高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

牧野氏まつり(後編)

2019-08-31 04:50:57 | 歴史
「牧野氏まつり」の前日は前橋市主催による懇親会があり、地元前橋市と豊川市牛久保そして長岡市の懇親を深めました。
牧野氏が大胡から越後国長峰(上越市)を経て長岡に移った後は、大胡城は前橋城の酒井雅楽頭守(うたのかみ)の支配下におかれましたが、雅楽頭守の姫路城移転に伴い廃城となりました。
さていよいよ牧野氏まつりのメインイベントの火縄銃の演技が大胡城跡で行われます。


五間梯子の隊旗を背に養林寺に集結した牧野隊)

 
(牧野康成の墓所に拝礼し、いざ大胡城へ出陣)

 
(鉄砲隊の行進と指揮するのは17代長岡藩当主の嫡子牧野忠慈さま)

400年経ったいまも大胡の人は牧野家に親しみを持っているようです。特に人気があるのは康成の正室で、酒井忠次の娘で名は於虎(鳳樹院)といい、たいそうな美人だったと伝わります。
嫡子は大胡藩2代藩主そして長岡藩初代藩主になる忠成で、娘に徳川家康の養女となって福島正則に嫁ぐ昌泉院がいる。その妹には平戸の松浦隆信に嫁ぐ永昌院がいます。永昌院の子孫の中山慶子(よしこ)は、孝明天皇の典侍となり明治天皇の生母となりました。


(牧野氏物語を朗読するのは於虎さん)

 
(迫力ある栃尾衆鉄砲隊の火縄銃の演技と見守る観衆)


(轟音を発し火を噴く火縄銃)

長岡の米百俵は小泉総理の所信表明演説で全国的に知られることになりました。米百俵の逸話の主人公は大胡で採用された小林虎三郎です。先祖は上州赤堀城主で、その末裔と伝わります。

 
(小林虎三郎の米百俵の熱演)


(演技を終え総大将牧野忠慈さまを中心に記念撮影)

(前橋市大胡)
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牧野氏まつり(前編)

2019-08-30 04:49:53 | 歴史
7月27日~28日に前橋市大胡(おおご)で行われた「牧野氏まつり」から1ヶ月が過ぎました。
大胡は長岡藩が徳川の譜代大名に大きく成長する重要な土地になります。天正18年(1590)の徳川家康の関東入府に伴い、牧野康成は大胡城2万石をまかされ、三州牛久保(愛知県豊川市)から移ってきました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは本隊の徳川秀忠に従軍し、中山道を関ヶ原目指して進軍しました。ところが途中信州上田城攻めに苦戦し、関ヶ原には痛恨の遅刻をしてしまいます。


(大胡の牧野家菩提寺の養林寺

関ヶ原の戦いで譜代で固めた秀忠軍が遅刻したのはよく知られていますが、上田城攻めで牧野隊の部下(贄掃部:にえそうぶ)が軍令違反の青田刈りをしたのが主原因とされてます。責任を問われた牧野家は康成が謹慎となり、その子忠成と部下は出奔しました。主君不在で牧野家と家臣は最も苦しい時期だったと言えます。

 
(大胡で亡くなった牧野康成が眠る墓所)

慶長9年(1604)徳川家光の誕生の恩赦で康成の処分が解かれましたが、慶長14年に大胡で波乱の人生を閉じました。


(中央が牧野康成の宝篋印塔)

今回の旅で大胡の近くに康成が建てた曹洞宗月照山湯清寺(とうせいじ)が判明しました。山号の月照山は康成の法号月照院殿と同じです。

 
(牧野康成が建てた月照山湯清寺)

康成が謹慎した城は上野国吾妻の白井城と言われてますが、今回の旅で白井長尾家の白井城ではなく、白井城の支城で大胡に近い大室城ではないかと地元の歴史家が推理してました

 
(大室城本丸跡に建つ大室神社)

大胡の近くに二宮赤城神社があります。元和元年(1615)大坂夏の陣に際し、若き当主牧野忠成は戦勝を祈願して一対の絵馬を二宮赤城神社に奉納しました。絵馬には金箔の跡が見え、掲げられた当時はかなり立派なものと推定できます。


(二宮赤城神社)

 
(牧野忠成が奉納した絵馬)

