高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

三方領地替えの最終章

2012-09-30 00:16:47 | 歴史
天保11年(1840)の三方領地替えは、川越藩・庄内藩・長岡藩に下された領地替えでした。川越藩が将軍の子供を養子にしてまでも、豊かな庄内に転封したかったのです。筆頭老中水野忠邦や大奥に根回しをし、夢が叶うように見えました。しかし川越藩の野望も、庄内藩の領民の反対運動により御沙汰止みになりました。
江戸に直訴に来た庄内藩の領民の訴えを、江戸南町奉行の矢部定謙(さだかね)が、命に代えて公正な裁きを行いました。矢部は水野の逆鱗に触れ、不正の罪により役を解かれ、桑名藩預かりとなりました。桑名城の座敷牢で、抗議の餓死をしたと伝わります。
矢部が眠っているのは、長岡藩下屋敷の東側に隣接する浄心寺です。長岡藩上屋敷のあった東京駅丸の内口から出発し、浄心寺の矢部の墓にお祈りしました。
(天保11年の三方領地替え)   (江戸の長岡藩邸めぐり)


(東京駅丸の内口に長岡藩上屋敷がありました)

 
(深川の長岡藩下屋敷跡)      (反対側は清澄庭園)  

 
(浄心寺の正門)               (浄心寺本堂)

 
(境内の鐘楼)                 (百度石) 

 
   (境内の稲荷神社)      (かすかに読める「定謙」)

 
(近くにある深川江戸資料館と霊厳寺)

(深川:2012.09.15)

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サガミギク

2012-09-29 03:49:29 | 山野草
高尾にシロツリフネソウ(白釣船草)を探しに出かけた時に、二人連れのハイカーからサガミギク(相模菊)の情報を得た。名前は「高尾山・花と木の図鑑」で知っていたので、翌日確認に出かけた。
サガミギクはシロヨメナ(白嫁菜)に似てるが、軸がやや黒いことと、舌状花が紫色を帯びているのが見わけるポイントである。

 
(茎がやや黒く、舌状花が紫色を帯びる)

 
(近くに生えていたシロヨメナとノコンギク)

相模菊/キク科/シオン属。
山野に生える多年草。
シロヨメナに似るが茎は紫色を帯びる。高さ70cmほど。葉は披針形で両面はときに紫色を帯びる。神奈川、東京、茨城県産。(「高尾山・花と木の図鑑」から)
名前の由来:咲いている神奈川県の古名を付けた。
花期:9~10月。
(高尾)
【山野草の索引(2)へ】

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初秋の高尾散策Ⅲ(その3)

2012-09-28 05:34:32 | 四季
足元の植物はよく見るのですが、上のほうには関心がいきません。でもふと見上げましたら、青い空を背景にオオモクゲンジ(大木欒子)の実がたくさん付いていました。
オケラ(朮)は白色からやや赤みを帯びた花がありますが、雌雄異株で雌花と雄花があることに注目しましょう。
最後の画像はこれまた難しくて撮ることのないミズヒキ(水引)で、小さな花が咲いていましたので今回は挑戦してみました。


(カシワバハグマ)

 
(オケラの左が雄花で右が雌花)

 
(オオモクゲンジ)

 
(ツルボと落ちそうなカヤラン)

 
(シュウカイドウ)            (シュウブンソウ)

 
(カラスノゴマ)


(ミズヒキ)

(高尾:2012.09.25)

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初秋の高尾散策Ⅲ(その2)

2012-09-27 01:52:43 | 四季
彼岸明けの25日は、雨の降りそうで遠出をするには心配な天候でした。キセワタ(着せ綿)ならそれほど遠くないので、最後の花を見ることにしました。花は咲き終わりの数個付いている程度で、重陽の節句のころにはとてもかないません。最後のキセワタの画像は、どこかお参りしているようにも見えます。
帰りに巨大な葉のオヤマボクチ(雄山火口)に出会いました。撮ろうとしましたらカメラの電池切れで、止むなく携帯で撮りました。


(緑から赤に色付いてきたハダカホオズキ)

