中越地震復興「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
寅太の家の庭に咲く山野草などのブログです。

「米百俵まつり」時代行列(後編)

2017-10-24 05:42:58 | 歴史
【ときを越え 一日限りの“長岡藩”】
時代行列は信濃川の川西からスタートです。かってここは長岡城を攻めた西軍が、大水の信濃川を渡り長岡城に奇襲をかけた所です。
むかし長岡に関係した以仁王、八幡太郎義家、直江兼続そして堀直寄に続き、戊申戦争の長岡藩全軍が集結します。長岡藩は第一陣、第二陣、第三陣、本陣そして第四陣で編成されますが、拙者は藩主を守る本陣隊の一人です。


(米百俵まつり)

 
(信濃川に架かる大手大橋を渡り、すぐ前は城に続く大手通りです)

 
(待機中で陣を離れパチリ)

 
(藩主と全軍隊長が集結)

 
(三根山藩から米百俵が届く)


(小千谷談判)

少しだけあった長岡市広報の動画
(長岡市)

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「米百俵まつり」時代行列(前編)

2017-10-23 06:00:19 | 歴史
今月7日に長岡で「米百俵まつり」時代行列があり、これに参加しました。ネットで動画が投稿されるのではと待ってたのですがが、適当なものがありませんでした。
今回は本人が行列に参加していましたので、よい画像を見せることができません。
そのむかし、大名行列は1週間以上かけて長岡と江戸を往復しました。江戸時代の長岡藩上屋敷は東京駅で、一方長岡城本丸は長岡駅ですので新幹線で今では2時間の距離になりました。


(東京駅は江戸時代は長岡藩の上屋敷)

 
(長岡駅は長岡城の本丸跡)

 
(久しぶりの故郷に長生橋の暖簾と三尺玉が出迎えてくれました)


(かって長岡駅にはこんな城がありました)

 
(今は長岡城の模型と石碑を残すのみです)

 
(米百俵まつりの中心会場となる二の丸跡)

 
(長岡藩の五間梯子と秘密兵器ガトリング砲)


(これからこの大手通りを行進します)

(長岡市)
超大型台風の中心が近くを通っているようです。風も雨もピタリと止みました。

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大胡城・牧野氏まつり(前編)

2017-08-30 05:26:29 | 歴史
ひと月前ですが群馬県前橋市大胡(おおご)で牧野氏まつりがありました。牛久保(豊川市)から移ってきた牧野家が大胡城にいたのは、天正18年(1590)から元和2年(1616)までの26年間ですが、その後大胡城が廃城になったこともあり、地元では城主は今でも牧野氏として慕われています。
牧野氏は大胡から新潟県上越市の長峰城に移りますが、城造りをしている間の元和4年(1618)に再度長岡転封となり、ほとんどの家臣団は大胡から直接長岡に移りました。来年2018年が長岡開府400年となり、長岡では各種行事が予定されています。


(前夜祭は地元合唱団の歓迎を受けました)

今年のNHK大河ドラマは「おんな城主・井伊直虎」ですが、井伊家と同じように牧野家も今川義元に属していました。桶狭間の戦いで義元が敗れたことで、牧野康成は今川家を離れ徳川家康に属することになりました。

 
(牧野氏菩提寺の養林寺での法要)

 
(養林寺に眠る牧野備前守)


(牧野家の常在戦場の精神です)

大胡は前橋市の中央から少し東に位置しますが、付近には古城址や古代の豪族の前方後円墳などがいくつかあります。
後編では大胡城で鉄砲隊などの演技があります。いつもコメントをくださいます信徳さんは、県の観光リポーターですので、会場で会えるかもしれません。

 
(天幕城址のハス)


(キツネノカミソリ)

(前橋市)

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2017年春の旅(その11:旅のおわり)

2017-06-14 05:18:29 | 歴史
【上州白井城】
車の旅では宿泊先を決めないで、道の駅を利用する人も多く、最後の宿は旧三国街道白井(しろい)宿にあります「道の駅こもち」(渋川市白井)でした。この道の駅にしたのには理由があり、白井宿の高台に上州白井城があり、この城跡の探索が目的でした。


(道の駅こもち周辺図、左上に白井城跡)

 
(旧三国街道白井宿)

長岡は来年開府400年を迎えますが、長岡牧野家が全て順調だったわけではありません。1600年関ヶ原の戦いでは、秀忠に従い上田城攻めを担いました。関ヶ原に遅参した理由として、功を急いだ牧野家家臣の青田刈りの軍令違反を咎められました。家臣の処罰を拒んだ藩主康成は上州白井城に幽閉、後に初代長岡藩主となります忠成はいずこへか出奔しました。大胡城の牧野家は、藩主のいない時代を過ごしました。


