高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

牧野一族展(その6)

2009-11-15 09:05:06 | 歴史

【長谷寺の山本勘助とセンリョウ】
大河ドラマ「天地人」で、山本勘助の生誕地を富士宮市としたことで、豊橋市の賀茂の住民から抗議がでた。NHKでは後日の放送で、賀茂説もあることを伝えた。長岡藩からみると、家老の山本帯刀左衛門家は勘助と同家であり、山本五十六がこの家を継いだと信じている。

牧野家の菩提寺になる光輝院11には牛久保古図が伝わり、古図には牛久保城8、一色城9、今川義元菩提寺の大聖寺12、光輝庵(院)11、山本勘助ゆかりの長谷寺(ちょうこくじ)14や当時の家臣団の敷地が読み取れる。
山本勘助は牛久保の隣の賀茂で生まれ、大林勘右衛門の養子になっている。光輝院の近くに大林家跡13があり、近くの長谷寺(ちょうこくじ)には遺髪を埋めた五輪塔と、彼が襟にかけていた魔利支天像が伝わっている。
近くにはセンリョウ(千両)の実が色付き始めていた。(黄色はキミノセンリョウ(黄実の千両)とコメントをいただきました)


(黄色とオレンジ色のセンリョウ)


(豊川周辺の地図)

 
(賀茂の勘助生誕地と大林勘右衛門屋敷跡13 )

 
(山本勘助ゆかりの長谷寺14)

 
(長谷寺と魔利支天像)

この魔利支天像は山本勘助がいつも襟に付けていたものであるが、武田信玄に仕官するにあたり、紛失を恐れ長谷寺に預けたものである。1寸3分(約4cm)というから親指にも満たない。

         
(1寸3分の魔利支天像)

 
(山本勘助の墓と説明文)

(豊川市牛久保町)
コメント (8)
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