高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

今朝から大雪

2012-02-29 10:06:54 | できごと
未明から降り出した雪は、もう15cmも積もったでしょうか。3月の大雪と書きたいところですが、きょうはうるう年の2月29日です。
庭のコシノコバイモ(越の小貝母)は、いつもは雪に当たらない所にあるのですが、雪国を思い出すように外に出してやりました。メジロもきょうは餌探しの心配もなく、助かっていることでしょう。


(雪の中のコシノコバイモ)

 
(いつも庭にくるメジロ)

(寅太の庭)

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藩校サミットin水戸(その7:最終回)

2012-02-28 09:01:09 | 歴史
朝から始まった全国藩校サミットin水戸は、弘道館での旧藩御当主会議、水戸芸術館での藩校サミットを終わり、夕方からはサミット参加者の交流会が行われました。会場は水戸駅から南西に5kmほどの位置にある水戸プラザホテルでした。
水戸芸術館からバスでホテルへ移動でしたが、途中で左手に千波湖が広がっていました。水戸城の北は那珂川、南は千波湖で、自然を生かした守りになっています。また千波湖の反対側の高台に、偕楽園の好文亭が見えました。


(バスから偕楽園の好文亭が見えました)

 
(交流会の水戸プラザホテルは水戸駅から南西に5kmほど)


(交流会のプログラム)

 
(歓迎挨拶は水戸藩当主徳川斉雅正様と結城藩当主水野勝之様)

 
(来賓祝辞の徳川宗家徳川恒孝様と交流会風景)


(交流会の献立です)


(藩校サミットが無事終了し、各藩御当主にも笑顔がみられます)

旧各藩で最も参加者の多かった藩は地元の結城藩で、次が庄内藩でした。我が長岡藩は僅差の3位で、徳川宗家と水戸徳川家の御当主に入ってもらい記念撮影になりました。
翌日は視察研修が行われるのですが、都合があり水戸駅を後にしました。

 
(長岡藩の記念撮影)         (帰りの水戸駅)

(水戸市)

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藩校サミットin水戸(その6)

2012-02-27 09:09:36 | 歴史
    (つづき)
藩校サミットの特別講演の後は、市民や小学生によります素読の発表がありました。いうまでもなく水戸藩の藩校は弘道館ですが、水戸藩の特徴は、学びの弘道館だけでなく、癒しの偕楽園を持っていることでしょう。


(弘道館記と偕楽園記の素読発表)

 
(「弘道館記」弘道館記素読の会)    (「偕楽園記」五軒小学校児童)

 
(全国最大規模の藩校「弘道館」)

「弘道」とは何ぞ。よく道を弘むるなり。

 
(癒しの空間「偕楽園」)

天には月日あり。地には山川がある。そして万物にはすべて陰と陽がある。弓に例えれば、弦を張るときと外して緩めるときがある。そこで弘道館だけでなく、偕楽園を造った。藩主と領民の多くの者が、楽しみを同じくするところから偕楽園と名付けた。

 
(水戸宣言を採択し、藩校の殿様が署名)

 
(次回は鹿児島、水戸徳川様から鹿児島島津様に引き継ぐ)

(水戸市)

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藩校サミットin水戸(その5)

2012-02-26 07:57:10 | 山野草
藩校サミットは水戸駅から北西に1kmほどの、水戸芸術館で開催されました。当日は茨城県知事を初め多数の来賓を迎え、会場は満員の盛況でした。
藩校サミットは1年前の東北大震災により延期となっていましたが、まだ復興途上ではありますが、水戸市民の熱意が伝わってくるサミットになりました。この日に合わせ、梅の名所の偕楽園も復興からオープンになったようです。


(藩校サミットin水戸は「江戸の学びと水戸の学び」)

 
(会場は水戸芸術館)


(冊子の表紙は全国で最も大きな藩校であった弘道館)