(上州白井城)

4年後の1604年、やがて3代将軍になります家光の誕生の恩赦で、幽閉は許され大胡城に戻りました。 長岡藩主と家臣そして領民の結束が固いのは、大胡の時代に改易の危機を乗り越えたのも理由の一つとされます。

 
(ほとんどが畑の白井城三の丸と二の丸跡)

 
(のずら積みの石垣が残る枡形門と本丸跡)

1624年に上州白井城は廃城になり、本丸を囲む二の丸、三の丸そして多くの郭が農地になりますが、幸いにも土塁や堀切などはそのままの形で残されています。

 
(本丸付近から見下ろす吾妻川と吾妻川から見た白井城遠景)


(三国の山よ、さようなら)

(春の旅をおわります。ありがとうございました)

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2017年春の旅(その6)

2017-05-31 06:01:49 | 歴史
【蒼柴の杜に流れる招魂の調べ】
戊辰戦争の中でも西軍(新政府軍)の最強部隊と4か月にわたり、長岡藩と激闘になったのが北越戦争です。
北越戦争とその10年後に起った西南戦争で、長岡藩士は多くの戦死者を出しました。
北越戦争から150年になりますが、長岡藩士の末裔は、毎年死者の供養を続けています。今年も遠くはパラオからの出席者を含め、大勢の末裔が全国から蒼柴の杜(あおしのもり)に集まりました。
戦争を避けようとしながらも回避できなかった祖先の無念が伝わってきます。


(蒼柴神社の左奥に招魂社があります)

 
(毎年長岡城落城の日に招魂社祭があります)

招魂社の左右には戦死者の墓があります。また社の左前には軍事総督河井継之助と大隊長山本帯刀(たてわき)の墓が並んでいます。
山本家は戦争責任を取らされ斬絶しましたが、山本五十六が山本家の養子となり復活し、その後五十六は連合艦隊司令長官になりました。
こちらも最後まで太平洋戦争には反対しましたが、最後は大隊長山本帯刀と同じ道を辿りました。

 
(軍事総督河井継之助、大隊長山本帯刀の墓と柏の木)

招魂社の右側に柏の木があります。
このカシワは越後長岡の第9代藩主で老中も務めた牧野忠精(まきのただきよ)公が、牧野家のふるさと牛久保の熊野神社の神前に植えたカシワの2代目を移植したものです。

 
(招魂社の隣に鎮座します歴代藩主の墓と3代藩主牧野忠辰公の墓)

越後長岡藩の歴代藩主の墓は、菩提寺の東京都港区の済海寺にありましたが、昭和58年に蒼柴の杜に戻ってきました。
一つだけ形の違う墓は3代藩主牧野忠辰公で、こちらは大田区の日蓮宗大本山池上本門寺から平成7年に移されました。
なお、このブログ名のaoshinomoriは蒼柴の杜に由来します。

(春の旅から)

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長岡に落とされた模擬原子爆弾

2016-10-17 05:36:34 | 歴史
9月中旬の北の旅の途中で長岡に立ち寄りました。特に長岡に用があったわけではありませんが、牧野家資料館、河井継之助記念館そして今回は模擬原子爆弾が投下された左近の土手に立ち寄りました。


(長生橋の上流に開いた正三尺玉、この左手付近に模擬原子爆弾が落とされました)

昭和20(1945)年7月20日、長岡市の信濃川にかかる長生橋の近くの左近の土手に1発の大型爆弾が落とされました。これが太平洋戦争で長岡に投下された初めての爆弾でした。
その12日後の8月1日の夜から2日にかけ、西太平洋テニアン島を飛び立った125機のB29による爆撃で長岡市の中心街は全焼し、死者は1500人を数えました。
日本の三大花火と言われます長岡の花火は、長岡空襲の慰霊と復興(戊申戦争、太平洋戦争、中越地震)そして長岡市民の平和の祈りをこめて、毎年8月2日~3日に打ち上げられます。

 
(永代橋の向こうは長岡市街、反対側は信濃川方面)

左近に落とされた爆弾が原子爆弾の模擬弾だったことがわかったのは平成に入ってからのことで、模擬原子爆弾は全国で49個落とされました。
アメリカは昭和20年に入りますと、原子爆弾攻撃の実行計画をたてました。その投下予定地として京都・広島・新潟・小倉・長崎の5都市を最初に選んでいました。
県下一の都市の新潟市へ空襲が行われなかったのは、無傷で原爆の威力を確認するためと言われています。
模擬原子爆弾投下の重要な目的は、原子爆弾の正確な目標地点への投下と投下した飛行機が急旋回より放射線から脱出する訓練でした。


