庭のコシノコバイモ(越の小貝母)は、いつもは雪に当たらない所にあるのですが、雪国を思い出すように外に出してやりました。メジロもきょうは餌探しの心配もなく、助かっていることでしょう。 (寅太の庭)
未明から降り出した雪は、もう15cmも積もったでしょうか。3月の大雪と書きたいところですが、きょうはうるう年の2月29日です。
庭のコシノコバイモ(越の小貝母)は、いつもは雪に当たらない所にあるのですが、雪国を思い出すように外に出してやりました。メジロもきょうは餌探しの心配もなく、助かっていることでしょう。 (寅太の庭)
庭のコシノコバイモ(越の小貝母)は、いつもは雪に当たらない所にあるのですが、雪国を思い出すように外に出してやりました。メジロもきょうは餌探しの心配もなく、助かっていることでしょう。 (寅太の庭)
朝から始まった全国藩校サミットin水戸は、弘道館での旧藩御当主会議、水戸芸術館での藩校サミットを終わり、夕方からはサミット参加者の交流会が行われました。会場は水戸駅から南西に5kmほどの位置にある水戸プラザホテルでした。
水戸芸術館からバスでホテルへ移動でしたが、途中で左手に千波湖が広がっていました。水戸城の北は那珂川、南は千波湖で、自然を生かした守りになっています。また千波湖の反対側の高台に、偕楽園の好文亭が見えました。
翌日は視察研修が行われるのですが、都合があり水戸駅を後にしました。 (水戸市)
水戸芸術館からバスでホテルへ移動でしたが、途中で左手に千波湖が広がっていました。水戸城の北は那珂川、南は千波湖で、自然を生かした守りになっています。また千波湖の反対側の高台に、偕楽園の好文亭が見えました。
(藩校サミットが無事終了し、各藩御当主にも笑顔がみられます)
翌日は視察研修が行われるのですが、都合があり水戸駅を後にしました。 (水戸市)
藩校サミットは水戸駅から北西に1kmほどの、水戸芸術館で開催されました。当日は茨城県知事を初め多数の来賓を迎え、会場は満員の盛況でした。
藩校サミットは1年前の東北大震災により延期となっていましたが、まだ復興途上ではありますが、水戸市民の熱意が伝わってくるサミットになりました。この日に合わせ、梅の名所の偕楽園も復興からオープンになったようです。
「むかし中国に伯夷と叔斉の王家の兄弟がいた。伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に王位を譲ることを伝えられた兄の伯夷は、遺言を守り叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差しおいて王に就くことを良しとしなかった。伯夷は国を捨て他国に逃れたが、叔斉も兄を追って国をでた。・・・」
テレビの水戸黄門(徳川光圀)でも、黄門様は自らのことを、かなりの悪がきであったと告白していますが、18歳で史記列伝を読み、その後は行いを改め立派な第2代藩主になったようです。光圀は兄頼重とは同じ母を持っていますが、弟の光圀が水戸藩の跡取りとなり、兄は高松藩の藩主になりました。史記列伝に感銘していた光圀は、兄の息子綱條を水戸の第3代藩主にし、自らの息子頼常に高松藩を継がせました。
兄弟が家督を争うことが多い時代に、光圀は見事に義理をたてたことになります。
水戸では光圀のことを「義公」と呼んでいます。また史記列伝には「彼(か)の西山に登り・・・」とありますが、ここから隠居所を西山荘と付けたのでしょう。 (つづく)
藩校サミットは1年前の東北大震災により延期となっていましたが、まだ復興途上ではありますが、水戸市民の熱意が伝わってくるサミットになりました。この日に合わせ、梅の名所の偕楽園も復興からオープンになったようです。
(進行はNHK水戸局アナウンサー) (全国の藩校ゆかりの殿様紹介)
「むかし中国に伯夷と叔斉の王家の兄弟がいた。伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に王位を譲ることを伝えられた兄の伯夷は、遺言を守り叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差しおいて王に就くことを良しとしなかった。伯夷は国を捨て他国に逃れたが、叔斉も兄を追って国をでた。・・・」