 
(進行はNHK水戸局アナウンサー)   (全国の藩校ゆかりの殿様紹介)

 
(記念講演Ⅰ:徳川恒孝氏)        (記念講演Ⅱ:石川忠久氏)

 
(水戸藩徳川家第15代当主が徳川光圀を語る)

徳川宗家の徳川恒孝氏は、「地方自主と質素倹約の時代」の題名で講演されました。「全国に独立したたくさんの国(藩)があり、それぞれの藩で独立して領地を治めていた。江戸時代の300年間は、この間戦争もなく世界的に見ても、平和な時代であった。各藩には藩校や寺小屋があり、世界のどの国よりも極めて高い教育水準にあった。」

 
(水戸徳川家系譜)

石川忠久氏の史記列伝(伯夷列伝)とは、
「むかし中国に伯夷と叔斉の王家の兄弟がいた。伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に王位を譲ることを伝えられた兄の伯夷は、遺言を守り叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差しおいて王に就くことを良しとしなかった。伯夷は国を捨て他国に逃れたが、叔斉も兄を追って国をでた。・・・」


(石川忠久氏の史記列伝)

テレビの水戸黄門(徳川光圀)でも、黄門様は自らのことを、かなりの悪がきであったと告白していますが、18歳で史記列伝を読み、その後は行いを改め立派な第2代藩主になったようです。光圀は兄頼重とは同じ母を持っていますが、弟の光圀が水戸藩の跡取りとなり、兄は高松藩の藩主になりました。史記列伝に感銘していた光圀は、兄の息子綱條を水戸の第3代藩主にし、自らの息子頼常に高松藩を継がせました。
兄弟が家督を争うことが多い時代に、光圀は見事に義理をたてたことになります。
水戸では光圀のことを「義公」と呼んでいます。また史記列伝には「彼(か)の西山に登り・・・」とありますが、ここから隠居所を西山荘と付けたのでしょう。   (つづく)

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春の訪れ

2012-02-25 08:47:45 | 山野草
藩校サミットin水戸は1回休みです。
雪国の春はまだ雪の下と思われますが、雪国にルーツを持つ我が家の庭の花は、咲き始めています。コシノコバイモ(越の小貝母)は、春を待ちきれないのか1輪だけ顔を出しました。いつもは下を向いて咲くのですが、茎も伸ばさずに上を向いて咲いてしまいました。


(上を向いて1輪だけ咲いたコシノコバイモ)

 
コシノカンアオイ))          (ショウジョウバカマ

(寅太の庭)

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藩校サミットin水戸(その4)

2012-02-24 08:11:41 | 歴史
水戸城は水戸駅からあまり離れていませんが、水戸東照宮はもっと近く駅の左手前にあります。江戸時代に各地の大名は競って、徳川家康ゆかりの東照宮を各地に造りました。
水戸観光の最後は、駅前の銀杏坂にある水戸東照宮です。歴史は一日休んで、明後日はいよいよ藩校サミットです。


(水戸駅に近くにある水戸東照宮の参道)

 
(徳川家康と水戸藩初代頼房を祀る水戸東照宮)

 
(地元の酒は天下一品から「一品」)

 
(幕末の藩主斉昭公考案の戦車)

 
(灯篭はまだ震災から復旧中)      (茨城出身の野口雨情の記念碑)


(水戸の歴史と近代化を見てきた銀杏坂のイチョウ)

(水戸市)

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藩校サミットin水戸(その3)

2012-02-23 09:00:15 | 歴史
水戸城はかっては佐竹氏の城でしたが、関ヶ原の戦いの責任を問われ、秋田に転封になりました。戦略的に重要な地でしたので、家康の5男武田信吉、10男徳川頼宣(紀州徳川家の祖)を経て、11男の徳川頼房が城主となりました。
歴代藩主の中で、特に有名なのは第2代の徳川光圀で、水戸の黄門さまとして知られています。光圀の大きな業績は大日本史の編纂を手掛けたことで、事業が本格化したのは光圀が西山荘に隠居してからのことです。この事業は代々の藩主に引き継がれ、完成したのは明治になってからでした。隠居所の西山荘は、水戸から北へ20kmほどの常陸太田市にあります。


