高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

オカトラノオとアサギマダラ

2009-06-30 06:52:53 | 四季

旅する蝶のアサギマダラ(浅葱斑)と、今年2回目の遊びを高尾山でしてもらった。前回6月初めの蝶の止まる花は、ウツギ(空木)であったが、昨日はオカトラノオ(岡虎の尾)である。
昨年は、カシワバハグマ(柏葉はぐま)の咲いた南高尾きであった。

 

不思議というか当然というか、3回とも全て雌であった。雌雄の違いは内側の羽に黒い斑点があると言われるが、まだ雄をじっくり観察したことはない。
雄を観察するには、同行に女性を加えれば良いのであろうが、これは望めそうもないので、少し派手な山行きの格好と、帽子に蝶形のリボンでも付けようかと考えている。

 
(雄の特徴の黒い斑点とオカトラノオを横から撮ると岡猫の尾??)

(高尾山)

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コボタンヅル

2009-06-29 23:59:26 | 樹木

 
(1回3出複葉がボタンヅル、2回3出複葉がコボタンヅル)

小牡丹蔓/キンポウゲ科/センニンソウ属。
日当たりの良い林縁や林内などに生える蔓性半低木。ボタンヅルの変種。
葉は2回3出複葉で対生し、小葉には粗い鋸歯がある。花は1.5~2cmで花弁がなく4枚の白いがく片と、雌しべと雄しべが多数ある。痩果には羽毛状の花柱が残る。
名前の由来:葉が牡丹の葉の形に似て、ボタンヅルより葉が小さいことからこの名が付いた。
花期:8~9月。
(高尾山)
【山野草の索引(樹木)へ】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボタンヅル

2009-06-29 09:48:21 | 樹木


 

牡丹蔓/キンポウゲ科/センニンソウ属。
日当たりの良い林縁や林内などに生える蔓性半低木。
葉は1回3出複葉で対生し、小葉には粗い鋸歯がある。花は1.5~2cmで花弁がなく4枚の白いがく片と、雌しべと雄しべが多数ある。痩果には羽毛状の花柱が残る。
名前の由来:葉が牡丹の葉の形に似ていることからこの名が付いた。
花期:8~9月。
(高尾山)
ボタンヅルの実
【山野草の索引(樹木)へ】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天地人(八王子城その3)

2009-06-29 03:28:43 | 歴史
八王子神社の奥はうっそうと樹木が茂っているが、その木立の向こうにやや小高い岡のようなものが見えた。手前にはその岡を守るように、サイハイラン(采配蘭)がたくさん咲いている。
本丸の案内標識は見当たらないが、草に隠れた細い道を登ってみると、かなり狭い平地に社が建っていた。その隣の石碑には、「八王子城本丸址」とある。
この標高446mの平坦地から周りを見ると、木で囲まれて見通しは利かない。これでは城山に登っても、本丸址に気づかずに、山から降りる人もいるであろう。
むかし、激しい攻防戦のあった山頂付近には、サイハイラン(采配蘭)が異常に多い。城主の北条氏照に、采配を求める声が聞こえてきそうである。
この城主不在の一日の落城には後日談がある。
惨殺した家来や子女の首を小田原に運び城前に並べ、北条勢に見せ付けたという。さしもの相模の雄も降伏し、小田原城と八王子城の氏政、氏照 兄弟は開城、秀吉に切腹を命じられた。



(装飾花がないコアジサイは富士見台の少し手前に咲いていた)

 
(八王子城絵図と本丸の周りに咲いていたサイハイラン)

前回、山頂からの八王子の展望を載せたが、下界がよく見える付近は、松木曲輪とも呼ばれる二ノ丸跡である。本丸跡とサイハイランに別れを告げ、尾根づたいに、西側の「詰めの城」を目指す。
堀切と尾根特有のアップダウンが続き、約30分で石の多い小さな広場に出た。ここが「詰めの城」であり、規模的には見張台程度の建物があったことは想像されるが、不思議にも「天守閣跡」と書かれている。
「詰めの城」から約30分で富士見台であるが、最後の登りはかなりきつくなる。
富士見台の狭い平坦地の周りも、木が茂って眺めは利かない。
条件の良い日には、富士山が見えるといわれる。
ここを縦走すれば、裏高尾に降りられる。途中で両手にステッキを持った老人に出会った。日影方面の小下沢林道から登ってきたとのことである。
十分な山歩きの格好でもないし、この時間から本丸経由で、縦走は無理である。
運よく、もう一人若い登山者がいたので、その人が付き添って裏高尾の蛇滝口に降りることになった。
寅太は同行者と付近の植物を観察しながらの下山であるが、途中で二人に追いついた。老人が急坂で転び、メガネをがけ下に飛ばし、見つかったが壊れて修理中であった。
付き添いに恵まれなければ、遭難であったであろう。寅太の仲間が先頭に立ち先陣を務め、寅太が殿(しんがり)で二人を守るように下山した。