(模擬原子爆弾投下の説明文)

(長岡市)

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大胡城・牧野氏まつり④(最終回)

2016-08-13 06:17:20 | 歴史
大胡城の周辺には牧野氏にかかわりのある神社や寺がたくさんありますが、今回はその中から大胡神社を訪れました。
また大胡城の詳細も載せませんでしたが大胡城と養林寺(大胡町)を参照願います。


(大胡城の守り神の大胡神社)

大胡の時代はわずか26年間でしたが、常在戦場を掲げます牧野家が大きく飛躍する期間でした。大胡から越後長峰に移りますが、長峰については幻の越後長峰城を歩くを参照して下さい。

 
(地元民に慕われる鶴姫供養塔と大前田英五郎の墓)

牧野康成の息女に鶴姫がいたと伝わります。重い病で大胡城に入れず、康成は城外に御殿を建て家臣を付けて住まわせました。
鶴姫は地元民に慕われ、病は全快するも別の病で他界しました。鶴姫に付き添っていた家臣は長岡には移らず、大胡で鶴姫の供養を続けました。
康成の息女には福島正則の正室昌泉院や松浦(まつら)家正室の永昌院が良く知られています。永昌院は松浦家~中山家を経て、中山慶子(よしこ)が明治天皇の母になり、天皇の子孫を先祖にする牧野家が、天皇家に牧野家の血を残すことになりました。
一方大前田英五郎は国定忠治と並ぶ上州の侠客です。


(出番を待つ祇園まつりの暴れ獅子)

今回の旅は花が目的ではありませんでしたが、わずかですが見た花を載せます。


(キレンゲショウマ)

 
(白花もあったレンゲショウマ)


(最後はナツエビネ)

(前橋市)   ・・・歴史の旅にお付き合いいただきありがとうございました・・・

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大胡城・牧野氏まつり③

2016-08-12 02:12:43 | 歴史
【牧野氏まつり】
いよいよ牧野氏まつりの本番です。まつりを盛り上げるのは川越藩火縄銃鉄砲隊(以下川越藩鉄砲隊という)ですが、今回は長岡から栃尾衆鉄砲隊が加わりました。 また開府400年を2年後に控えた長岡市からも大勢の関係者が駆けつけました。
幕末には前橋市の中心部は前橋(厩橋)藩越前松平家17万石の領地でした。 しかし川越から移ってきたのが慶応3年(1867)で、それ以前は前橋は川越藩の分領でした。すなわち寛延2年(1749)前橋藩に入封した越前松平家は明和4年(1767)に利根川による崩落がひどく川越藩に移り、前橋は分領としました。養蚕で財をなした前橋の商人は、越前松平家の前橋への復帰を画策し、慶応3年に川越から100年ぶりに戻ってきました。従って川越藩鉄砲隊は越前松平家に属していたと言えます。


(祇園まつりの大通りをパレードする九曜巴紋を付けた栃尾衆鉄砲隊)

一方栃尾衆鉄砲隊は上杉謙信が栃尾で長尾景虎と名のっていた時代の鉄砲隊で、背中に付けている旗印は長尾家の「九曜巴紋」です。上杉謙信の生涯につきましては、栃尾が生んだ上杉謙信を参照願います。
長尾氏は群馬県にも総社長尾氏や白井長尾氏がありますが、みな「九曜巴紋」です。
また長岡藩にとって川越藩は庄内藩と三方領地替えで、長岡が川越に移る予定でした。領地替えは前代未聞の御沙汰止みになりますが、この後で長岡藩は大事な領地の新潟港を失いました。

 
(鉄砲隊が養林寺に到着し牧野忠昌様と記念撮影、忠昌様の向かって左が忠慈様)

越前松平家は徳川氏の御家門で、藩祖は徳川家康の二男の結城秀康です。
長兄信康が自刃の後は二男として徳川家を継ぐ順番にあったのですが、すでに豊臣秀吉の養子となり下総結城家を継いでいたので後継者には選ばれませんでした。
関ヶ原の戦いののち秀康は北ノ庄75万石の城主になりました。 秀康の子供から5家が分かれ津山松平家(10万石)を本家に、福井松平家(32万石)、松江松平家(18万石)、前橋松平家(17万石)、明石松平家(8万石)があります。さらに松江藩から広瀬藩・母里藩、福井藩から糸魚川藩が生まれますので全部で8大名家になります。

 
(川越藩鉄砲隊が本堂と牧野家墓地に参拝、中央金色の兜は松平様)