大坂冬の陣と翌年の夏の陣で戦功をあげた牧野一族は、元和2年(1616)越後国長峰5万石へ転封となり、まだ城が完成をみないうちに越後国長岡に加増の上再転封となった。軍令違反を犯し切腹を命じられた贄掃部のその後ですが、なぜか紀州家の徳川頼宣に再仕官します。その子孫は徳川吉宗に随従して江戸に入り、将軍家の直参旗本となった。またこの家系から堺奉行に抜擢された子孫もいる。
牧野家の再度の加増を考えると牧野親子の処分は、関ヶ原遅参を口実化させる出来レースだという人もいます。
次回は牧野氏まつりのメインイベントの大胡城址で行われた火縄銃の演技です。


(大胡城址を背に鉄砲を構える牧野駿河守)

(前橋市大胡)
(つづく)
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長岡開府400年(前編)

2018-12-29 00:05:08 | 歴史
今年長岡市は開府400年を迎えました。元和4年(1618年)に初代藩主牧野忠成公が長岡に移ってから400年ということです。
戊辰北越戦争では会津藩の同盟軍となり長岡は焼け野原になりました。昭和になってからは太平洋戦争で再び市街地が燃え、平成では中越地震で大きな被害を受けました。幾多の困難を乗り越え不死鳥のように蘇るのが長岡です。
開府400年行事の詳細は、長岡開府400年(前編)長岡開府400年(後編)をご覧下さい。  


(長岡開府400年、次の100年に向かって)

 
(長岡駅、かってここには長岡城の本丸がありました)

 
(雪の長岡城と歴代藩主の幟)


(記念式典の式次第)

 
(二の丸跡の会場は満員の盛況でした)


(小和田哲夫氏の記念講演)

 
(会場の外ではけまりの実演や錦鯉の展示がありました)

(長岡)

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「米百俵まつり」時代行列(後編)

2017-10-24 05:42:58 | 歴史
【ときを越え 一日限りの“長岡藩”】
時代行列は信濃川の川西からスタートです。かってここは長岡城を攻めた西軍が、大水の信濃川を渡り長岡城に奇襲をかけた所です。
むかし長岡に関係した以仁王、八幡太郎義家、直江兼続そして堀直寄に続き、戊申戦争の長岡藩全軍が集結します。長岡藩は第一陣、第二陣、第三陣、本陣そして第四陣で編成されますが、拙者は藩主を守る本陣隊の一人です。


(米百俵まつり)

 
(信濃川に架かる大手大橋を渡り、すぐ前は城に続く大手通りです)

 
(待機中で陣を離れパチリ)

 
(藩主と全軍隊長が集結)

 
(三根山藩から米百俵が届く)


(小千谷談判)

少しだけあった長岡市広報の動画
(長岡市)

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「米百俵まつり」時代行列(前編)

2017-10-23 06:00:19 | 歴史
今月7日に長岡で「米百俵まつり」時代行列があり、これに参加しました。ネットで動画が投稿されるのではと待ってたのですがが、適当なものがありませんでした。
今回は本人が行列に参加していましたので、よい画像を見せることができません。
そのむかし、大名行列は1週間以上かけて長岡と江戸を往復しました。江戸時代の長岡藩上屋敷は東京駅で、一方長岡城本丸は長岡駅ですので新幹線で今では2時間の距離になりました。


(東京駅は江戸時代は長岡藩の上屋敷)

 
(長岡駅は長岡城の本丸跡)

 
(久しぶりの故郷に長生橋の暖簾と三尺玉が出迎えてくれました)


(かって長岡駅にはこんな城がありました)

 
(今は長岡城の模型と石碑を残すのみです)

 
(米百俵まつりの中心会場となる二の丸跡)

 
(長岡藩の五間梯子と秘密兵器ガトリング砲)


(これからこの大手通りを行進します)

(長岡市)
超大型台風の中心が近くを通っているようです。風も雨もピタリと止みました。

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大胡城・牧野氏まつり(前編)

2017-08-30 05:26:29 | 歴史
ひと月前ですが群馬県前橋市大胡(おおご)で牧野氏まつりがありました。牛久保(豊川市)から移ってきた牧野家が大胡城にいたのは、天正18年(1590)から元和2年(1616)までの26年間ですが、その後大胡城が廃城になったこともあり、地元では城主は今でも牧野氏として慕われています。
牧野氏は大胡から新潟県上越市の長峰城に移りますが、城造りをしている間の元和4年(1618)に再度長岡転封となり、ほとんどの家臣団は大胡から直接長岡に移りました。来年2018年が長岡開府400年となり、長岡では各種行事が予定されています。