 
(小さな社と、石碑の文字は「八王子城本丸址」)

 
(サイハイランに見送られ、約30分で天守閣跡に着く)

 
(最後の険しい山道を登ると富士見台)

八王子城の縦走は今回が最終回であるが、城の根小屋に菩提寺の閑窓寺があった。またその少しJR高尾駅方面に、廿里(とどり)古戦場の碑があったので紹介する。
 「川はいつも 流れていなければならぬ
      頭はいつも 冷えていなければならぬ
  目はいつも 澄んでいなければならぬ
      心はいつも 燃えていなければならぬ」

反省。そして八王子城の霊魂に合掌。

 
(八王子城入口の根小屋地区にある閑窓寺)

 
(閑窓寺のお言葉と廿里古戦場の碑)

(八王子市)

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天地人(八王子城その2)

2009-06-28 01:17:26 | 歴史
御主殿跡と御主殿の滝を見て、先ほどの管理棟に戻った。管理棟には学芸員が詰めており、説明を依頼すれば、曳橋、虎口の石垣、御主殿跡などの説明を、発掘時の写真などを見せながら、丁寧に説明してくれる。
今まで山城と思っていたのが、中国製の陶磁器、茶道具、ガラス器などの出土品を見ると、華やかな氏照の生活が偲ばれる。
北条氏照の墓の付近から管理棟までが、いわゆる根小屋と呼ばれる地区で、平時はここで農業などをやりながら、家臣が暮らしていた所である。
その途中に田圃があり、柿の木にモリアオガエルの卵が観察された。
新聞にも載ったようで、車で見物に来る人もいた。
いよいよ管理棟の横を通り、八王子城の本丸を目指すことにする。


(根小屋地区の柿の木に付いたモリアオガエルの卵)

 
(八王子城の絵図と中腹の平坦地)

道の隣に棚田状の平坦地が観察されるが、曲輪があった跡である。しばらく登るとさらに広い場所に出た。金子丸と書かれた標識が建っている。
金子の文字から、これは金蔵かと思って説明文を読むと、重臣の金子三郎右衛門家重が守備していたく曲輪跡で、ここを通り抜けないと本丸に進めない造りになっている。
金子丸の曲輪跡からは、八王子の街がよく見える。
そこから更に登るとふたたび曲輪跡に着くが、小宮曲輪である。八王子城攻防戦は、前田利家が虎口(大手口)、上杉景勝が搦め手から小宮曲輪付近を奇襲し、北条勢は奮戦するも、一日で城は落ちた。
さらに登るとかなり広い場所に出た。大きな八王子神社の建物と石碑が建っている。延喜13年(913年)に華厳菩薩妙行が、深沢山(現在の城山)山頂で修行中に、牛頭天王(ごづてんのう)が八人の王子を連れて現れた。その伝説から北条氏照は築城にあたり八王子権現を祀り、これが八王子の名前になったと言う。なるほど、吉祥寺は寺であるが、こちらは八王寺ではなく八王子である
山頂にベンチがあり、そこからの眺めは素晴らしい。本丸の標識を探すが見当たらないが、どうしたのであろう。

 
(金子丸から見た八王子)

 
(山頂付近には八王子神社と石碑が並ぶ)


(山頂から八王子市の眺め)

(八王子市)

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天地人(八王子城その1)

2009-06-27 09:51:34 | 歴史

上杉謙信にはわかっているだけでも、4人の養子がいた。年長から言えば、山浦国清、上条義春、そして御館の乱で争った景虎と一つ年下の景勝である。
山浦国清、上条義春は、由緒ある名門の
山浦上杉家、上条上杉家をすでに継いでいた。
景虎は御館の乱で敗れ相模を目指したが、命運尽きて妙高の近くの鮫ヶ尾城で自刃した。
北条氏康の長男は氏政で、二男が八王子城主の氏照、景虎は七男である。
大河ドラマ「天地人」で、中盤の山場になるであろう小田原の北条攻めであるが、上杉景勝と直江兼続は、八王子城の搦め手から攻め入っったと記録にはある。猛攻で一日にして城は落ちるが、実はこの時、城主の氏照は八王子城には不在で小田原にいた。
6月の上旬に一足先に山頂に登って来たが、
城跡にはサイハイラン(采配蘭)が群生していた。昔の合戦で、本来なら采配は1本が望ましいが、乱立している光景は、家臣が氏照に采配を求めているように見えた。
哀れ家臣は全滅、子女は次々に御主殿の滝に身を投げ、城山川は数日間真っ赤に染まったと伝わる。