 
(ハダカホオズキの花と果実)       (イガホオズキの果実)

 
(ヤマホオズキとイヌホオズキの果実、アメリカイヌホオズキかも)

巨大な葉だと言っても、比較するものがないと判断できませんので、いつも持ち歩いている「高尾山・花と木の図鑑」を葉の上に載せてみました。46版(127×188)ですから、葉の長さは40~50cmほどでしょうか。葉の基部が横に張り出していないので、ハバヤマボクチ(葉場山火口)ではないと思います。

 
(携帯で撮ったオヤマボクチの巨大な葉っぱ)

 
    (ミゾソバ)         (ママコノシリヌグイ)

 
(キバナアキギリ)            (キクイモ)   


(キセワタが彼岸でお参りしているように見えました)

(高尾:2012.09.25)

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小江戸川越(その7最終回)

2012-09-26 04:31:30 | 歴史
(つづき)
【氷川神社など】
いよいよ小江戸川越の最終回になりました。川越城をでて城の周りの寺院を散策しました。氷川神社では鳥居の高さの目安になる巫女さんが、偶然下を通りました。
時間があれば博物館も見学したいところですが、またの機会に致しましょう。


(木造鳥居では日本一の高さを誇る氷川神社の大鳥居)

 
(氷川神社と例大祭)

 
(氷川神社の彫刻)     (太田道潅手植えの矢竹)


(小江戸川越の地図、今回は左上の地域です)

 
(美術館と博物館)

 
(浮島神社のいわれ)

 
(幕末に天狗党が処刑された広済寺)

 
(とおりゃんせの三好野神社)

通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ
天神様の 細道じゃ ちっと通して くだしゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ 
この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります 
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

この三好野神社は天神様を祀り、川越城ができる前からこの場所にありました。ところが城ができたことにより、神社はお城の敷地内になってしまい、領民は参拝できなくなってしまいました。 けれども、領民の信仰心が厚く、期間を区切って参拝を許しました。
川越城は江戸の守りの位置にありますので、参拝客に紛れてスパイが入り城内の機密を持ち出すのを恐れ 、出口でのチェックをより厳しく行いました。


(氷川神社の例大祭)

(川越市:2012.09.07)       (おわり)

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小江戸川越(その6)

2012-09-25 00:16:43 | 歴史
(つづき)
【川越城】②
明治維新を迎えた川越城の建物は、廃城令により解体されました。大広間と玄関部分は入間郡役所、煙草工場、中学校校舎などに使用され、運よく残ることになりました。

また家老詰所は、ふじみ野市の商家に払い下げられ、昭和63年に川越城に里帰りしました。現存する建物は往時と比べますと、敷地面積にして8分の1ですが、全国でも本丸御殿が残っているのはほとんどなく、貴重な建物といえます。


(復元された川越城本丸御殿)

 
(本丸にあった建物の赤枠部分が奇跡的に残った)

 
(大広間と家老詰所)


(川越城本丸御殿の説明)

 
(復元前の鬼瓦)              (話し合う藩士)

 
(36帖の大広間)

川越藩が仕組んだ三方領地替えが、単なる庄内藩の直訴事件で終わらなかったのには、二人の重要人物がいました。一人は庄内藩出身の江戸の公事師(くじし)佐藤藤佐(とうすけ)で、もう一人は江戸南町奉行の矢部定謙(さだのり)でした。
ともに庄内では国を救った恩人になっていますが、矢部はこの事件を裁くことにより、一命を落としました。北町奉行の遠山景元とともに、矢部は名奉行と伝わっています。
(川越市:2012.09.07)       (つづく)

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今朝の富士山

2012-09-24 08:48:00 | 四季
昨晩まで降っていた雨も上がり、朝から素晴らしい天気です。温度も少し肌寒く感じましたので、これはもしかしたら富士山に雪が降ったのではと期待しながら、近くの丘陵地に上がりました。あいにく富士山の頂上付近には雲があり全体は見えませんが、雪はないようです。
富士山だけではさびしいので、富士山と並んで信仰の山の大山とヒガンバナ(彼岸花)、そして自宅の庭からはクロバナヒキオコシ(黒花引越こし)に入ってもらいました。