川越藩鉄砲隊は前橋松平家当主の松平様が大将で、栃尾衆鉄砲隊は長岡藩の次期当主忠慈様が指揮をとられていました。


(大胡城本丸跡で鉄砲隊を出迎える大胡太鼓のみなさん)

 
(川越藩鉄砲隊に負けじと演武する栃尾衆鉄砲隊)


(川越藩鉄砲隊は鎧兜そして鉄砲など全て本物です)

津山松平家が10万石で宗家なのには訳があります。これは越後高田藩で起こった越後騒動が大きく関わっていますが、詳細は機会があったらお話ししましょう。
(前橋市)      ・・・つづく・・・

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大胡城・牧野氏まつり②

2016-08-11 05:27:23 | 歴史
【大胡城主・牧野康成公の法要】
大胡城跡に隣接して建っている養林寺は、牧野家の菩提寺です。天正18年(1590年)北条氏の小田原城が落城し徳川家康が関東に移封されると、牧野康成は牛久保(豊川市)から移り大胡城主となりました。そしてかって大胡氏の念仏道場があった場所に養林寺を建立しました。徳川将軍家に御朱印地として願でたところ許され、養林寺に葵の御紋の使用を許可されました。
関ヶ原の戦いのあった1600年には、康成とその嫡男忠成は家臣と共に、徳川秀忠の武将として上田城合戦に参戦しました。
上田城攻めに時間をとられ関ヶ原合戦に遅れたことから、牧野氏配下の軍令違反の責任をとらされました。康成は上州吾妻砦に蟄居させられ、忠成はいずこかへ出奔してしまい、牧野氏は存亡の危機を迎えました。
大河ドラマ「真田丸」の第二次上田合戦が近づいてますが、牧野氏が登場するか否かに興味があります。


(大胡氏の念仏道場跡に建つ養林寺)

 
(養林寺山門と徳川将軍家歴代供養塔)

許されて大胡に戻った康成は、慶長14年(1609年)病に得て大胡城で亡くなりました。2代大胡藩主となった忠成は大坂冬の陣(1614年)そして大坂夏の陣(1615年)の活躍が認められ、元和2年(1616年)に越後長峰5万石、元和4年(1618年)に越後長岡に栄転しました。
今回の法要には牛久保の牧野成定公奉賛会に加え、越後長峰城址保存会(上越市吉川区長峰)の役員の参加があり、牛久保~大胡~長峰~長岡の歴史の鎖がつながりました。
2年後の2018年は長岡に移ってから400年となり、長岡では開府400年の準備が進んでいます。


(養林寺での法要)

 
(赤城山を背にした牧野康成公墓地)

牧野家は大名が5家あります。宗家は越後長岡7万4千石で、支藩が常陸笠間8万石、丹後田辺(舞鶴)3万5千石、信濃小諸1万5千石そして越後三根山1万1千石です。田辺藩は三河の時代に分かれていますが、残りは康成の子(笠間)や孫(小諸、三根山)が藩祖です。
(前橋市)      ・・・つづく・・・

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大胡城・牧野氏まつり①

2016-08-08 05:17:32 | 歴史
【大胡城主・牧野康成公顕彰会の発足】
群馬県前橋市で開催された第2回大胡城・牧野氏まつりに参加しました。
昨年は11月でしたが、今年は大胡町の大胡祇園まつりの初日の7月30日(土)に開催されました。
前日の29日(金)、文具メーカーのプラス(株)の研修所「音羽倶楽部」で、大胡城主・牧野康成公顕彰会の発足式がありました。
徳川家康の江戸入りに合わせ、北の守りを固めるために康成公は三河の牛久保から2万石で大胡に移ってきました。


(第2回大胡城・牧野氏まつり)

 
(音羽倶楽部と牧野康成公顕彰会の発足の記念撮影)

江戸時代初めに牧野家で康成の名前が付いた武将は3人います。
まずは大胡初代藩主の牧野康成(やすなり)、次は田辺藩の藩祖となる牧野康成(やすしげ)です。牧野家は大名が5家ありますが、大胡を経由しなかった唯一の大名で、三河の時代に長岡藩の流れとは分かれています。そして最後が康成の孫で小諸藩の藩祖となります康成(やすなり)です。

 
(牧野忠昌名誉会長の挨拶と地元に伝わる八木節の披露)

顕彰会は牧野忠昌名誉会長、顧問に山本龍前橋市長そして会長に伊藤静雄前大胡町長で発足しました。
発足式には豊川市牛久保の牧野成定公奉賛会からも役員が出席されました。


(大胡城主牧野康成ゆかりの地)

(前橋市)      ・・・つづく・・・

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