(八王子城址に咲くサイハイランの群生)

 
(八王子城古図と相模の北条一族)

近年発行された日本の百名城に、八王子城も入っているので、訪れる人も多い。発掘で城の規模は、極めて大きいことがわかってきた。これは落城後に廃城となり、城の跡地も天領や国有林となり、そのまま4百年間保存されてきたことが幸いした。
氏照の墓は、城の入口より少し手前の、右手の山の中腹にある。うっそうと木が茂り、一帯は一人では歩けないほど霊気が漂っている。
氏照は兄の氏政と小田原で切腹しているので、墓は慰霊塔というのが正しいかも知れない。でもあちこちに転がっている石の下に、間違いなく家臣は眠っている。 曳橋は曳いて敵の侵入を阻むが、この巨大な曳橋は、壊して落とす方式である。
また御主殿跡の広い芝生が植えてある平地は、発掘調査で遺構が見つかり、記録に残した後で、埋め戻されている。

 
(北条氏照墓をさらに進むと八王子城入口の管理棟が見える)

 
(忠実に再現した巨大な曳橋と発掘で現れた虎口の石段)

 
(氏照が住んだ御主殿跡と子女が身を投げた御主殿の滝)

(八王子市)

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベニシュスラン

2009-06-26 08:44:21 | 山野草
繻子の名が付くこの植物は、寅太のお宝の一つであるが、山野草に関心がなければ、花や葉もなんら面白くない。
いま鳥のくちばしののような半開状の花を咲かせているが、花の数が少し少ない。殖やすにはコツがあるようで、販売業者に聞いたので、数年後にはもう少し多くの花を咲かせたい。


(2011.07.08 少し花の数が多くなった)

紅繻子蘭/ラン科/シュスラン属。
常緑樹林内に生える多年草
葉は数枚が互生し、表面はビロード状で葉脈に沿って白班がある。茎頂に1~2個の花を付ける。花の色は白色で淡紅色を帯び、半開状で唇弁はやや短く、先端が外側に反り返る。
名前の由来:葉の表面の様子が繻子(繻子織り)に似て、花に紅色の線があることからこの名が付いた。
花期:7~8月。
【山野草の索引へ】
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イナモリソウ

2009-06-25 01:56:32 | 山野草
久しぶりに高尾に戻ってきた。全国藩校サミットin長岡の2日目の視察研修を、やっとまとめることができた。まだ50点の出来栄えであるが。おいおい校正したいと思っている。
実物は淡いピンク色なのだが、撮ると少し白く見える。

 

稲森草/アカネ科/イナモリソウ属。
山地の林下などに生える多年草。
葉は卵形または三角状卵形で、上部の2対の葉は接近しているので4枚の輪生に見える。花冠は淡紅紫色で、葉腋に1~2個付ける。
名前の由来:三重県の稲森山で発見されたことからこの名が付いた。
花期5~6月。
(高尾山)
【山野草の索引(2)へ】
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第8回藩校サミットin長岡

2009-06-24 13:31:48 | できごと

長岡で開催された「第8回藩校サミットin長岡」から戻っても、関係資料や画像送付などで徹夜に近い状態が続き、ブログをサボル結果になりました。
やっと落ち着いてきましたので、宜しくお願い致します。

越後長岡牧野家の紋は、参州三河の時代から三葉柏である。
長岡城跡のホテルでの交流会では、最初にでてきた料理にカシワ(柏)の葉が使われていた。中越は日本酒の宝庫で、出された酒も各種の銘柄があったが、特に目立ったのは牧野家が藩士に率先して、酒造り始めた日本酒「三葉柏」である。
そして最後を締めるのは、長岡藩主のお墨付きで日本三大銘菓「越の雪」である。


(現代の名工の料理は先ずカシワの葉、日本三大銘菓「越の雪」も見える)

 
(越後長岡藩牧野家の紋は三葉柏)

一部の講演会は長岡市立劇場で、徳川宗家ご列席のもとで、越後長岡藩牧野実行委員長の挨拶で始まった。
越後長岡藩の藩校は「崇徳館(そうとくかん)」で、河井継之助や小林虎三郎らが学んだ。
崇徳館と米百俵の流れをくんだ長岡高校からは山本五十六など、多くの人材を輩出している。
ご当主の牧野忠昌さまが、名誉職でない実行委員長を務めるのも異例のことである。これは「常在戦場」の長岡藩ではの人選で、大会開催に当たっては実行委員長は、頻繁に江戸と越後を往復された。
参加者は千6百人で、整理券はすぐにはけ、事務局では断わるのにたいへんだったとのことである。
当日も期待を込めて、会場に押しかけた人で、会場の階段も埋まり、会場の外のテレビで観戦する人が多数見られた。
寅太は大会協力者でもあるので、残念ながら米百俵の長岡高校で学んだ櫻井よしこさんの鼎談は聞けなかった。
2部の交流会の酒はふんだんにあり、余った酒は持ち帰り自由なのも、酒の本場である。旧藩主のご当主が長岡に集まったわけであるが、51もの多くの藩主が揃うのは、江戸城以来の出来事ではないかとの挨拶もあった。