テレビの水戸黄門(徳川光圀)でも、黄門様は自らのことを、かなりの悪がきであったと告白していますが、18歳で史記列伝を読み、その後は行いを改め立派な第2代藩主になったようです。光圀は兄頼重とは同じ母を持っていますが、弟の光圀が水戸藩の跡取りとなり、兄は高松藩の藩主になりました。史記列伝に感銘していた光圀は、兄の息子綱條を水戸の第3代藩主にし、自らの息子頼常に高松藩を継がせました。
兄弟が家督を争うことが多い時代に、光圀は見事に義理をたてたことになります。
水戸では光圀のことを「義公」と呼んでいます。また史記列伝には「彼(か)の西山に登り・・・」とありますが、ここから隠居所を西山荘と付けたのでしょう。 (つづく)
藩校サミットin水戸は1回休みです。
雪国の春はまだ雪の下と思われますが、雪国にルーツを持つ我が家の庭の花は、咲き始めています。コシノコバイモ(越の小貝母)は、春を待ちきれないのか1輪だけ顔を出しました。いつもは下を向いて咲くのですが、茎も伸ばさずに上を向いて咲いてしまいました。 (寅太の庭)
雪国の春はまだ雪の下と思われますが、雪国にルーツを持つ我が家の庭の花は、咲き始めています。コシノコバイモ(越の小貝母)は、春を待ちきれないのか1輪だけ顔を出しました。いつもは下を向いて咲くのですが、茎も伸ばさずに上を向いて咲いてしまいました。 (寅太の庭)
水戸城はかっては佐竹氏の城でしたが、関ヶ原の戦いの責任を問われ、秋田に転封になりました。戦略的に重要な地でしたので、家康の5男武田信吉、10男徳川頼宣(紀州徳川家の祖)を経て、11男の徳川頼房が城主となりました。
歴代藩主の中で、特に有名なのは第2代の徳川光圀で、水戸の黄門さまとして知られています。光圀の大きな業績は大日本史の編纂を手掛けたことで、事業が本格化したのは光圀が西山荘に隠居してからのことです。この事業は代々の藩主に引き継がれ、完成したのは明治になってからでした。隠居所の西山荘は、水戸から北へ20kmほどの常陸太田市にあります。
水戸城の北には那珂川が流れ、非常時には天然の要塞になるとともに、平時は舟が往復したものと思われます。学校に御三階櫓の写真がありましたが、かっての展望もこんなだったのでしょうか。 (水戸市)
歴代藩主の中で、特に有名なのは第2代の徳川光圀で、水戸の黄門さまとして知られています。光圀の大きな業績は大日本史の編纂を手掛けたことで、事業が本格化したのは光圀が西山荘に隠居してからのことです。この事業は代々の藩主に引き継がれ、完成したのは明治になってからでした。隠居所の西山荘は、水戸から北へ20kmほどの常陸太田市にあります。
(空堀にかかる大手橋を渡ると、土塁で堅固な枡形になっています)
水戸城の北には那珂川が流れ、非常時には天然の要塞になるとともに、平時は舟が往復したものと思われます。学校に御三階櫓の写真がありましたが、かっての展望もこんなだったのでしょうか。 (水戸市)
長岡駅が長岡城の本丸にあるのに似て、水戸駅も水戸城の近くにあります。城の付近を散策するために、藩校サミットの開催時間に2時間ほど余裕を持って水戸駅に降りました。藩校の弘道館や水戸城は、歩いて10分ほどの所にあります。
弘道館は東日本大震災の被害を受け、いまだ内部は公開されていません。本日は特別にここで藩主の会議があり、着いた時には、藩主がバスでサミット会場に移動するところでした。 水戸藩の藩校は、第9代藩主徳川斉昭公により、天保12年(1841年)に創設された弘道館です。歴史は意外に新しいのですが、藩校の規模は最大で、特筆すべきはこの藩校から、第15代将軍の徳川慶喜公が育ったことでしょう。 (水戸市)
弘道館は東日本大震災の被害を受け、いまだ内部は公開されていません。本日は特別にここで藩主の会議があり、着いた時には、藩主がバスでサミット会場に移動するところでした。 水戸藩の藩校は、第9代藩主徳川斉昭公により、天保12年(1841年)に創設された弘道館です。歴史は意外に新しいのですが、藩校の規模は最大で、特筆すべきはこの藩校から、第15代将軍の徳川慶喜公が育ったことでしょう。 (水戸市)
雪国に出かける前のミスミソウ(三角草)は蕾でしたが、帰ってくると咲いていました。
数年前に山野草に詳しい人から譲り受けたのですが、津久井産だという白い品種です。津久井も広いので、どこかに自生していそうですが、見たことはありません。山梨で自生している品種も、よく似た白花のミスミソウです。
数年前に山野草に詳しい人から譲り受けたのですが、津久井産だという白い品種です。津久井も広いので、どこかに自生していそうですが、見たことはありません。山梨で自生している品種も、よく似た白花のミスミソウです。
(寅太の庭)