(空堀にかかる大手橋を渡ると、土塁で堅固な枡形になっています)

 
(土塁の内側は茨城大学付属小学校)

 
(水戸第二中学校の敷地内にある大日本史編纂の地と彰考館跡)

旧水戸城内には、学問編纂の地に相応しく、今は茨城大学付属小学校、水戸第二中学校、水戸第三高校などが建ち、学問の府となっています。水戸駅で第二中学校の生徒も、歓迎の横断幕を持っていたことから職員と知り合い、特別に屋上に案内していただきました。
水戸城の北には那珂川が流れ、非常時には天然の要塞になるとともに、平時は舟が往復したものと思われます。学校に御三階櫓の写真がありましたが、かっての展望もこんなだったのでしょうか。


(旧水戸城内はほとんどが学校の敷地です)

 
(徳川光圀公と水戸家の系譜)

 
(水戸第二中学校の屋上から那珂川方面の眺め)


(太平洋戦争の水戸空襲で焼失した御三階櫓)

(水戸市)

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藩校サミットin水戸(その2)

2012-02-22 09:46:43 | 歴史
長岡駅が長岡城の本丸にあるのに似て、水戸駅も水戸城の近くにあります。城の付近を散策するために、藩校サミットの開催時間に2時間ほど余裕を持って水戸駅に降りました。藩校の弘道館や水戸城は、歩いて10分ほどの所にあります。
弘道館は東日本大震災の被害を受け、いまだ内部は公開されていません。本日は特別にここで藩主の会議があり、着いた時には、藩主がバスでサミット会場に移動するところでした。


(お馴染みの黄門さまと助さん角さんが水戸駅前でお出迎えです)

 
(モダンな水戸駅と駅前のビル)

 
(水戸城三の丸に建つ藩校の弘道館)

水戸藩の藩校は、第9代藩主徳川斉昭公により、天保12年(1841年)に創設された弘道館です。歴史は意外に新しいのですが、藩校の規模は最大で、特筆すべきはこの藩校から、第15代将軍の徳川慶喜公が育ったことでしょう。


(弘道館を囲む白壁の屋根に残る地震の傷跡)

 
(水戸城の大手橋と水戸城の説明)

 
(水戸の初代藩主徳川頼房)       (2代藩主が徳川光圀)


(水戸駅のすぐ近くに水戸城があります)

(水戸市)

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藩校サミットin水戸(その1)

2012-02-21 08:50:01 | 歴史
先週の2月18日、水戸において第10回全国藩校サミットが開催され、参加してきました。本来なら昨年に開催の予定でしたが、東日本大震災の影響で、1年延期になりました。
訪れた水戸市内は、震災から復興の真っただ中ににあり、藩校の弘道館も復興工事の途中でした。梅の名所の偕楽園は、藩校サミットの開催日に合わせ、ほぼ1年ぶりに開園したようでした。


(藩校サミットin水戸の横断幕を持つ中学生)

 
(大勢で歓迎の水戸駅)         (藩校サミットの会場)


(藩校サミットに全国から集まった旧藩主のみなさん)

(水戸市)

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関東産?の白色のミスミソウ

2012-02-20 11:11:32 | 山野草
雪国に出かける前のミスミソウ(三角草)は蕾でしたが、帰ってくると咲いていました。
数年前に山野草に詳しい人から譲り受けたのですが、津久井産だという白い品種です。津久井も広いので、どこかに自生していそうですが、見たことはありません。山梨で自生している品種も、よく似た白花のミスミソウです。


(咲いていた白いミスミソウ)

 
(出かける前はまだ蕾でした)


(今朝のメジロ 2012.02.20)

(寅太の庭)

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