 
(詩吟でオープニングそして越後長岡藩牧野実行委員長挨拶)

 
(酒造り歌で歓迎、交流会場風景)

 
(徳川宗家を中心に集合、持ち帰り自由の日本酒)

 
(視察研修の中から、牧野家霊廟と米百俵の群像)

(長岡市)
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戊辰の戦場を歩く(その5・小出島Ⅱ)

2009-06-22 09:41:57 | 歴史

この書き込みを終わらせてから、長岡に向かいたかったのですが、出発が朝の4時出発で発信する余裕がありませんでした。
第12回「藩校サミットin長岡」が無事に終わり、昨日遅く帰ってきたところです。
戊辰の戦場を歩くの最終回です。

小千谷から小出にかけての一帯に
は、ニセアカシアが多く生え、今が花の盛りである。このニセアカシアを見ながら、次の地に向かう。
会津藩が小出島陣屋に、代官ではなく奉行を送り込むのは、最初で最後のことである。会津藩は町野源之助(主水)を、この重要な越後の守りを命じた。
着任したは源之助は諏訪神社で、武運長久の祈願祭を執り行い、迫り来る西軍に備えた。この地も激しい戦禍にさらされ、社殿の柱には弾の痕が残っているという。


(会津士魂のように真っ白なニセアカシア)

 
(ニセアカシアの林)

小出島の戦いは、4月27日の一日で決着が付き、会津藩兵は六十里越を越えて逃げ去った。会津に戻った源之助は、この後も奮戦しながらも会津戦争を生き延びた。戦後は主水(もんど)と名を改め、会津藩兵の遺体処理に奔走した。
小出島にも数回訪れ、破間川の少し上流にある、会津藩菩提寺の萬行寺(まんぎょうじ)にも寄った。
彼の死後、子息ら関係者が源之助を偲んで植えたという、イチョウ(銀杏)があるというので萬行寺を訪れた。
本堂の前にあるイチョウを撮っていると、運よくご住職が車で戻ってきた。源之助のイチョウのことを訪ねると、中に入ってお茶でもと言う。
住職が持ち出してこられたのは、松平容保の七男の保男(もりお)氏が、寺を訪れた時の色紙である。保男氏は朝日山古戦場の碑を書かれ、秩父宮勢津子妃殿下の養父であることは先日述べた。
裏面には、時のご住職が来訪時の模様を、記録に残していた。
カメラに写しても良いと言われるので、遠慮がちに撮ったら歪んでしまった。その時の松平家の当主が、源之助や小出島に散った藩士におくった文字は、「一誠」であった。
本堂では位牌の説明を受けたが、会津藩士の「戊辰戦死者位」と、もう一つが源之助の位牌である。戒名は「武孝院殿顕誉誠心清居士」で、彼の遺言と伝わる「無学院殿粉骨砕身居士」とは、小出島の位牌は異なる。
町野家も会津では悲劇の一家で知られ、母、姉、妻そして子供二人の5人が自刃しているが、位牌には彼の戒名の左右にその5人も書いてある。「亡骸(なきがら)は筵(むしろ)につつみ、縄で縛って葬式を出すこと」は、戦場の仲間と同じようにせよというもう一つの遺言は、子孫は守ったと伝わる。

 
(町野源之助が武運長久を祈った諏訪神社)

 
(破間川の上流の会津方面と右は下流の魚野川方面)

 
(小出島陣屋の会津藩菩提寺萬行寺と本堂前のイチョウ)

   
(松平家ご当主からは「一誠」の二文字)

いよいよ越後路を後にすることになった。関越道の後方に越後三山が遠ざかる。向かって左から越後駒ケ岳(2003m)、中ノ岳(2085m)、そして八海山(1778m)である。「天地人」の冒頭のタイトルバック映像で、直江兼続が山頂に立っているシーンがあるが、霊峰の八海山である。
天地人と戊辰の古戦場めぐりは、これで終わります。ありがとうございました。本日から、第12回藩校サミットin長岡で、これから長岡に向かいます。

 
(小出島を後にする車を、雪を被った越後三山が追いかける)

(魚沼市小出)
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする