高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

5月の山野草(寅太の庭編)

2011-05-31 06:08:59 | 山野草
寅太の庭の山野草は、ほとんどが鉢植えになっています。早春の花のカタクリ(片栗)コシノコバイモ(越の小貝母)ニリンソウ(二輪草)などは、今回の雪国の旅ではまだ咲いていましたが、庭ではすでに葉が枯れて地上から姿を消しました。
エビネ(海老根)は5月に咲きこの庭の主役なのですが、今年は開花がよくありませんでした。寅太の庭からも、10個を選んで載せてみましたが、かなり個人で好みが違うと思います。
(順不同)


ムサシアブミ(武蔵鐙)

 
イワチドリ(岩千鳥))        (スズムシソウ(鈴虫草)

 
ヒトリシズカ(一人静))        (ツルアリドオシ(蔓蟻通し))

 
アズマシロガネソウ(東白銀草))     (コケリンドウ(苔竜胆)

 
イカリソウ(碇草))       (ユキザサ(雪笹)


ユキモチソウ(雪餅草)

(寅太の庭)

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5月の山野草(高尾編)

2011-05-30 05:53:04 | 山野草
春の放浪記を続けていましたら、5月もあと2日で終わりになりました。高尾山の花を追いかけるのを止めたのでもありませんし、天候を見てはかけています。また庭にも春の花が咲いていますので、5月の総集編として、高尾と寅太の庭の画像の中から10個を選び、お詫びに少し画像を大きくして載せようかと思います。
6月は再び歴史に戻り、八石山系で見たシャクから始めます。
(順不同)


キンラン(金蘭)

 
タチガシワ(立柏))         (クマガイソウ(熊谷草)

 
ホタルカズラ(蛍葛))        (ヤマルリソウ(山瑠璃草)

 
ヤマシャクヤク(山芍薬))       (クワガタソウ(鍬形草)

 
ヒメオドリコソウ(姫踊り子草))    (ワニグチソウ(鰐口草)


(ミドリニリンソウ(緑二輪草))

(高尾山)
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春の放浪記(その9)八石山系越え

2011-05-29 06:03:29 | 四季
長岡市と柏崎市の間に横たわりますのが八石山系です。

(八石山の昔話)
むか~しむかし、ある村に父親と太郎という子供がいたと。そこに次郎を連れた女が再婚したんだと。父親が死ぬと継母の太郎いじめが始まったと。ある日母親は二人に、向こうの大仏山に五合づつ豆を蒔いてこいや、収穫が多かったほうをこの家の跡取りにするすけ。とゆうて、次郎には生豆を、太郎には煎り豆を渡したと。(さ~んすけ)
次郎の畑は青々と芽が出たろも、太郎の畑はなん~も出なかったと。ところが1本だけ芽がでてきて、天にも届く大木になったと。秋になると太郎のほうが八石もこってぇいっぺいとれたと。母親は太郎に謝り、それから親子仲良く暮らしたと。それから大仏山を八石山と呼ぶようになったんだがや。(息がぽーんとさけた)

8号線を長岡市高鳥(たかとり)から、車は山越えの道にかかります。春の花がいたるところで歓迎してくれました。


(八石山系でサンリンソウ?の群生を見つける)

 
オオイワカガミ)         (オオバキスミレ

 
ヒロハテンナンショウ(広葉天南星))       (これはオウレン?)

 
トリガタハンショウヅル(鳥形半鐘蔓))      (これはシャクです)

広い道にはありませんが、一歩わき道に入ると米山薬師如来などの石仏が見られ、道はまもなく峠を越えて柏崎にでます。最後の画像は次回の放浪記で話題になります、勝海舟の実家の「山上」家の門柱の表札です。
でも次はこの山中にかなり生えていたシャクです。ところで、三輪の花が目立ち、帰京して調べたのですが、サンリンソウ(三輪草)ではありませんでした。サンリンソウには葉柄がありますが、ニリンソウ(二輪草)にはありません。とすると、最初の画像は明らかに葉柄がありませんので、三輪でもニリンソウです。


(石仏の間から民家が見えます)

 
(途中寄り道をし、祖先もかかわったから傘連判状の碑に挨拶)

 
(昔は石仏に祈りをこめたのでしょうか)


(勝海舟の子孫は「山上」姓です)

(長岡市~柏崎市)

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春の放浪記(その8)越後丘陵公園

2011-05-28 06:36:11 | 四季
長岡市の西側の丘陵地帯にあります国営越後丘国営公園のホームページで、いまアズマシロガネソウ(東白金草)が見所と載っていましたので、この日は朝から出かけました。敷地面積が400ヘクタールとありますが、尺貫法で育った世代でもありその広さがわからず、換算すると約121万坪となり、我が家と比較するともう何倍なのか計算ができませんでした。
入場してしばらく歩いてから職員にアズマシロガネソウの場所を聞きますと、バスで出かける里山地帯だとわかりました。


(国営越後丘陵公園の入口)

 
(広大な敷地面積の越後丘公園)

 
(雪に耐えて春を待つ、越後絶唱に託し帰ろう山古志へ)

 
(音楽噴水に戯れる子供達)


(長岡市街地方面の遠望)

足腰は高尾山で鍛えていますので、里山区域まで歩けますかと訪ねますと、歩いては無理な距離で、しかもアズマシロガネソウが咲いている所は、奥まった所にあり見えないとのことでした。
100万株のカタクリ(片栗)も時期は過ぎていますし、里山はあきらめバスで展望台に移動することにしました。遠くに雪の守門岳や上越の山々が見えましたが、ややもやがかかり画像で写っていませんでした。
次回は長岡市から柏崎市の間に連なる八石山系を抜けます。


(花の丘はチューリップが満開)

 

 

 

 
(クリーピングタイム)           (ネモフィラも開花)

(長岡市)

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サワハコベ

2011-05-27 05:37:14 | 山野草
ハコベ(繁縷)の識別は苦手で深入りしたくないが、長岡で見たハコベの花びらが変わっている。ハコベは5弁の花びらが深く切れ込み、一見10枚に見えるが、このハコバは昔の糸きり鋏のように、先端が少し切れ込むだけである。
サワハコベとわかったのは。帰京してからのことである。いつも持ち歩く高尾のガイドブックには、ミヤマハコベ(深山繁縷)とともに頻繁に見られる植物に分類されていた。となると高尾山にもかなり生えているはずであるが、見た記憶がない。一昨日は好天に恵まれ高尾を歩いたが、見つかるのはハコベ(繁縷)ウシハコベ(牛繁縷))とミヤマハコベだけであった。


(花びらの先端が少しだけ切れ込む)

 

沢繁縷/ナデシコ科/ハコベ属。
山地の谷沿いの湿地に生える多年草。
茎は地を這い、上部は斜上する。葉は三角状卵形で短い毛があり、上部は葉腋から柄を出し白花を付ける。花弁は5個で先が中裂する。
名前の由来:ハコベの仲間で主に沢に生えることからこの名がついた。
花期:5~7月。
(長岡市小貫)
【山野草の索引(2)へ】

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春の放浪記(その7)小貫

2011-05-26 09:02:59 | 歴史
いよいよ寅太が何者か、明かされる日になりました。
八十里越の先の会津領只見で、河井継之助は長岡から担架に付き添ってきた、一人の男を枕元に呼びました。「寅や、俺が死ねば武士の世は終わる。おみしゃんは商人になって世界をまわりゃい」と遺言しました。
寅の名は外山寅太、すなわち継之助の志を受け継ぎ、関西の財界人になる外山脩造です。脩造は阪神電鉄、アサヒビール、大阪ガスななど数多くの企業を立ち上げました。阪神タイガースも寅からきているとの説もあります。「小貫」と書いて「こつなぎ」が彼のふるさとなのです。
長岡から山を越えたこともあり、羽黒神社の周りにも山野草が多く見られました。


(羽黒神社のエンレイソウ(延齢草)の群生)

 
 (シャガ(射干)             (サワハコベ(沢繁縷))

 
ヒロハテンナンショウ(広葉天南星))(コシノチャルメルソウ(越の哨吶草)

 
(外山家の庭園のツバキ)

小貫は平成の大合併で、栃尾市から長岡市に入りました。上杉謙信公が旗揚げした栃尾城に近く、外山家は苗字帯刀を許された割元庄屋(庄屋を束ねる庄屋)でした。裏山には羽黒神社と瑞雲寺があります。羽黒神社は源義経の勇者として知られる佐藤継信・忠信兄弟の母が、福島からこの地に子供の消息を訪ねてきて建立したと伝わります。
また瑞雲寺には牧野家累代の位牌や、牧野家の雛人形が保管され、冬の長岡の風物詩になりつつある「越後長岡ひなものがたり」では、市民が最も関心がありますお雛さまとして、展示を待ち遠しく思っているんです。
近年、外山脩造が再評価され、その人物の格の違いに、寅太は「ダメ寅」か「寅吉(トラキチ)」へ改名も考えています。そういえば、今年のタイガースはダメ虎かと思われるくらいに低迷しています。もう一度タイガースの黄金時代をつくり、阪神甲子園球場に外山脩造の銅像を再建したいものです。
次回は小貫で見たサワハコベ(沢繁縷)で放浪記は中休みします。


(旧栃尾市に入ると謙信公愛用の兜の前立てが橋の欄干に)

 
(いよいよ歴史の栃尾の里)      (外山家庭園と外山脩造)

 
(外山家庭園)

 
(外山家の茶室外観と庭園の説明)

 
(羽黒神社入口)        (羽黒神社の歴史)

  
(源平の歴史を持つ羽黒神社)    (外山脩造の顕彰碑)

 
(羽黒神社の苔むした石仏群と社内のおなじみ川中島の戦いの奉納絵)

 
(神仏分離までは羽黒神社と一体だった瑞雲寺)

(長岡市)
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シロバナニシキゴロモ

2011-05-25 05:00:49 | 山野草
きょうは普済寺に続き、二つ目の書き込みである。
今回の旅で初めての花に、普済寺の裏山で出会った。ツクバキンモンソウ(筑波金紋草)が主に太平洋側に分布し、ニシキゴロモ(錦衣)は日本海側に分布する。ニシキゴロモはまだ取り上げてないが、その白花種に出会ったことになる。 また高尾でもよく似たオウギカズラ(扇葛)があるが、葉の形が違っている。
ツクバキンモンソウとニシキゴロモは、見た目はほとんど同じで、生えている土地で分けているが、あえて違いを探そうとするなら、唇形花の上唇の長さである。物差持参で花と対峙し、上唇が1mm位ならツクバキンモンソウ、3mm程度ならニシキゴロモである。
さていよいよ次回が、寅太のふるさと小貫(こつなぎ)である。

白花錦衣/シソ科/キランソウ属。
山地の日当たりのよい場所に生える多年草。
葉は長倒卵形で葉柄があり対生し、葉の裏面は紫色を帯びる。上部の葉脇に白色の唇形花を数個付ける。花は2裂する小さな上唇と3裂する大きな下唇を持つ。
名前の由来:葉の裏面の紫色の美しさからこの名がついた。
花期:4~5月。
(長岡市栖吉)
【山野草の索引(2)へ】

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春の放浪記(その6)普済寺

2011-05-25 05:00:21 | 歴史
慈眼寺の訪問が終わり、殿様も新幹線で着かれたころかと電話を入れましたら、東京からこられた数人と、長岡市郊外の栖吉(すよし)にあります普済寺に向かうとのことでした。足はとお聞きすると、ないとのことで急遽運転手(昔なら駕籠かきでしょうか)になることにしました。
普済寺では檀家の役員が、殿様一行をお待ちしておられました。早速、檀家のみなさんと寺の裏山にあります、長岡藩初代牧野忠成公のお墓に向かいました。途中の道端で、ツクバキンモンソウ(筑波金紋草)に似た花が出迎えてくれました。帰京して調べますと、ニシキゴロモ(錦衣)の白花種のシロバナニシキゴロモ(白花錦衣)と思われます。


(高尾では見れないシロバナニシキゴロモ)

長岡藩主初代忠成公の「忠」の文字は、2代将軍徳川秀忠からの一文字を拝領したもので、それ以降の歴代藩主は、「忠」を通し文字にしています。忠成公は将軍から信任が厚く、幕府創設の仕事で江戸を離れることがほとんどありませんでした。でも遺言は長岡が見える普済寺に埋めよとのことでした。
上杉謙信の母は栖吉城主の娘の虎御前で、戦国からの歴史を持つ、栖吉の檀家のみなさんの結束は固く、殿様一行はみなさんから暖かい歓迎を受けることになりました。
採れたての山菜料理は、ウド、コゴミ、アケビのつる、ワラビ、タケノコ、ミズナ、キノコ、アサツキ、コンニャクなどでした。それに日本酒は長岡の久保田でしたが、運転手はただ見るだけでした(駕籠かきはがまんです)。訪問した全員が、心のこもったもてなしに感激し、初代忠成公のねむる普済寺を後にしました。


(牧野家菩提寺の普済寺)

 
(山門と忠成公の五輪塔前で記念撮影:画像は拡大できません)

 
(寺から忠成公墓地への急な階段)


(檀家のみなさんが精魂込めて作った山菜料理)

(長岡市)

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春の放浪記(その5)慈眼寺

2011-05-24 05:40:59 | 歴史
関越高速道で魚沼市を過ぎますと、中越地震の震央となった川口町に入ります。平成の大合併で、地震後に長岡市に入りましたので、この飛び地のような川口町を抜けてから慈眼寺のあります小千谷市に入ります。
寅太はご縁があって、慈眼寺の復興支援を続けていますが、元来は中越に入った一人の東京のボランティアでした。
寺の裏庭にはゆく春を惜しむようにツバキの花が満開でした。


(慈眼寺の裏庭に咲く赤いツバキ)


(裏庭の白いツバキ)

国内戦争を憂えた河井継之助は、戊辰戦争が始まる前に藩主と京に向かい、、和平の嘆願書を朝廷に提出しました。しかし戊辰戦争が始まるや、ガトリング砲(機関砲)など最新の武器で武装し、中立の立場を鮮明にしました。西軍が日本海沿いに会津に進軍するには、長岡藩を通らねばなりません。慶応3年5月2日に、継之助は二見虎三郎だけをつれ、小千谷に入り西軍と談判しました。西軍の答えは会津攻めの先鋒になるか、あるいは戦うかの選択しか許さず、新政府と幕府の間に入って、戦わずに和解を進めるという道は与えてくれませんでした。河井継之助の生涯は、司馬遼太郎の「峠」で全国に知られています。
慈眼寺は真言宗智山派ですが、同じ智山派で有名な寺は関東にたくさんあります。高尾山薬王院、高幡山金剛寺、川崎大師平間寺、成田山新勝寺などです。


(河井継之助が和平を願った会見の間)

 
(慈眼寺の仁王門)         (会談の説明)

 
(全壊から復興した本堂)        (歴史ある観音堂)

 
(長岡藩家老河井継之助  vs  西軍軍監岩村精一郎

 
(徳川綱吉奉納の金扇子)

 
(河井継之助愛用の蓮月尼の茶碗

 
河井継之助の生涯唯一の師である山田方谷の書)


(慈眼寺は曹洞宗智山派)

(小千谷市)

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春の放浪記(その4)栄凉寺

2011-05-23 01:25:03 | 歴史
長岡藩士だった先祖を持つ家の墓が多くあります寺は、栄凉寺、長興寺や安善寺などです。特に栄凉寺は藩主牧野家の菩提寺で、その歴史は三河の牛久保まで遡ります。訪れた栄凉寺の墓地にひときわ大きなハナミズキ(花水木)に花が満開でした。


(ハナミズキの大木には花が満開です)

墓地の中央にある牧野家の墓を囲むように、かっての家臣の墓があります。墓地入口の文政11年(1812年)11月12日に起きた文政大地震供養塔が目を引きます。
一般の人のお参りが多いのは、墓地の奥にある河井継之助の墓です。河井継之助と非戦派の小林虎三郎はいまでも、歴史ファンを二分していますが、玄人好みは二人ではなく、長岡の復興に尽力した三嶋億次郎だと思います。
慈眼寺の談判で、河井継之助にただ一人同行した二見虎三郎は、会談の内容を黙して語りませんでしたが、墓もひっそり建っています。


(長岡藩関係者のお墓が多い栄涼寺)

 
(牧野家代々の墓)           (戦没者供養塔)

 
(安政の大地震供養塔)

 
(歴史ファンが多く訪れる河井継之助の墓)

 
(長岡復興につくした三嶋億次郎の墓) (会談の謎を知る二見虎三郎の墓)

(長岡市)
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