が見えてなんだかわくわく。ただしっ!ここ、乗換えは結構距離があります。あ。乗換えるのは東海道線の上り。国府津から一駅で目的地の二宮駅です。

二宮駅北口から徒歩約5分で上の吾妻公園の入口に到着。ここから300段の階段が待ってます。
ええ。無理はしません。100段登って休憩。後続の人を先へ。あ。私みたいな体力のないへっぽこの人用に、途中で休憩ポイントがあります。ベンチや丸太椅子もあります。ただし、階段は狭くて上りには一人しかスペースはないよ。後続の人に迷惑かけないようにしないと。何しろ休憩ポイントを覗くと階段の途中で追い抜きは出来ないからね。
んでヒーハーいいつつ300段を登り切ると、今度ななだらかな坂道の登場です。
ちっ、階段登ったら到着じゃないんかいっ!気を取り直し坂道をゆく。

そんな傷心の人をなぐさめてくれる登山道の水仙。これは日本水仙ですね。
あれ?あんまり芳香がない??や。私の鼻がダメなのか?時間帯がダメなのか??
登山道入口から平均20分で展望台に到着するところをたっぷり時間を取って到着しました!
や。どんなに道のりが苦しくとも、悔い無しの絶景がそこに。

目の前に富士山。そして太平洋。
ね。絶景でしょ?あ。もっと望遠で見たい?
それはムリっ。だって携帯電話で写してるんだも~ん。
でもそんな来園客に嬉しいサービスがある。それは展望台に設置されている双眼鏡。なんと!無料で見えるんですよ。もうねえ、雪をかぶった富士山の頂上もよく見えて絶景です。ぜひぜひ覗いて下さい。この双眼鏡は東京タワーの展望台に設置してあるような本格的なやつです。だから有料なのかと思ってせっかくの双眼鏡に近づかない人も多くてなんだかもったいないと思いました。

展望台広場から見える山や島が紹介してあります。
希望としては、もう少しだけ雑木林の背丈を低くして欲しいです。どうにも邪魔なのよ。
や、冬の今は雑木林に見えるんだけど、もしかしたら桜の木かもしれん。でも桜の時期って春霞で富士山見えないんじゃなかろうか?…奇蹟にかけてるのか??

テレビでは日本海側が記録的な大雪だって連日報道されてますが、関東地方は記録的に乾燥中です。だって1月に1度も雨も雪も降らなかったもんね。や。1~2度夜の間に降って朝には上がってたことはあったけど。そんなだから空気がカラカラで。花粉症対策にマスクして歩いてても、眼鏡も曇らない。マジで。
先日、いきつけの八百屋で買い物をしていたら、しいたけがやけに安かったんですよ。プラスチック容器一杯に入ったしいたけがなんと150円っ。
安っ。
「なんでこんなに安いの??」って尋ねたら「乾燥して…。縮んだ」だって。
なるほどこのまま置いておいたら店先で干し椎茸になっちゃうかも??
暑い寒いは話題になりますが、乾燥ってニュースにしづらいのか?寒くとも洗濯物があっちゅー間に乾くのは嬉しいけど。お肌のダメージはしゃれになりません。
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二宮尊徳って知ってる?

2010年07月10日 04時16分59秒 | 箱根・小田原周辺
二宮尊徳?誰ソレ!?と思う人も「二宮金次郎」と聞けば「ああ!」と閃く人もいるハズ…。

名前は知らないが、小学校にこの像があった!
近所の神社に像がある!!と思い当る人もあるかも~?
で、ここで問題です。
二宮尊徳って何した人なの?
…さあ?
これはイカンと、小田原城址公園を訪れた序でに寄ってみました。

御感の藤の藤棚を北へ少し。城址公園内に「報徳二宮神社」はあります。

二宮尊徳(公文書では金次郎。自筆は金治郎)は天明7年(1787)、相模国栢山村(今の小田原市栢山)の豊かな農家に生まれました。再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落し、過労により両親は亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられました。金次郎は、朝くらいうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命に働き、その間余裕があればわずかな時間も無駄にせず勉強して、千尋の教えを理解しようとしました。荒れ地を開墾して収穫を上げお金も貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24才までに一家を再興しました。
大人になった尊徳は生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北にかける各藩の農村総合的復興事業を行い素晴らしい成果をあげました。大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳が農村総合的復興事業を手がけた村々は600カ所以上に上ります。多くの農村や藩を貧困から救い、独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。(以上報徳二宮神社のホームページより)
二宮神社の本殿です。

二宮神社の狛犬です。
 
二宮神社の庭です。

ところで、神社といえばおみくじですよね~。
が!!
私、おみくじを引いた後の対応を間違えてました。

私、今まで「大吉」を引いた時も迷わず神社の木などに結んでポイしてました~。
やっちった感たっぷりです!

