江戸に直訴に来た庄内藩の領民の訴えを、江戸南町奉行の矢部定謙(さだかね)が、命に代えて公正な裁きを行いました。矢部は水野の逆鱗に触れ、不正の罪により役を解かれ、桑名藩預かりとなりました。桑名城の座敷牢で、抗議の餓死をしたと伝わります。
矢部が眠っているのは、長岡藩下屋敷の東側に隣接する浄心寺です。長岡藩上屋敷のあった東京駅丸の内口から出発し、浄心寺の矢部の墓にお祈りしました。
(天保11年の三方領地替え) (江戸の長岡藩邸めぐり) (深川:2012.09.15)
(ヤマホオズキとイヌホオズキの果実、アメリカイヌホオズキかも)
また家老詰所は、ふじみ野市の商家に払い下げられ、昭和63年に川越城に里帰りしました。現存する建物は往時と比べますと、敷地面積にして8分の1ですが、全国でも本丸御殿が残っているのはほとんどなく、貴重な建物といえます。
川越藩が仕組んだ三方領地替えが、単なる庄内藩の直訴事件で終わらなかったのには、二人の重要人物がいました。一人は庄内藩出身の江戸の公事師(くじし)佐藤藤佐(とうすけ)で、もう一人は江戸南町奉行の矢部定謙(さだのり)でした。