(自宅付近から見える富士山)

 
(信仰の山の大山)            (ヒガンバナ)   


(庭のクロバナヒキオコシ)

(自宅付近:2012.09.24)

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小江戸川越(その5)

2012-09-23 06:40:52 | 歴史
【川越城】①
武蔵国の川越城は長禄元年(1457)、太田道灌と父により建立されました。天守閣のない平城で、15mほどの小高い丘に3階建ての富士見櫓がありました。江戸時代に入って「知恵伊豆」の異名を持つ松平信綱が親藩、譜代の大名に相応しい城に整備しました。川越は江戸の守りを担う所に位置する重要な藩です。


(川越城富士見櫓の碑)

 
(周りの平地からはかなりの高台に富士見櫓はありました)

 
(富士見櫓の高台には御嶽神社などの建物があります)


(川越城と富士見櫓の説明)

 
(本丸跡に位置する本丸御殿)

江戸時代に三方領地替えは数多くありましたが、御沙汰止みとなったのは、川越・庄内(現鶴岡市など)・長岡の1度だけです。直訴は上司を通さないで直接訴えることですが、庄内藩の領民は江戸城から下城する幕府の要人に頻繁に直訴をしました。江戸時代の直訴は駕籠訴が一般的でしたが、訴人は紋付き羽織袴で正装し、「上」と書かれた訴状を、先を二つ割にした青竹に挟み行列に接近しました。訴人は拘束されますが、直訴=死罪ではなく、領民なら先ず藩に渡されます。
徒党を組んだ一揆は禁止されていましたので、訴人は死罪を覚悟はしなければとても直訴はできません。庄内藩に渡された領民が罰っせられた話は聞きませんので、現代の中国と同じように「愛国無罪」だったのでしょうか。
(川越市:2012.09.07)       (つづく)

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小江戸川越(その4)

2012-09-22 05:26:46 | 歴史
【仙波東照宮と日枝神社】
喜多院の境内をでて、隣接している仙波東照宮と日枝神社に行きました。仙波東照宮は家康の遺骸が久能山から日光に移される途中、この地で盛大な法要が行われたことにより建立されています。全国に東照宮は多いのですが、一般的には三大東照宮は、日光、久能山と仙波東照宮です。蓬莱山東照宮や岡崎の滝山東照宮も、最後の一社を名乗っています。
一方、日枝神社は喜多院の鎮守社でした。ともにいまは喜多院の境内から少し離れています。


(喜多院、仙波東照宮および日枝神社の配置)

 
(仙波東照宮随身門)          (石灯籠とその先が拝殿)

 
(拝殿と扉の奥が本殿)

 
(日枝神社の鳥居と拝殿)

童歌の「あんたがたどこさ」に「せんばやま」がでてくることから、この童歌は熊本ではなく、川越だとする異説があります。
幕末に肥後(熊本)の部隊が、彰義隊の残党を追って仙波山に布陣し、地元の子供たちとの対話が歌詞になっているというのです。「せんば山のたぬき」は、家康ということなんでしょうか。
(川越市:2012.09.07)       (つづく)

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初秋の高尾散策Ⅲ(その1)

2012-09-21 05:39:48 | 四季
前日までの雨も上がり、きのうは一日遅れの彼岸入りということで、ヒガンバナ(彼岸花)を探しに出かけました。運よく咲いたばかりの花に出会うことができました。
重陽の節句ではキセワタ(着せ綿)でしたが、今年は季節の花とうまく出会っています。ヒガンバナのついでに今年もシロツリフネソウ(白釣船草)を撮ってきました。
小江戸川越の途中ですが、割り込むことにしました。煩悩や迷いに満ちた現世のこちらの岸が「此岸(しがん)」で、向こう側の岸が「彼岸」です。前回の羅漢の次ですから、割り込むのもあながち無縁ではありません。


(9月19日が彼岸入りでした)

 
(シロツリフネソウ)


(今年も出会うことができました)

 
ツリフネソウ(釣船草)

 
キツリフネ(黄釣船)

(高尾:2012.09.20)

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