2011年11月にこの記事のカテゴリーを「犬&狛犬」から「小田原周辺」へ変更しました。
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右へ行くか左へ行くか

2010年04月29日 07時00分21秒 | 箱根・小田原周辺
先日投稿した記事「入生田のしだれ桜」がある長興山紹太寺を紹介します。
その時の記事はこちら入生田のしだれ桜4月12日の記事です。

歴史的にはなかなかに興味深いお寺なんですよ。
徳川3代将軍の乳母をしていた春日の局。彼女のお墓と息子の稲葉一族のお墓がある、かつては上の配置図にあるような大寺院でした。
稲葉一族は、北条が落ちた後の小田原城の城主ですね。
が!
往時を偲ばせる建造物はなにもなく…。
せめて春日の局のお墓の画像を載せたかったんですが、何度も愚痴ってますが、最寄り駅に到着したら雨。
しかもしとしとの雨。
なのに~~。
私、傘を持ってませんでした。
さすがにマズいと思い、駅前がコンビニを探したんですがありません。
雑貨屋とか土産物屋とか期間限定の出店とかありません。
そもそも駅自体とっても小さくて、ホームも狭くて、電車が来るまで駅の中で待てるのは何人だ?殆ど、駅の外の細い道で連なって待つ感じ?
尤も、雨なので花見客も少なめでしたが…。
肝心のしだれ桜まで往復するには小一時間…。
せ、せめて、しっとり濡れてもぐっちょり濡れたくはない~~。
で。
春日局のお墓はパスっ!見所も歩きながらシャッター切ったら、ボケボケで使えず…。
後悔後悔の紹太寺となってしまいました…。
で。
右へ行くべきか左へ行くべきか…。
トップ画像のことです。
左の石段は紹太寺が趨勢を誇っていた往時の参道で、右は最近作られた迂回路。
もちろん楽したいなら断然右!
濡れたくない…、いや、歴史好きなら左へ。

な…なかなかに手強い階段です。
濡れネズミの私を哀れんで、花見客のおばあさんが傘に入れてくれたんですが…。
今年73才というおばあさんの足についていけない…。し、心臓が…。
いやいやいや~…。
降圧剤を毎朝7個飲んでるんですが、この薬は飲むと必ず副作用があるんですよ。飲んで2~3時間後に動悸息切れ脈拍上昇のおまけつき。
ついでに季節柄花粉症のお薬とマスクをしてるんですよ。んでマスクが軽~く、酸欠に陥るという…。
決して、おばあさん以下の体力のハズは~~~~
親切なおばあさんに座り込んでしまった私につき合わせては申し訳ない。先に行っていただいて、とりあえず息が整うのを待って再出発。

建物はなく、かつての境内も今はミカン畑と化してる紹太寺ですが、かつての道や礎石や川は残ってます。



あちこちに立て札があるので、ぜひ読んで下さい。

しだれ桜は昔のまま。

帰りはなだらかな道を選びました。
画像ではわかりにくいかもしれませんが、雨が降るとコンクリートの道は川になりますね…。
水が流れてます~。あはは~。も、笑うしか…。

ところで、紹太寺って変った宗派なんですね。
黄…何て読むんだろうコレ?ヘキ?ヨウ??違う…。
正解は「おうばくふちゃ」料理です。
禅寺の精進料理なのでした~。
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もしかしてアルソック?

2009年12月02日 06時07分12秒 | 箱根・小田原周辺
パソコンの調子が悪い。
記事1つに1時間かかってます。早朝なのに…。
なので、日々更新は難しいかも?
さて、階段。
登りました~。
で、さあ~?
この階段、もしかして、アルソック(総合警備保障)のCMで吉田選手と堀田選手が登ってる階段じゃないかな?
つーか、ヘタレの私は200段以上の階段を20段の階段が10個と考えて、休み休み上がることにしました。
乱れた呼吸が整うのを待って休憩。何度も繰り替えす。
と、上がろうかどうか迷っている人の励みになるようで、80才くらい位の人に追い抜かれ様いたわれつつ頑張ってみました。
疲れて、食欲がない。が、無理してパンを口へ押し込む。
階段の上にあったのは、奥の院。
でも脇の売店にお坊さんがちゃんといまして、ここの人は日々この階段を登ってるのかと。
これもまた、修行修行なのですね。
さて下山、

あれですね。
疲れてると、写真を撮る気力もなくなりますね。
道々、適当にうつしつつバス停へ。







この記事で入力が40分かかった!
ありえない。

最後は、バス停近くの店で購入した天狗せんべいです。
購入後、11月28日のおでかけでおやつにしました。

バス停から大雄山駅まで、帰りは参道を歩いて降りる気だったのですが、実は靴が限界のようで最乗寺の階段階段で2度滑ってしまいました。靴の裏がツルツルなのが敗因かと。
杉並木が延々続く参道を、40分もあるけない。パスします。
 
2011年11月に、この記事のカテゴリーを「紅葉散歩」から「小田原周辺」へ変更しました、


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東の丘陵には点々と

2009年02月19日 05時41分49秒 | 箱根・小田原周辺
曽我梅林は広範囲に観梅ポイントが散らばっていると先日も書きましたが、上のお寺は中河原バス停から徒歩数分。東の丘陵に向かって上っていくとあります。
境内には茶店も出ています。緋毛染がフォトジェニック。
実はこのお寺に天然記念物のモッコクがあります。
ちなみに、瑞雲寺の本堂右の坂道を登る途中にある「力不動尊」は曽我兄弟の仇討ちのとき十人力を授けたことでも有名。
そっちには見晴し台もあります。
坂道を回避するとちと後悔するかも~。
なぜって、富士山がよく見えるから。
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