(前夜祭は地元合唱団の歓迎を受けました)

今年のNHK大河ドラマは「おんな城主・井伊直虎」ですが、井伊家と同じように牧野家も今川義元に属していました。桶狭間の戦いで義元が敗れたことで、牧野康成は今川家を離れ徳川家康に属することになりました。

 
(牧野氏菩提寺の養林寺での法要)

 
(養林寺に眠る牧野備前守)


(牧野家の常在戦場の精神です)

大胡は前橋市の中央から少し東に位置しますが、付近には古城址や古代の豪族の前方後円墳などがいくつかあります。
後編では大胡城で鉄砲隊などの演技があります。いつもコメントをくださいます信徳さんは、県の観光リポーターですので、会場で会えるかもしれません。

 
(天幕城址のハス)


(キツネノカミソリ)

(前橋市)

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2017年春の旅(その11:旅のおわり)

2017-06-14 05:18:29 | 歴史
【上州白井城】
車の旅では宿泊先を決めないで、道の駅を利用する人も多く、最後の宿は旧三国街道白井(しろい)宿にあります「道の駅こもち」(渋川市白井)でした。この道の駅にしたのには理由があり、白井宿の高台に上州白井城があり、この城跡の探索が目的でした。


(道の駅こもち周辺図、左上に白井城跡)

 
(旧三国街道白井宿)

長岡は来年開府400年を迎えますが、長岡牧野家が全て順調だったわけではありません。1600年関ヶ原の戦いでは、秀忠に従い上田城攻めを担いました。関ヶ原に遅参した理由として、功を急いだ牧野家家臣の青田刈りの軍令違反を咎められました。家臣の処罰を拒んだ藩主康成は上州白井城に幽閉、後に初代長岡藩主となります忠成はいずこへか出奔しました。大胡城の牧野家は、藩主のいない時代を過ごしました。


(上州白井城)

4年後の1604年、やがて3代将軍になります家光の誕生の恩赦で、幽閉は許され大胡城に戻りました。 長岡藩主と家臣そして領民の結束が固いのは、大胡の時代に改易の危機を乗り越えたのも理由の一つとされます。

 
(ほとんどが畑の白井城三の丸と二の丸跡)

 
(のずら積みの石垣が残る枡形門と本丸跡)

1624年に上州白井城は廃城になり、本丸を囲む二の丸、三の丸そして多くの郭が農地になりますが、幸いにも土塁や堀切などはそのままの形で残されています。

 
(本丸付近から見下ろす吾妻川と吾妻川から見た白井城遠景)


(三国の山よ、さようなら)

(春の旅をおわります。ありがとうございました)

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2017年春の旅(その6)

2017-05-31 06:01:49 | 歴史
【蒼柴の杜に流れる招魂の調べ】
戊辰戦争の中でも西軍(新政府軍)の最強部隊と4か月にわたり、長岡藩と激闘になったのが北越戦争です。
北越戦争とその10年後に起った西南戦争で、長岡藩士は多くの戦死者を出しました。
北越戦争から150年になりますが、長岡藩士の末裔は、毎年死者の供養を続けています。今年も遠くはパラオからの出席者を含め、大勢の末裔が全国から蒼柴の杜(あおしのもり)に集まりました。
戦争を避けようとしながらも回避できなかった祖先の無念が伝わってきます。


(蒼柴神社の左奥に招魂社があります)

 
(毎年長岡城落城の日に招魂社祭があります)

招魂社の左右には戦死者の墓があります。また社の左前には軍事総督河井継之助と大隊長山本帯刀(たてわき)の墓が並んでいます。
山本家は戦争責任を取らされ斬絶しましたが、山本五十六が山本家の養子となり復活し、その後五十六は連合艦隊司令長官になりました。
こちらも最後まで太平洋戦争には反対しましたが、最後は大隊長山本帯刀と同じ道を辿りました。

 
(軍事総督河井継之助、大隊長山本帯刀の墓と柏の木)

