【蒼柴の杜に流れる招魂の調べ】
戊辰戦争の中でも西軍(新政府軍)の最強部隊と4か月にわたり、長岡藩と激闘になったのが北越戦争です。
北越戦争とその10年後に起った西南戦争で、長岡藩士は多くの戦死者を出しました。
北越戦争から150年になりますが、長岡藩士の末裔は、毎年死者の供養を続けています。今年も遠くはパラオからの出席者を含め、大勢の末裔が全国から蒼柴の杜(あおしのもり)に集まりました。
戦争を避けようとしながらも回避できなかった祖先の無念が伝わってきます。 招魂社の左右には戦死者の墓があります。また社の左前には軍事総督河井継之助と大隊長山本帯刀(たてわき)の墓が並んでいます。
山本家は戦争責任を取らされ斬絶しましたが、山本五十六が山本家の養子となり復活し、その後五十六は連合艦隊司令長官になりました。
こちらも最後まで太平洋戦争には反対しましたが、最後は大隊長山本帯刀と同じ道を辿りました。 招魂社の右側に柏の木があります。
このカシワは越後長岡の第9代藩主で老中も務めた牧野忠精(まきのただきよ)公が、牧野家のふるさと牛久保の熊野神社の神前に植えたカシワの2代目を移植したものです。
一つだけ形の違う墓は3代藩主牧野忠辰公で、こちらは大田区の日蓮宗大本山池上本門寺から平成7年に移されました。
なお、このブログ名のaoshinomoriは蒼柴の杜に由来します。
(春の旅から)
戊辰戦争の中でも西軍(新政府軍)の最強部隊と4か月にわたり、長岡藩と激闘になったのが北越戦争です。
北越戦争とその10年後に起った西南戦争で、長岡藩士は多くの戦死者を出しました。
北越戦争から150年になりますが、長岡藩士の末裔は、毎年死者の供養を続けています。今年も遠くはパラオからの出席者を含め、大勢の末裔が全国から蒼柴の杜(あおしのもり)に集まりました。
戦争を避けようとしながらも回避できなかった祖先の無念が伝わってきます。 招魂社の左右には戦死者の墓があります。また社の左前には軍事総督河井継之助と大隊長山本帯刀(たてわき)の墓が並んでいます。
山本家は戦争責任を取らされ斬絶しましたが、山本五十六が山本家の養子となり復活し、その後五十六は連合艦隊司令長官になりました。
こちらも最後まで太平洋戦争には反対しましたが、最後は大隊長山本帯刀と同じ道を辿りました。 招魂社の右側に柏の木があります。
このカシワは越後長岡の第9代藩主で老中も務めた牧野忠精(まきのただきよ)公が、牧野家のふるさと牛久保の熊野神社の神前に植えたカシワの2代目を移植したものです。
(招魂社の隣に鎮座します歴代藩主の墓と3代藩主牧野忠辰公の墓)
一つだけ形の違う墓は3代藩主牧野忠辰公で、こちらは大田区の日蓮宗大本山池上本門寺から平成7年に移されました。
なお、このブログ名のaoshinomoriは蒼柴の杜に由来します。
(春の旅から)