【清川口の戦い】
月山を源とする立谷沢川が、最上川と合流する地点が清川口で、新政府軍と庄内藩の戦いは慶応4年4月24日にここから始まりました。仙台に上陸した新政府軍は清川の対岸の腹巻岩を占領し、庄内藩と川を挟んで戦いました。
この年は4月の後に閏4月があり、慈眼寺の会談があった5月2日とは1か月以上も早い戦いでした。この戦いで庄内藩は勝利しましたが、朝敵になることを恐れた庄内藩は一旦引き上げることになりました。
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(清川口の古戦場。対岸の山が新政府軍が陣にした腹巻岩)
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(清川口からの最上川の上流と下流の眺め)
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(下流に風力発電が見えます) (古戦場跡に建つ清河神社)
ここは昔は清川村と呼ばれ、新撰組にの母体となる浪士隊を造った清河八郎のふるさとです。彼は当時の最高学府の昌平坂学問所などで学び、また千葉周作の玄武館で剣術を学び北辰一刀流兵法免許を得ていますが、25歳で江戸で清河塾を開きました。
寅太は最初は清河八郎を師とし、昌平坂学問所で学んだ後は河井継之助、そして最後は山田方谷を師としました。
おりしも昨日は群馬県の前橋育英高校が、甲子園で初出場で優勝という快挙を打ち立てました。偶然にも、阪神タイガースの親会社の阪神電鉄を造った外山脩造(寅太)の、最初の師の土地を訪れたことになりました。
(2~3日出かけますので休みます)
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(新撰組の母体を造った清河八郎の銅像)
(鶴岡市)