招魂社の右側に柏の木があります。
このカシワは越後長岡の第9代藩主で老中も務めた牧野忠精(まきのただきよ)公が、牧野家のふるさと牛久保の熊野神社の神前に植えたカシワの2代目を移植したものです。

 
(招魂社の隣に鎮座します歴代藩主の墓と3代藩主牧野忠辰公の墓)

越後長岡藩の歴代藩主の墓は、菩提寺の東京都港区の済海寺にありましたが、昭和58年に蒼柴の杜に戻ってきました。
一つだけ形の違う墓は3代藩主牧野忠辰公で、こちらは大田区の日蓮宗大本山池上本門寺から平成7年に移されました。
なお、このブログ名のaoshinomoriは蒼柴の杜に由来します。

(春の旅から)

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長岡に落とされた模擬原子爆弾

2016-10-17 05:36:34 | 歴史
9月中旬の北の旅の途中で長岡に立ち寄りました。特に長岡に用があったわけではありませんが、牧野家資料館、河井継之助記念館そして今回は模擬原子爆弾が投下された左近の土手に立ち寄りました。


(長生橋の上流に開いた正三尺玉、この左手付近に模擬原子爆弾が落とされました)

昭和20(1945)年7月20日、長岡市の信濃川にかかる長生橋の近くの左近の土手に1発の大型爆弾が落とされました。これが太平洋戦争で長岡に投下された初めての爆弾でした。
その12日後の8月1日の夜から2日にかけ、西太平洋テニアン島を飛び立った125機のB29による爆撃で長岡市の中心街は全焼し、死者は1500人を数えました。
日本の三大花火と言われます長岡の花火は、長岡空襲の慰霊と復興(戊申戦争、太平洋戦争、中越地震)そして長岡市民の平和の祈りをこめて、毎年8月2日~3日に打ち上げられます。

 
(永代橋の向こうは長岡市街、反対側は信濃川方面)

左近に落とされた爆弾が原子爆弾の模擬弾だったことがわかったのは平成に入ってからのことで、模擬原子爆弾は全国で49個落とされました。
アメリカは昭和20年に入りますと、原子爆弾攻撃の実行計画をたてました。その投下予定地として京都・広島・新潟・小倉・長崎の5都市を最初に選んでいました。
県下一の都市の新潟市へ空襲が行われなかったのは、無傷で原爆の威力を確認するためと言われています。
模擬原子爆弾投下の重要な目的は、原子爆弾の正確な目標地点への投下と投下した飛行機が急旋回より放射線から脱出する訓練でした。


(模擬原子爆弾投下の説明文)

(長岡市)

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大胡城・牧野氏まつり④(最終回)

2016-08-13 06:17:20 | 歴史
大胡城の周辺には牧野氏にかかわりのある神社や寺がたくさんありますが、今回はその中から大胡神社を訪れました。
また大胡城の詳細も載せませんでしたが大胡城と養林寺(大胡町)を参照願います。


(大胡城の守り神の大胡神社)

大胡の時代はわずか26年間でしたが、常在戦場を掲げます牧野家が大きく飛躍する期間でした。大胡から越後長峰に移りますが、長峰については幻の越後長峰城を歩くを参照して下さい。

 
(地元民に慕われる鶴姫供養塔と大前田英五郎の墓)

牧野康成の息女に鶴姫がいたと伝わります。重い病で大胡城に入れず、康成は城外に御殿を建て家臣を付けて住まわせました。
鶴姫は地元民に慕われ、病は全快するも別の病で他界しました。鶴姫に付き添っていた家臣は長岡には移らず、大胡で鶴姫の供養を続けました。
康成の息女には福島正則の正室昌泉院や松浦(まつら)家正室の永昌院が良く知られています。永昌院は松浦家~中山家を経て、中山慶子(よしこ)が明治天皇の母になり、天皇の子孫を先祖にする牧野家が、天皇家に牧野家の血を残すことになりました。
一方大前田英五郎は国定忠治と並ぶ上州の侠客です。


(出番を待つ祇園まつりの暴れ獅子)

今回の旅は花が目的ではありませんでしたが、わずかですが見た花を載せます。


(キレンゲショウマ)

 
(白花もあったレンゲショウマ)


(最後はナツエビネ)

(前橋市)   ・・・歴史の旅にお付き合いいただきありがとうございました・・・

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